かれの中でなにかが変化したのは、地球と呼ばれる星にやってきたときだ。
宇宙へと人類がとびだしてからしばらくたつ。
相対的な地位は落ちたものの、地球はいまだ連盟の首都であり、なにより人が心にいだく原初のふるさとのイメージそのものでありつづけていた。
かれはフリーランスの仕事のために、人類の故郷を訪れることになった。
それまでの経歴から考えると、いままで縁のなかったのが不思議なくらいなのだが、かれはそれまで地球に来たことがなかった。
はじめて間近に地球を見たときに、その青さにかれは息を止めた。
色の鮮やかさやそのうちに含まれるゆたかな生命の存在にではない。心の中にあったある惑星の海の色に、驚くほどに似ていたからだ。
マルト・ディムナス。
忘れたと思っていた記憶がつぎつぎによみがえるのに、かれは呆然と身をゆだねていた。
なんの憂いもなく、ただ目の前の楽しいことだけを考えていられたわずかな幼い日々。
かれは父親の仕事について行き、大きな船に乗せてもらったことが嬉しかった。
そして母親とともにした畑仕事。あのとき教えてもらった草木の名前は、もう思い出すこともできないが、くちから白い歯がこぼれそうな笑顔は鮮明だった。
潮の香りを含んだしめった風とともにやってくる暗い雲。
空が引き裂かれるような轟音とともに、激しく空気を揺すぶる雷鳴。
雨がしみとおった大地の黒々とゆたかなこと。
夜露に濡れた葉がきらきらと陽光を反射する、明け方の神殿の庭。
湿度の低い晴れた日の、どこまでも高い空。
そこに太い筆でぐいと掃かれたようなシャトルの雲。
悲しさや悔しさ、もどかしさなどの、その後に味わったさまざまなつらい感情をすべてぬぐい去った、とても身近な、なのに奇妙に遠い感覚。
かれはあのころ、全身で世界を感じていた。
自分が生まれ落ちた世界に、心地よく浸ってのびのびと両手を伸ばしていた。
かれはじぶんをとりまくあの惑星を愛していた。
その存在のあまりの大きさに、失ったことにもいままで気づけずにいた。
かれにとりついていた喪失感の正体は、これだったのだ。
それをいっそうつよく感じることになったのは、北の海に足を延ばしたときだ。
かれを含むマルト・ディムナスの人々をこの世に送り出すこととなった血脈が、遠い昔に生きていたのは、ろくに木も生えないような冷たい風の吹き荒れる島だった。
季節がら太陽の望めない、どんよりした低い雲の下、滅入るような光景がつづいていた。
祖先が移築に固執したために、島にはほとんど建物が残っていなかった。あるのは古い塚と、恐れ多さから掘り返されることのなかった墓の群。そして、土台まで掘り返された、建築物の残した大きなくぼみ。まわりに枯れかけた草がわずかばかり生えているだけの光景が眼にうつるすべてだった。
近海にある地下資源の採掘現場は、事故後、手つかずのまま放置されていた。
住民が去った後、ここに住もうとやってくるものはいなかった。
海鳥の姿すら、目にすることができない。生の気配の絶えた島。
その答えは、海が語っている。
暗く沈んだ色の海面に浮いているぎらつくような異質な輝き。
潮の香りに混じって、べつの不快な匂いが鼻孔を刺激する。血の気がひくような冷たさが、全身におしよせてくる。
かれはこの土地で自分を解放することはできないと悟った。
それは、はからずも祖先のだした結論とおなじものだった。
かれのふるさとはここではなく、はるか彼方の宇宙に存在していた。
かれはその惑星に属していた。
むかしも、いまも、これからも。
そのとき、最初の発作がかれを襲った。