あのときの自信なげなようすは、いまの彼女からは推し量ることもできない。
 かれは体調と相談しながら、ときには無理を押して、ようよう故郷にたどり着いたところだった。
 夕暮れの湖を見下ろす丘にたたずむ人影に、好奇心を起こして近づいていった。そこにいたのが、彼女だった。
 アイリーン・カリス。
 かれは彼女の素性にすぐに気づいた。
 途中で目にした情報メディアでさんざん取りあげられていたのが、皇太子の恋だったからだ。
 彼女は成長して若い女性になっていた。皇太子が生涯の伴侶にと望むのもとうぜんとおもわれるほどに魅力的になってもいた。
 十数年前にステーションで出会ったときのことは、ふたりともすっかり忘れていた。
 だが、彼女は物憂げな顔をして、自分の手に余るものごとのながれについて、思いをめぐらしているようだった。いま思うと、初めて会ったときのように。
 そのときかれは、皇太子が彼女に結婚を申し込んだことをすでに知っていたので、不思議な気持ちがしたものだ。
 かれは皇太子にじかに会うような立場ではなかったが、マルト・ディムナスの国民ならだれもが感じるように、世継ぎの王子に好感を抱いていた。
 派手なところはなにもない実直で堅実な人柄は、現国王よりも手堅さと人望の厚さでは評価が高かった。
 女性についてのうわさは、ほとんど流れたことがない。これについては多少懸念の声もあがっていたが、少年のころから胸にただひとりを住まわせていたとなれば、致し方のないことだったといえるかもしれない。
 国民はそのとき、皇太子の恋の行方をひそかに、あるいは興味本位で応援していた。
 だれもが彼女の反応を期待を込めて見守っていたのだ。
 そのときの彼女をとりまいていたのは、静かな熱狂だった。
 だが、彼女は、幸せを手に入れる資格がはたして自分にあるのかはかりかねているようだった。
 彼女が皇太子に対して抱いているのはとうてい恋情とよべるものではなかった。そのことが、すべてを彼女に預けようとする皇太子へのひけめになっていたのだろう。
 思いやりから、本心をさらけ出すことのできない女がそこにいた。
 あいまいで根拠の薄い気持ちを言葉にすることも顔に出すこともできないくるしさが、かれの目にははっきりとうかびあがって見えた。
 おそらく、皇太子は彼女のすべてを希望的見地からうけとめたであろうし、彼女はずっとあいまいなままに過ごしてきたのにちがいない。
 なぜ皇太子には彼女の痛みがわからないのかと思いかけ、世継ぎの青年にはそのちからはないのだとかれは気づく。王となるべく定められた存在には、たとえちからを操る素質があったとしても、巫覡たちのようにそのわざに磨きをかけることは許されない。
 しかも、いまの皇太子には、ちからそのものが不足している。
 そのために祖母はかれのちからを利用しようとしたのだ。
 祖母の計画の両端に存在する親近感からか、かれは王となる青年をほとんど自分の分身のように感じていた。
 彼女が皇太子を愛していないことが、自分のことのようにつらかった。
 彼女が苦しんでいるさまも、理由も、皇太子にはつたわらないのがいっそう悲しかった。
 それでも彼女は一度は申し入れを受けようと決心していた。
 養い親である国王夫妻や、姉妹のようにそだてられてきた王女たち、彼女がすごしてきた環境にすこしでも波風を立てたくないという思いが、自分の煮え切らない気持ちをわがままとも思わせたのだ。
 これまで物事を流れのままにまかせてきた神殿は、そのまま、皇太子と巫女アイリーン・カリスの婚約を認めるかと思われた。
 ところが、彼女は出会ってしまったのだ。
 巫女として修練し、経験も積んだいまでは、彼女のちからもそれなりに増していた。
 湖によく似た色の瞳が、かれを認め、かれの内に刻み込まれた運命を読みとっていく。
 そのときは出会ったことに感謝の気持ちを抱きこそすれ、彼女の人生におだやかならざる波紋を投げかける気など、毛頭なかった。
 かれはすでに一の巫女に計画に参加することを伝えていた。
 見納めにと、マルト・ディムナスのあちこちを散策していたかれにとって、アイリーンと出会ったのは、いわば偶然だったのだ。
 数日後、神殿による婚約否認とアイリーンの軟禁を知らされて、かれはひどく驚いた。
 その措置が自分と関連づけてなされたものであったとなれば、なおさらである。
「本人の了解は得ています」
 一の巫女からは、信じがたい答えが返ってきた。
 かれはこれから身を投じることになる計画の全貌を、あえて知ろうとしてこなかった自分を恥じた。
 かれはこの惑星に文字通り、生き埋めとなる覚悟で戻ってきた。
 かれの精神にとって肉体はすでに重荷に等しいものとなっていたからだ。
 だからといって、すぐさま身体を放棄できるほどに、生きることに対する執着が薄れているわけではなかった。かれの肉体は、まだ、かれの所有する唯一の財産だ。
 勝手に利用など、されたくはなかった。
 予想されたことではあるが、一の巫女はかれの抗議にとりあわなかった。
 祖母の意識には、かれのちからをこのまま一代で終わらせることへの罪悪感ばかりが存在するのだろう。
 マルト・ディムナスは小国だ。
 特殊なちからを備えた人材により、自衛のための手段を幾重にも講じているものの、ちからは無尽蔵ではない。
 いつ能力者が絶えて、無防備なままにさらけだされることがないとは言い切れない。
 杞憂とはいえない一の巫女の予見は、神殿全体が共有しているものだった。
 そしてアイリーンも――カリスの巫女名を頂く彼女も、そのヴィジョンを共有する一員だったのだ。
 彼女の家系は優秀な能力者を多く排出していた。彼女の卵子の相手は神殿によってかなりまえから吟味されていた。皇太子の求婚は神殿にとっても渡りに船だったのだ。歴史から見ても王家には多くの偉大な能力者の遺伝子が残されているはずだ。
 アイリーンの運命を変えたのは、かれの帰還だった。

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