「私は後悔していないの」
 小さくはあったがきっぱりと言い切った、その声をじぶんの耳で聞いた。そのとき、かれはめまいに似た感情を味わった。
 彼女の気持ちを疑ったことはなかった。疑おうにもそれが不可能なほどに、かれのちからは彼女のすべてを感じさせていたからだ。
 だが、彼女自身からこんなにはっきりとした意思表示をされたことは、いままでなかった。
 自分はどこかで不安をぬぐい去れずにいたのだと思い知り、かれはおのれの小ささをいまさらのように嗤った。
 いかに人にあるまじきちからが備わっていようと、かれはただ、人間にすぎないのだ。
 そのことをこれほどわかりやすく教えてくれる存在は、彼女しかいなかった。
 彼女は、かれを恋人として愛していたわけではない。
 ひとりの人間として凝視め、存在を憐れんでくれただけだ。
 かれと皇太子との境界線は、ごくわずか。
 たがいの存在に自分を大きく投影して見ることができ、それぞれの思うところが非常に似通っていて、つまりは彼女がかれという人物に深く共感したという、それだけの違いだった。
 果たして、そんなことがこれからの人生を左右する大きな決断に結びついてもよいものだろうか。
 皇太子の熱烈さにくらべて、ふたりのあいだにあるものは、親密ではあるがいってみれば家族のような一体感だ。
 かれの懸念に、しかし彼女は引こうとはしなかった。
「私もこの惑星(ほし)を愛しているのよ」
 それはどういう意味だと、尋ねてみたい気分をかれは押しとどめた。
 おだやかな、まるで女神のような慈愛にあふれたまなざしが、かれをじっとみつめていたからだ。
 彼女のうかべている表情のなかに、どれほど多くの感情がふくまれていたことか。
 それをすべて説明することは、いかにかれであっても不可能だったろう。
 かれは彼女の腕のなかにいだかれている自分を感じた。
 たとえ、彼女が信じていることがただのまやかしであったとしても、いまの彼女の真実であることにかわりはない。自分にとってそれはありがたいことだと、かれは思う。純粋な思いにつけこむような気がして後ろめたかったが、そのことはアイリーンにもわかっているはずだった。
 彼女はかれの負ってきた傷をすべて癒そうとするかのように、肉のそげた頬に手をふれた。そっと。
「私が母親では嫌だというなら、遠慮なく言ってちょうだい」
 かれは、くびをふるしかなかった。




 神殿はすべてを秘密裏に、人々の目の届かぬところで進めようとする。
 確かに神殿はマルト・ディムナスの人々のために存在している。だがそれは、けしてひとりのマルト・ディムナス人に奉仕するためではなかった。
 その証拠に神殿は、どこからか妊娠の事実が漏らされ、世間の非難を一身に浴びるようになっても、アイリーンの名誉のためにはひとことたりとも物言おうとはしなかった。神殿は沈黙しつづけ、黙することで態度をあきらかにしてみせているつもりのようだった。
 皇太子の絶望と怒りが、国王夫妻の憂慮の念が、青い海にすら暗い影を落としているように感じられるほどになっているというのに。
 ところがかれは、それまでがただの前兆であったことを示すように、急速に肉体を衰えさせていた。一時は自力で起きあがることもできなくなり、そのことで予想以上に打ちのめされて、恥ずかしながら、アイリーンのことまで思いやる余裕もなかった。
 必要なものはすべてあたえられ、ただ、外出の許可だけは得られないままに、彼女は数ヶ月を軟禁されたまま過ごした。神殿外に籍を置くもので会うことを許されたのは、双子の王女とその子供たちだけだ。
 身内の無情な仕打ちに、孤独な彼女はなにを考えていたのだろう。
 自分の選択に後悔はしないと、彼女は言った。
 だが、彼女の身のうちにはぐくまれている生命にとって、待ち受けている運命がどういうものになりうるかを、推測してみることくらいはしただろう。
 じぶんは選択を許されたと彼女は思っていた。子供にそれが許されるだろうか。
 おそらくそうして、彼女はもうひとつの選択をすることになったのだ。

Copyright © 2002- Yumenominato. All Rights Reserved.