夜半の闇は、あかりのなきがゆえにさらに濃く、黒く変化した。
騎士は寝台のうえで、剣の鞘を手にあおむけに横たわっていたが、眠りにはおちず、まんじりともせずに刻をすごしている。
部屋の鎧戸は閉ざされ、月影もささぬ。森のなかに建つ館であるはたしか。だが、鳥や獣の気配もない。
死に絶えたがごとき沈黙。おもく、澱のごとくよどんだ静寂。
騎士は目を閉じていた。
目をあけて、見ゆるは闇。閉じてもさらに闇。なれば、どちらをとろうと、それはおなじこと。いや、閉じて、みずからの内なる姿を見るが、益することもおおかろう。
かれは、自身の暗黒と、それをとりまく闇とをくらべずにはいられなかった。
そのようにして、どれほどの時がすぎたころか。
とおくで鳴りつづけていた糸車の音がやみ、かとおもうと、ふいに停滞した空気が、かすかにではあるが、うごく気配がする。ゆったりとではあるが、確実なうごき。
地面を這うがごとく近づくその気配は、扉のまえでとまった。
あたりをはばかるように、ごくよわく、扉をたたく音がした。
騎士は半身をおこし、身構えた。返事を待たずにひらかれる、黒い扉を見つめる。
扉は、一瞬、ふるえたかとおもうあとには半開きとなり、すきまから、小さなあかりのもれるが見えた。
ついで、広間で毛をすいていた娘の蒼白い顔があらわれた。
おびえた顔が、手にした燭台の蝋燭の炎により照らしだされるさまは、亡霊めいてみえた。精霊や人形よりもさらに血色のわるい、しかし、女主人に似た、端正な面立ち。
娘がすがるように見あげるのをみて、騎士はすこしばかり緊張をゆるめた。
聞いてほしいことがあるのだと娘はいい、なかへ入るゆるしをもとめた。
「どのようなことだ」
騎士のいらえに、娘はこれを肯定ととり、背後をたしかめつつ扉を閉めた。
古い蝶番のきしる音が、蝋燭のまわりの暗がりに沈むと、娘は寝台の足元に近づいた。
「ご立派な騎士さま」
娘は言った。
「貴方さまがおいでになったこの館は、人の子にふさわしきところではございませぬ。夜が明けるまえに、早々にここからおたちになるのが御身のため。さもなくば、おいのちは危険にさらされましょう」
恐怖におののくものの警告に、騎士は肩のちからをぬいた。男の顔には奇妙な表情がうかんでいた。恐れも、不安すらもあらわさぬ態度に、娘は不審をいだき、身をひいた。
「騎士さま?」
騎士は娘をみつめ、かとおもうと溜息をひとつついた。
「おわかりなのですか。この館に住まう者、人間ではありませぬ。貴方さまのおくちを湿らせた飲みものは、酒ではありませぬ」
娘は言いつのり、騎士の剣もつ手に掌をあて、すがるようににぎりしめた。
「騎士さま、騎士さま。額に銀の環をいただきしおかた。わたくしの言葉をどうかお信じになって。高貴なおかた、はやく、ここから立ち去るのです。わたくしは多くの者にこの言葉をつたえてきました。信じぬ者の末路を見るのは、もういやです。どうか」
必死になるがあまり、娘は感極まり、涙をながしはじめた。
それでも騎士の表情にかわりはなかった。いや、あきらかに、かれのくちもとはこわばっていた。それが、娘の言葉にうごかされてのことであったかは、しらぬ。
「なにゆえ、あなたはここにいる」
寝台に伏して泣く娘に、騎士はひくい声で尋ねた。
「ひとならぬものの棲む、人界ならぬところにたつこの館に」
「あらがいようもない大波にのみこまれたすえ、ながれついたのでございます」
声は、つらい過去にうちひしがれ、あわれにふるえた。
「もとより、なにものの巣かは承知しております。ただ、わたくしにはもう、逃げることはかなわぬのです」
「なにゆえに」
騎士の問いに、娘はかぶりをふった。
「おたずねにならないで。いまはただ、ごじぶんのことをのみ、お考えくださいますように」
そうして、必死に逃亡をうながすのだった。だが、騎士は娘の手首をつかんだまま。
「おいそぎくださいませ。どうか……おねがいでございます」
「あなたをこのままにして、おめおめと逃れられようはずがない」
ひくい、おしころした声に、娘は唇をかみしめた。
悲しみにゆがむ顔は騎士をみつめ、つかのま、その黒き瞳に希望の灯がともったようにも見えたが、それは彼女の華奢な手が、騎士の手よりするりと逃れたときには、あとかたなく消えさっていた。
そして、べつの手が、部屋の扉をたたいた。