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 うごかなくなった女主人のからだを寝台に横たえると、騎士は燭台をもち、部屋のそとへ出た。
 闇はどこまでも闇。
 周囲を支配するは、人の子の住む世界にある暗闇にあらず。暗黒にちかい、それ自身が存在であるような、真の闇であった。
 館は闇のなかにあり、そのよどみに沈んでいる。
 かかげもつ蝋燭の炎は、この帳を溶かすことあたわず。騎士の踏みしめる足元を、かろうじて照らしだすのみ。
 光のとどかぬところになにがあるのか。なにも見えぬ。なにもないのではなかろうか。
 騎士は、ここが永遠に光の差しこまぬ闇の淵であるという考えをふりはらった。
 ここは館のはずだ。
 緑の匂う森の深きにたてられし、女主人の住まいせる古き館だ。
 背筋がひやりとした。
 背後に死体のあることを意識して、騎士は居間へと足を踏みだした。
 近づくにつれ、糸車の音が聞こえるようになった。
 からからとかろやかにまわる糸車。紡がれてゆく糸、けして後もどりはせぬ時間のようにまわりつづけるその音は、しだいに、くっきりとした輪郭をもった音となった。
 蝋燭をかかげたまま、騎士は居間のなかへ入った。
 炉のある部屋に変化はなかった。
 薪はいきおいよく燃え、梁に吊りさげられたランプが、老婆の手もとをあかるく照らしている。
 糸車はまわり、老婆の手、しわくちゃのごつごつした手が、熟練した手さばきで仕事をつづけている。
 いや、ちがう。娘がいなかった。
 手仕事をつづける老婆は、足元に落ちた影に顔をあげた。
 しわだらけの顔は、騎士を見た瞬間、奇妙な表情を浮かべた。
 暗がりのなかで、その顔がどのように見えたものか、騎士は背筋につめたいものを感じ、老婆より遠ざかろうとする。
「待ちなされ」
 しわがれた声。老婆のものだ。
「どこへゆきなさる」
 騎士は足をとめ――あるいは、とめられ――ふたたび炉端を見やった。老婆は人なつこそうに笑っていたが、ぶきみさ以外のものが感じられるわけではない。
 娘はどこにいるのだろう。悲鳴やすすりなきが耳をかすめたような気がして、騎士は身構える。
「なにを聞いていなさる」
 だが、静けさをやぶるは、糸車の音。
 からりからりと単調に鳴りつづける退屈な音ばかり。
 騎士は老婆の手もとをぼんやりと見つめていたものの、ふとわれにかえり、手で額をおさえた。
 銀の環のつめたさが、針のごとく指に突きささる。
 老婆の色うすき瞳は、横目でそれを盗み見た。
 暗闇にふかき溜息。
 悲しみにみち、絶望にあふるる、青い吐息。
「聞いてくださらんかの、騎士どの」
 ふしぎにも、老婆の顔が刹那のあいだ若く見えた。みずみずしく、あかい唇と薔薇色の頬をもつ乙女の姿。それも一瞬のことであったが。
 まばたきのあとには、またひからびた老婆が、しのび泣くような声で語りはじめた。
「聞いてくだされ、騎士どの。この館はの、そもそもはきちんとした大地の上にあったのじゃよ。はじめからかようなところにあったわけではない。豊かな王国がこの館をとりまいておった……そこに住むものは、みな、しあわせじゃった。人の子がもてる幸せを、もてるだけもったひとびとじゃった。館に住まいしは、国を治ることに賢明なりし偉大な国王陛下じゃ…ああ、よき日日よ…すべてかがやかしき日日はすぎさり、いまは絶望あるのみじゃ。お聞きくだされ、騎士どの…」
「暗黒の呪いはきたれり。黒き魔は足音をしのばせ、王国を侵した。おそろしきは、そのあらがいがたき力。王国を、ひとびとを、すべてを侵し、のみつくし、腐敗をしいる闇の威力じゃ。鋼のごとき呪いに人の子の抵抗むなしく、多くの民人は犠牲となり、国王陛下は命をおとされ、国は滅びた。闇に侵されし国土は、もはや現世にとどめがたく、かようなところと変わりはてたのじゃ」
「おお…聞いてくだされ、騎士どの。あれはいつのことであったか。この婆にはわからぬ。もう、よう覚えてはおらぬ。悲しみと怒りが、しあわせとともにわしの心をもひき裂いたのじゃ。父上の悲鳴が、耳にこびりついて離れぬように、あのときが頭にべったりとはりついて離れぬのじゃ。みなは死んだ。国じゅうが呪い殺された。いまは、われら三人が残るのみ…あわれと思うてはくださらぬか」
 騎士は――騎士は、ゆらめくように歩みよる老婆の背後に、業火に焼かれる王国を見ていた。うずまく呪いが、逃げまどうひとびとをつぎつぎと捉え、離さぬさまを、息もせずに見ていた。
「いやいや、すでにわれらはふたりじゃ。そうであろう、騎士どの」
「娘はどこだ」
 騎士は、喉からしぼりだすようにした。それはあえぎにはなったが、すこしも老婆に感銘をあたえはしなかった。
 老婆は騎士を床几にすわらせて、その顔を両手ではさんだ。しわだらけのつめたい手に触れられると、よりいっそう悪寒がひろがるが、逃げだせぬ。からだが、思うようにうごかせぬのだ。
 老婆の手は、頬から額におよんだ。
 おちくぼんだしわのなかの眼が、異様なかがやきをおびて見える。銀の環にふれる手は、いらいらと落ちつかなげだ。
「この環じゃ、これが邪魔をする。姫さま、お待ちくだされよ、この婆が」
 騎士は目をつむった。環をしっかりとつかんだ老婆は、最後の瞬間に聞こえない悲鳴をあげ、はじかれたように飛びあがった。
 はずみに糸車は台からはずれ、床のうえにころがり、壁にぶつかって跳ねかえったのち、ぱたりと倒れた。
 老婆自身は、その一瞬まえ、もっとおもたげに床に落ちている。


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