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 足もとの骸のうえには、一瞬にして千年の時が刻まれたかのようだった。老婆のからだは朽ちた。
 その死を悼むがごとき陰欝な溜息に、騎士はすばやく顔をあげた。
 暗闇に見ゆるは蒼白き光。背後に燃えているはずの炉辺の炎などは、いまでは幻のように消え失せていた。
 騎士は眼前の光をめざし、足をうごかした。かなしばりはすでにとけ、前進をさまたげるもの、なにも存在せぬ。ただ、みずからの精神(こころ)をのぞいては、
 騎士の歩くは闇の淵。底無しの沼の岸辺。
 一歩一歩が、さぐりながらのはりつめたうごき。なにが起こるかわからぬ緊張が、不安とまじりあう。騎士は嘆息の聞こえるところをめざし、闇をぬってゆく。
 だしぬけに、蒼白き光は目のまえをみたし、小部屋を照らしだした。
 娘が寝台にもたれるようにひざまずいており、騎士のおとずれを知って、ちいさなおもてをあげた。
 しろい顔は光にうつされてさらに蒼く、目は泣きはらしたようにあかく、表情は恐怖にこわばり、おびえていた。
 彼女は言う、騎士にむかって。
「お逃げにならなかったのですか。あれほど申し上げましたのに」
 ふるえる叫び。あえぐ息づかい。
 騎士は娘に手をさしのべ、近づくが、娘はかれの一歩のごとに身をひき、首をふる。否と。
「ここは人の子のとどまるべきところではございませぬ。はやく、お逃げになってくださいまし」
 娘は身をふるわせ――それは、恐怖以外のなにもののせいでもないように見えたが――背後の戸口をさししめした。
 騎士は動転している娘をなだめようと、さらに近づいた。そして、さきほどまでに起こった出来事をゆっくりと語った。
 女主人の最期や、老婆の昔語りに、娘は顔をふせ、表情をとらえられぬよう用心しつつもあおい唇をかみしめて聞いていた。
 するうちに顔色はますますひどくなり、老婆の最期を語るとちゅうで、うめき声をあげ、かれをさえぎった。
「ひどいこと…騎士さま、貴方はそうそうにたちさるべきだったのですわ。さすれば、あのものたちは、貴方に害をおよぼすこともありませんでしたのに」
 騎士のさしのべた手が、娘の肩にふれたとき、娘は誘惑を断ち切ろうとするかのように身ぶるいした。はらいのけられるまえに、騎士は手をひきもどした。理由などない。
 娘は黒髪の乱れたすきから、おなじように黒い瞳をのぞかせ、苦しげに騎士を見あげた。
「おわかりになりまして」
 死人めいた顔色は、いまではどす黒く気味のわるいものに変化していた。声も然りである。しわがれた、地の底からひびく老婆のごとき声、欲望と苦しみにみちた呪われた声だった。
「貴方の手にかかりし魔物は、わたくしの忠実なる下僕。いまはあさましき姿になり果てたる者どもなれど、もとは濃き血の縁でむすばれた王家の生き残りなのですわ。この世のすべてよ、呪われてあれ。この身に降りかかりし災厄のすべてを忘れさることがかなうものならば…!」
「では、あの老婆の言ったことは…」
「すべてはすでに夢ですわ……わるい夢ではないというのなら、なにゆえ、わたくしがいまだにここにこうして生きているのですか。国が滅びて何年たつのやら、わたくしにはもうわかりませぬ」
 娘の顔――闇をのみこんだがごとき凶凶しき顔に、騎士は凍るような恐怖をおぼえた。
 女主人も、老婆も、かほどの恐怖を感じさせはしなかった。娘の邪悪には狂気がふくまれていた。騎士は、あとずさりをしようとして、ゆび一本うごかせぬ自分を見いだした。
「騎士どの、貴方はわたくしをお救いくださると申された。喉の渇きを、どうか癒してくださいませ。もう、がまんなりませぬ。わたくしだとて、このようなお願いをしたくはなかったのですわ。でも、貴方は妹たちを殺しておしまいになった。こころよわき姉にずいぶんと仕えてくれた、よき妹たちであったのに。おお、このくるしみをはやく終わらせて。喉が焼けているわ。からだじゅうが燃えてしまいそう」
 悲鳴か、それとも叫びなのか。
 どちらとも判別つきがたい声をあげながら、喉をかきむしるようにして、娘は騎士に飛びかかった。
 硬直したからだにしがみつく醜い生きものから顔をそらすこともかなわず、騎士は最期の瞬間を待った。奇怪なかたちに開かれた顎のなかで、するどくとがった牙がつめたく光るのが見える。
 その先端がうなじに沈むまえに、血に餓えた魔物は断末魔の叫びをあげた。
 その声は闇の底からわきおこり、ふるえ、這いのぼりきたるかのごとく。凍るような哀しいひびきだった。
 これは、わたくし。そなたを護るもの。
 これあるかぎり、そなたはけして傷つかぬ。
 わたくしの想いが、けして傷つけはせぬ。
 しろき腕の女性の澄んだ声が、はっきりと脳裏によみがえる。
「ひめ…」
 黒き骸のまえで、騎士は銀の環の贈りぬしに、ひそやかに感謝をささげた。


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