第二章



 中庭には、太陽の光があふれていた。
 伯爵夫人の薔薇の間を、ちいさな人影がすりぬけてゆくのが見える。
 ズァラームは、われ知らず口の端に笑みをうかべた。
 自室の暗闇にひきこもっていた三日間の後に訪れた館では、ディヤリスがようやく主を見つけた仔犬のように、目を輝かせてむかえてくれた。
 マルティネシアの身体はもちなおす気配もないようで、儀礼的にかわされる短い挨拶のあいだ、忍耐強く笑顔をみせさえしたが、身を起こしているだけでも辛いようすだった。顔色は悪く、身ごもっている女にしては痩せすぎの印象すらあった。せりだしている腹部が、いっそ、不気味なほどに。
 こんな状態で母親にかまってもらえるわけもなく、おなじ年頃の遊び相手もいないまま、ディヤリスは大人たちにかこまれて日々を過ごしていた。
 孤独がおさない魂にあたえる影響は、けして小さなものではない。
 ディヤリスは自分を主張することを誰にも教えられず、おずおずとひかえめに微笑みかけてくるだけだ。人の好意を欲するのは、悪しき行いなのかもしれないという不安をのぞかせながら。
 ズァラームは異母弟に、みずからとおなじような境遇にある無力なディヤリスに、やさしい感情を抱かざるを得なかった。
 彼は弟を愛していた。そのしろい肌、栗色のほそい髪が光に透けて見えることに、心に刺すような痛みをおぼえはしたが、ディヤリスは彼が無条件に庇護したいとおもう、初めての存在だった。
「兄さま」
 自分を受け入れてもらえるかどうかを心配しながら呼びかける、ディヤリスの声は、ズァラームに光のあたる場所への未練をおこさせた。
 ディヤリスは安心しきってズァラームを頼っている。生きとし生けるもののなかで、母親のつぎにズァラームが大切なのだ。ズァラームのそばにつきしたがい、けして自分から離れようとしない。
 まぶたを閉じたまま、薔薇園に気配を探る。
 ひらきかけた薔薇のつぼみのそばで、ディヤリスは息をころして彼をうかがっている。その瞳にはすべらかな黒い髪を肩に垂らし、ゆったりと床几にこしかけている慕わしい兄の姿が映っている。ディヤリスは英雄を見る眼で彼の兄を凝視めていた。
 この皮肉な光景にズァラームは苦笑いをしかけた。
 胸の奥に葛藤がある。
 憎しみと愛しさが相争い、そしてようやく、ズァラームは眼をひらいた。
 薔薇の迷路をゆっくりと、弟がひそかに見つけられるのを待っている茂みまで近づいてゆく。
 自分のほうへとやってくる足音に、小さな影は身を硬くした。不安というよりは、期待のために。
 ディヤリスは待っている。
 自分を呼んでくれるものを。
 それは現実になろうとしている。
 ズァラームは王宮の庭園で初めて年下の王子に話しかけられたときのことを思い出していた。
「ディヤー、いつまで隠れているんだい」
 薔薇の芳香をかすめて身をかがめると、ディヤリスはいきなり間近に兄を見たためか、ほんの少しあとじさった。おさない顔に安堵の笑みがひろがってゆく。
 ズァラームは父親にまったく似ていない息子だったが、ディヤリスもまた、かれら共通の父親の血をなにひとつ受け継いでいないようだった。
 外見だけではなく性質も、穏やかでやさしげな、少女のような雰囲気を持ったディヤリスは、ズァラームとは違った意味でヴェリアス公の最愛の息子とはなりえない運命にあった。ズァラームはそんな父親をはるか昔に軽蔑し、身から切り捨てることに成功していたが。
 ズァラームはディヤリスの手をとって立たせてやりながら、なごやかな気分になっている自分を発見した。弟の一途なまなざしが、そんな作用をおよぼすことに微笑んで、緊張している小さな手をきゅっとにぎりしめる。
 ディヤリスは兄の手を感じて、嬉しそうに顔をあげた。
 それから、ふたりは手をつないだまま、緑の迷路のなかをゆっくりと歩いた。
「兄さま」
 しばらくそうして時を費やした後に、おずおずと口をひらいたのはディヤリスだった。
 滅多に自分から話しかけない弟の声に、不安とおびえとをききとって、ズァラームは足をとめた。
「かあさまのお加減、とてもわるいのかな」
 兄の黒い瞳にうながされるように、ディヤリスはゆっくりとたどたどしくはあったものの、はっきりと心配の理由を説明した。
「顔色がとてもお悪いし、あまり、食べてもいらっしゃらないみたい。ぼくがお訪ねしても、会わせてもらえないんだ。かあさまはいま、お休み中だからって、みんなはいうんだけど、ときどき、苦しそうな声がきこえるの……」
 まるでいま母親の呻吟する声がきこえたかのように、ディヤリスは身をふるわせた。もう何日もこのことを考えつづけていたのだろうか。
 ようやく相手を見つけて、不安を吐露する姿に、ズァラームはかつての自分の姿を見た。彼にはそんなふうに心許せる存在はいなかったが。
 救いを求めるように、ディヤリスはもう一度兄をうかがった。
 ズァラームは握っていた手に力をこめた。
 マルティネシアの病状など、彼にとってはどうでもよいことだった。父の女であってそれ以上とはなりえないもののことなど、意識の隅にすら住まわせたくない。あの無学な俗物的な女が、子癇で苦しもうがそのために命を削っていようが、しったことではない。
 それがズァラームの、世間的には義母とされる女に対する偽らざる見解だ。
 だが、マルティネシアはディヤリスの母親なのだ。
 ズァラームは意識してやさしく口をひらいた。
「そうだね。みたところ、あまりお元気そうとはいいかねるごようすだ」
 ディヤリスは顔を曇らせ、口もとをひきむすんだ。
「けれど、おまえが心配しているほどにお悪いわけではないよ、ディヤー。おまえは物事を実際よりも大きく受けとめてしまうようだ」
「ほんとうに、兄さま?」
 薄い茶色の瞳が希望に大きくみひらかれた。
「そう。母上はおまえにそんなふうに思われたくなくて、おまえに会えないのかもしれない。おまえは心配しすぎて気分が悪くなることがよくあるだろう。母上は大丈夫だよ」
 念を押すようにいうと、ディヤリスの緊張は解けた。
 マルティネシアは、そう、生き延びるだろう。
 あの種の人間は、単純な分、生に対して貪欲だ。
 しかし、腹のなかの子はというと、彼に見えるのははっきりとあらわれた死の刻印だけだ。
 まだ見ぬ妹は、月満ちて太陽の光を身にうけるまえに水となってしまう。涙となって、流れ出てしまう。おびただしい血の海の中に。名も授からぬままに。
 そんな不吉な幻視はおくびにもださず、ディヤリスをなぐさめる。彼にはごくあたりまえの芸当だった。
 兄のことを絶対に信頼できる存在とみなしているディヤリスは、彼の言葉で不安をぬぐい去ったようだった。
 やがて太陽が傾きはじめ、ふたりは中庭から部屋へと戻った。
 孔雀の間ではセルウィス伯爵夫人がにこやかに迎えてくれた。彼女も光のもとでは別の仮面をかぶっていた。ディヤリスを甥としてうけいれるのに肉親のあたたかみをもってあたり、少年の前ではけして伯母の役をおりようとはしなかった。
 伯爵夫人がディヤリスとたあいもない話をしているあいだ、ズァラームは、侍女が用意したあたたかい飲み物をすすりながら物思いに沈んでいた。すくなくともそう見えるようにふるまっていた。
 部屋の隅には、めだたぬように待機しているひとりの侍女がいた。侍女は視線には気づいていない。彼は対象に顔を向けてはいなかったので。
 彼女のまだ幼さを残した硬いつぼみのような肢体がやわらかみをおびはじめ、しなやかで力強い生命力がオーラのように発散されているのを、眼で見ずとも感じることはできる。あまりにも無防備で無邪気な存在。
 彼女の視線は、そして意識は、つねに黒髪の貴公子にむかっている。
 そばにいられる快い緊張に、頬にはかすかに紅みがさしている。
 ズァラームに近づくにしたがい硬くなるふるまいは、恋に免疫のない彼女が自分のなかで起こっていることにとまどい、混乱した結果だ。しかも、まだ彼女のなかには冷静な自分というものがわずかでも残っているらしく、おのれの無様さにも気づいていたが、そのことはさらにうごきをぎこちなくする役にしかたっていなかった。
 ズァラームは自分の外見が他にあたえる影響の顕著な例を見せられているかのごとく、あわれな侍女をながめつづける。
 はたして、彼女は自分が望むような娘なのか。
 八割の確信はあったが、残りの二割で迷い、決めかねている。
 その迷いは目の前にある娘のせいではなく、闇への躊躇、彼に内在するあるものが、決定を遅らせようとしているのだと、どこかでわかってもいる。
 だが、侍女がズァラームの空になった器に、二杯目のカフワを注ごうとしたとき、黒い瞳が彼の視線と直線的に交わった。
 侍女はすぐに目をそらし、顔を伏せた。
 ズァラームもまた、それ以上、娘の気配を追うことはなかった。
 必要な一瞬は、あたえられてしまったのだ。
 すべてがあきらかになり、もはや眼をそむけるわけにはいかなくなった。
 娘の瞳のなかに、まぎれもない、一点の曇りもなく透きとおった魂を見てしまった。
 これ以上、待つことはない。
 これ以上、待たせることはできない。
 言い逃れの理由は消滅し、闇は背後であぎとをひろげてじりじりとまちかまえている。
 飲み物をほすと、ズァラームは伯爵夫人にいとまを告げた。
 ディヤリスに再訪を約し、部屋を出る。伯爵夫人は侍女に玄関までの見送りを命じ、娘は、すべるように退出していったズァラーム・ラソル・ヴェリアスのあとを必死になって追いかけた。
 背後から近づくかろやかな足音に、ズァラームは歩みをゆるめた。が、立ち止まりはせず、侍女を待っているようなそぶりはみせない。
 大理石の静かな回廊で、若い娘のはずむような呼吸が大きく響く。つつしみぶかい彼女が必死で抑えようとしていることも、手にとるようにわかった。
 陽光のさえぎられた薄暗い回廊が、あと数歩でとぎれるところまで、ズァラームは無言のまま歩きつづけた。そして、侍女が呼吸をととのえて控えめにしたがっているのを確かめると、ゆっくりと足を止めた。
「ここまででいいよ。ありがとう」
 静かにいうと、侍女はあきらかに狼狽して、顔をうつむけた。
「いえ、あの…玄関までと、申しつかりましたので」
 小さな声は、顎を胸につけんばかりにしているためにくぐもって聞こえる。
 緊張から両手を握りしめ、口にしたことのあまりの愚鈍さに腹が立ったのか、唇を噛んだ。
「玄関には従者がいるはずだから。それに、わたしは一人歩きをするほうが好きなのだけれどね」
 穏やかなものいいに騙されるかにみえた娘は、この皮肉をしっかりと受けとめた。顔を紅く染め、絶望をあらわにし、「申し訳ございません」と急いで頭を垂れる。きつく握った手の関節が白くうきでて、小刻みにふるえていた。
 ズァラームはいたたまれずに身をひるがえそうとする侍女の細い腕をとった。
 突然の親密さがなにをあらわすものか、愕然としている娘は声もあげずに彼を見かえした。これは叱責なのか。このあとに待ちうけているのは罰なのか。
 宰相の息子が彼女をどう扱うのか、黒い瞳はかすかに潤んで不安と怯えを訴える。
 腕をしっかりと捕らえていた手は、だが、やんわりとゆるめられ、不意をつかれつづけている娘が対処の方法を見いだす前に、ズァラームはまっすぐな、しかしいたわりに満ちたまなざしを向けた。
「あやまらなくていい。すこし言い方がきつすぎたようだね。おまえは来たばかりで、わからないことのほうが多いのに……このあいだ入った侍女だろう」
 ズァラームは理解のしるしに唇に笑みをのせた。
 娘は茫然自失のなかで安堵し、若者の美しさに胸の奥をときめかせさえしながら警戒を解いてみせる。
 ズァラームはこころの中で彼女に警告する。
 目に見えるものばかりが真実であるとはかぎらない。そんなに簡単に、人を信用してはいけない。しかし、彼女にはこの警告が伝わらない。
 美しい都の貴公子に声をかけてもらった。そのことだけでこころを舞いあがらせている素朴な娘は、事実を告げたとして、自分はからかわれているのだと笑ってすませてしまうだろう。
 目も眩むような魂の輝きに、いわれのない憎悪と嫉妬を抱いてしまう彼が、娘にはっきりと理解できるようなかたちにして、おのれの内なる危険をしらせてやるわけもない。
 闇の舌なめずりが聞こえてきたと感じたとき、ズァラームはすべての感情を押し殺した。
 彼女を哀れとは思うまい。
 そんな感情はなんの役にも立たない。
 別れを告げてあゆみさろうとし、ふりかえって、すでに知る彼女の名を尋ねる。深い意味を思うことなく、投げあたえられる彼女の真実。無意識のうちに感じとった不安が、声にかすれをおびさせるのか。
「リアーナ。リアーナ・クルスーン」
 美貌の若者の口から発せられた名は、魔法の呪文かなにかのように彼女を縛り、ゆび一本さえうごかせなくした。彼を見るまなざしだけが、つよく、熱く、一途になった。
 この瞬間に、リアーナの恋は避けられぬものとなる。
 焼き鏝をあてられた魂は、想いをしむけられたものとは知ることなく、ズァラームへとむかいつづける。
 ズァラームはふたたび背を向ける前、娘だけに聞こえるようにささやいた。
「また、このつぎに」


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