薔薇のつぼみは春の陽射しをあびて徐々にひらきはじめ、その数は館を訪れるたびにふえていった。
そよ風が咲きこぼれる花をやさしく撫でていくごとに、薔薇の香気があたりいちめんにひろがってゆく。美しい花々は目に快く、館は一年ぶりに華やかさをとりもどしていた。
ズァラームが薔薇園で見いだした娘は、硬いつぼみがほぐれてゆくように、あざやかに変わっていった。
肩の力がぬけて、よく笑うようになり、ちょっとした仕草やうかべる表情のはしばしに、成熟してゆく女のすがたが見えるようになった。しかもそれは、リアーナの生来の性質であるきまじめさや純粋さを少しも損なってはいなかった。
変化は、はじめての奉公にでた娘が、ようやく館になじんできた証拠だったのだろうか。
ズァラームとディヤリスのかくれんぼには、しばしば新入りの侍女が参加するようになっていた。
また、あるときには中庭にディヤリスをのぞいたふたりだけが過ごしていることもあった。そんなとき、ディヤリスは午睡のさなかにあって、参加したくとも不可能な状況であったのは確かなのではあったが。
薔薇の迷路の中央に位置する噴水のかたわらで、あちらこちらに置かれた大理石の長椅子の上で、ふたりはしずかに語りあった。穏やかな昼下がり、うごくのは風にふかれてゆれる木々の葉や、おたがいの髪だけだったので、この静寂をそこなうことは罪のようにかんじられたのだ。
身分の違いを忘れてふるまうことはけしてなかったものの、リアーナはズァラームにすっかりうちとけているようにみえた。
退屈をまぎらわせたいというズァラームの要望にうながされて、彼女はじぶんにできるいろいろな話を彼にけんめいに話してきかせた。
生まれ育った故郷のこと、父や母、きょうだいのこと。飼っていた馬のこと。山々の間を吹き抜けてゆく、強い風のこと。
はじめはおずおずと話していたリアーナは、次第に自分から話題を提供するようになっていった。
生まれたばかりの弟のこと。祖父が死んだときのこと。祭りで焚かれる大きな神の炎のこと。
目を輝かせて語っていたリアーナは、ときどきズァラームがあまりに無反応なのに気がついて、不安そうに顔を曇らせた。そして突然、彼はなぜ自分を話し相手に選んだのだろうという、何度もくりかえしてきた疑問をよみがえらせて、こころの中で一歩身をひいた。
あまりにもあからさまな表情の変化に内心苦笑しつつ、たしかに聞いているということをつたえるために、ズァラームは娘のほそい指先にそっと手を触れる。
とたんに彼女の動揺は別の方向へ大きくふれた。
わきあがる疑問は、一瞬まえの重苦しい不安とおなじことばでかたちづくられてはいたものの、本質的にはまったく別のものだった。
リアーナは宰相の息子がたわむれとも思えるふるまいをするたびに、決まってこの期待のいり混じった不安を感じさせられていた。そして大それた自分の思いに気づいておびえるのだった。
このように高貴な美しい存在が、自分ごときを相手にするはずがないではないか。
娘のうちで感情のゆれるさまを冷徹にみつめる黒い瞳は、その苦しみを無視し、残酷にもおなじ行為を幾度となくくりかえした。
リアーナは鼻面をとられた獣のようにひきずられ、ふりまわされて、不安と期待のあいだの大きな振幅についに耐えきれなくなった。ある午後、ついに彼女はズァラームの前で涙をながした。
話の途中で起こったことに、はじめは本人も気づかずにいた。
涙は眼にもりあがったかと思うと、すうっとひとすじが頬の上をすべり落ちていった。ズァラームが眉を上げ、目をみひらいたので、そうと悟ったらしかった。
驚いて涙を隠そうとしたリアーナが顔をうつむけると、とめどなくあふれてきて、どうしようもなくなった。掌に顔をうずめて声を必死でおさえようとしたが、無駄な努力でしかなかった。
「もうしわけ…」
しゃくりあげる娘の背に、ズァラームは静かに手をかけた。
触れられたとたん、リアーナはびくりとふるえ、身をこわばらせた。だが、涙で汚れた顔をあげられずに、逃げ出すことができない。
手は、ただやさしく彼女の背をさすりつづけた。緊張が次第にほどけてゆくさまをズァラームはじかに感じとる。
堰を切ってあふれでた感情に収拾をつけ、気持ちを静めることは、リアーナにとってたやすいことではなかった。どうすれば泣きやむことができるのか、とまどいつつ嗚咽をもらす娘に、ズァラームはやさしげに語りかける。
「ふるさとのことを、思い出させてしまったようだね」
リアーナの故郷はかれらの話題の中心だったことを考えると、この言いぐさはまったくの見当違いだった。しかし、リアーナは反論できない。
「申し訳、ありません…」
醜態を詫びることばをくりかえそうとする娘に、ズァラームはなだめるようにつづける。
「あやまらなくていい」
彼女を脅かしている感情の原因については、けしてふれようとはしない。関係のないことばかりを、そうと知りつつ口にした。
「この館はおまえには合わないのかもしれない。伯爵夫人は、おまえのような娘の仕えるべきおかたではない。ここには山々をふきぬける清らかな風はない。低い土地によどむ濁った空気があるだけだ。リアーナ、私が伯爵夫人に申しあげてもいいんだよ。べつの奉公先をみつけてもらえるように」
言葉はあきらかにリアーナに衝撃を与えていた。
彼女は羞恥心を一瞬忘れ、ズァラームをみあげて、涙声で懇願した。
「伯爵夫人はよくしてくださいます。あのかたはいいかたです。わたし、あのかたが好きなんです。ここが好きなんです。ズァラームさま、どうかそのようなことをあのかたにおっしゃらないで。わたし、ここにいたいんです」
言いつのる娘の頬の涙をぬぐってやりながら、ズァラームはやんわりと反論する。
「しかし、おまえだって知らないわけではないだろう。伯爵夫人の褥を求めてこの館にやってくる男が幾人いるか」
娘は、まるで自分が侮辱されたかのように顔を赤らめて黙り込んだ。
「奉公先をかえたくないというのなら、せめてしばらく暇をとったらどうだい。おまえは日増しに疲れてゆくようだよ」
いたわるように聞こえてズァラームの言葉は、とげだらけの蔓とおなじだった。リアーナが伯爵夫人の乱行を拒絶していることはたしかだ。田舎から出てきたばかりのうぶな娘にとっては、うつくしいあるじの行動とはいえ、街娼のすることとかわりなく見えるにちがいない。伯爵夫人本人をいくら好ましく思っても、退廃的な都でもさらに醜聞にまみれた暮らしを無条件にうけいれられるほど、大人でも、世慣れてもいないのだ。
ゆれる自分のこころを見定めようとするリアーナの姿を、ズァラームは相反する感情をもってながめていた。
この娘は、魂を犠牲にできるほどに彼のことを想っているだろうか。
ある意味でこれは賭けだった。
無垢の魂を足下に屈服させられるほどに彼が力を持っているのなら、おのずと道はさだまるだろう。悩む必要はなくなるのだ。
はりつめた静寂の支配する中庭で、噴水の水音だけが辺りをはばかることなく平静に時を刻んでいた。
「にいさま」
いましも、言葉を口にしようとしていた侍女と、うけとろうとしていた宰相の息子は、息を止めてふりかえった。
林立する柱のむこうから駆けてきた少年は、兄と侍女の姿をみとめて破顔する。
緊張はやぶられ、言葉はのみこまれた。リアーナは訴えるような視線を彼に送っていたが。
その日の日没後、館の玄関のランプのほのかな明かりのなかで、ズァラームは予期した答をうけとった。
「ズァラームさま、わたし、ここにいたいんです」
半分影になった娘の顔は、悲愴な決意をあかしてみせた。
「わかってくださいますか」
ささやかれた声には切実な響きがあった。。
リアーナの潤んだ瞳を見て、ズァラームは初めて彼女を美しいと感じた。
了解のしるしにそっと彼女の手を取り、くちづける。
端麗なその顔にうかぶ皮肉な笑みは、かすかな余韻ののちに闇へと溶けていった。