第三章



 日々が過ぎていった。
 時の経過は中庭の薔薇にいちばんにあらわれた。
 すべてのつぼみが、陽光にうながされてつぎつぎにひらいていく。一年のうちのこの刹那、館は中庭からあふれでる芳香につつまれるのだ。
 ズァラームは宮廷と屋敷との往復のほかに、セルウィス伯爵夫人の館への訪問をつづけていた。
 口実となっているヴェリアス公妃マルティネシアの健康状態は、産み月が近いというのに悪くなる一方だ。近頃では、儀礼的な見舞いの会見も、行われないことのほうが多くなっていた。もちろん、義母に会えないことを残念におもうズァラームではなかったが。
 ディヤリスは不穏な空気を感じとり、重苦しさをひとりで背負っているようだった。はにかんだような笑顔はさらにぎこちなくなって、ときおり母親のいる部屋の窓を見るともなしに眺めてはうわのそらになった。
 伯爵夫人はそんな甥を慰めることに心を砕いてはいたが、妹の苦しみをまのあたりにしているためなのか、心なしか沈んだ面もちでいることが多くなった。宮廷での噂はあいかわらずとめどがないものの、話題にされている好色な女と、ひっそりとした館に暮らす薔薇好きの女とは、別人のようにしか見えない。
「ズァラーム、あなた、なにを考えているの」
 ときおりふたりきりになることがあると、伯爵夫人は訊ねてきた。
 もちろん、彼女は侍女の変化の理由を知ってはいるのだ。しかし、彼の意図まではつかめなかった。
 はぐらかすような返答をしても、彼女は腹を立てることはなく、彼は唇に薄笑いをうかべていられた。気まぐれな問いはそれで終わり、一度に多くを追求されることはなかった。
 ランプの光にうかびあがる成熟した女体は、陰影が微妙にかたちづくる幻想だった。夜風に運ばれてきた薔薇の香気が熱いため息とまじりあい、くらい室内をみたしてゆく。
 薔薇の切り花が活けてあることにふと気づいてズァラームは微笑する。
 リアーナが中庭から切ってきたものだ。選りすぐった花の茎を切る場に、彼は立ち会っていたのだ。
 はじめて会ったときにも鋏をもっていた。そういうと、おどろいていた。
 あのときのことは覚えていないのだろうと思っていたと言い、リアーナはうれしそうに笑っていた。
 明るく透明な笑顔の前で、ズァラームは目を細めた。邪気のない娘の喜びは、彼にとっては太陽の光のようにまぶしい。
 容姿はむしろ彼にちかいというのに、外見にそむいてその魂はなんと神々しいことか。
 しなやかで、明るく、つよく、そして熱い心。
 どんな運命をもみずからすすんで受けいれることのできる魂。
 ズァラームは、以前にもこんな魂に出会っていた。
 ものおじせず、ふたつ年上の彼の眼をまっすぐに見かえしてきた碧い瞳。
 それはちょうど今のリアーナの黒瞳のようにすみきっていて、そしておなじように彼に対する好意が宿っていた。それを発見するたびにズァラームは、いたたまれない気分に支配されたものだった。
 あのときはすべての中心、影のできない光のなかに立っているように思われた世継ぎの王子は、王の失墜にあい、世間的には彼との関係を一変させていた。
 宮廷はズァラームの父である宰相の支配するところとなり、王家の人々は広大な宮殿の隅に追いやられた。権力に翻弄される人々の好意は国王から去り、王子は邪魔者扱いをうけるようにさえなった。
 かわって表舞台に立ったのがズァラームだ。彼は宮廷でそれまで王子が受けていた以上の賞賛を身にあびることとなった。
 だが、それは表面的なものでしかない。
 ズァラームにとっての王子との関係にはなんの変化もなかった。
 王子は敗北してはいない。
 ズァラームから受ける憎しみの感情や、父たる王の凋落の真相を知ってさえ、その魂はくじけることなく、まっすぐに前を見すえていた。
 宮殿でときおり見かけるかわらぬ王子の姿に、感じたのは屈辱だといってもさしつかえないだろう。
 王子がかわいい弟のような存在であった頃には、考えられないことだった。
 だが、感情が突然に生まれたものでないことは、わかっている。
 初めて出会ったときから、彼はアルスィオーヴを見るのが嫌だった。
 みずからの黒い髪、黒い瞳、褐色の肌を呪うズァラームにとって、北からやってきた支配者の血脈を伝える金髪碧眼の王子の姿を見るのは、たまらないことだった。彼の母親は王の妹だ。彼女はすきとおるような白い肌と、かがやく銀色の髪の持ち主で、青い瞳でためいきとともに自分の息子を眺めたものだ。生前の母が父を嫌っていたことを彼は知っている。彼の造作は父親に似てはいないが、しかし彼の民族的な特徴は父親から受け継いだものに違いなかった。
 だが、王子の母は宰相よりもさらに被支配者の血の濃い人物だったのだ。
 風がふくとゆれるかるい髪を、幾度むしり取ってやりたいと思ったことだろう。
 だが、外見の相違はたいしたことではないのだと、いまでは彼にもわかっている。
 証拠は、いま、アルスィオーヴのかわりに目の前にたたずむ娘だ。
 彼は王子を憎みつづけるだろう。
 みずからの存在の対極にある魂を憎みつづけるのだ。
 太陽の光はズァラームの闇を際だたせて追いつめる。
 反対に、闇に沈むものは彼に安らぎをあたえた。
 セルウィス伯爵夫人の瞳にひそむのは、かがやかしい光ではなく、暗い篝火だった。
 彼のうちにある冷たい炎に似た、青白い炎だった。
 彼女は長琴をつまびいていた。
 ほそい指先から生まれいずる調べは、彼に贈られる明るい恋の歌。
 しかし、その旋律にこめられた想いは昏く、苦しみにみちていた。まるでズァラームの憎しみに呼応するかのように、ささやくようにねじれた情念をうたっていた。
 にじんだようなランプの光の中で、伯爵夫人は彼にたずねた。
「なにを考えているの」
 視線は、ズァラームにはむけられていなかった。
 瞳は彼を見すえているが、彼女が話しかけているのは、別の男だ。
 ズァラームは答える。
「ヴィスタリス、あなたのことを」
 伯爵夫人は一瞬、うれしそうに微笑みかけたが、すぐにだまされるものかとまなざしが鋭くなった。まるで幾度も裏切られて、それに慣れてしまったことを自慢しているかのように。
「うそつきね。大うそつきだわ。よくもそんなでまかせを言えたものね」
 ののしる女の瞳が、次第にうるんでいくのをズァラームは反論せずにみまもった。
「そんな目で私を見ないで。いつもそう。いつもあなたはそうだわ。私をみくだして、私を踏みつぶして――平気な顔をしている。私がなにをいっても、右から左へ聞きながすだけ」
「――ヴィスタリス」
「どうしてわかってくれないのです」
 伯爵夫人は喉から声をしぼり出し、ここにはいない誰かにむかってつぶやいた。
 涙が頬をぬらし、とうとう彼女は掌で顔を覆った。
 ズァラームはゆっくりと女の腕にふれた。ヴィスタリスは顔をあげずにくぐもった声で弱音を吐いた。
「私、もうだめだわ。ズァラーム、私、もうだめよ」
 ヴィスタリスはふるえていた。
「あのひとは私を愛してはくれない。私が想うように想いかえしてはくれない。私のしていることを、やめろといってさえくれないのよ」
「ヴィスタリス」
 ズァラームはかみしめるように彼女の名を呼んだ。
 彼女は濡れた顔をゆっくりとあげた。
 孤独なみずからの分身に、彼はなぐさめのくちづけをした。
 ズァラームがしめした優しさをヴィスタリスはおそれずに受け取り、そして返した。赤いくちびるで。
 そのとき彼女は忘却よりももっと積極的ななにかを望んでいるようにみえた。
 彼は望みに応えるべく、彼女の身体を受けとめた。
 まるで、真実もとめあう恋人のように。
 その夜、ズァラームはヴィスタリスを愛した。
 このときだけ、ふたりは愛しあっていた。
 薔薇の香りが漂う闇で、ズァラームは陶酔に身をまかせた。からだのすべてが、うちに燃えさかる憎しみさえ同化してゆくような夜だった。哀しみと、苦しみとともに。



 翌日、彼はマルティネシアの腹の子が流れたことを知った。


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