その夜、セルウィス伯爵夫人は珍しいものを手に入れたからとズァラームをひきとめた。
夜の帳が下り、熱気の去った窓際で、ズァラームは侍女から杯をうけとった。
銀の杯からは甘くつきさすような匂いがたちのぼっている。
伯爵夫人はもう遅いからとリアーナを下がらせた。娘は月光をあびてうかびあがる若い男の横顔をちらりと見やると、静かにうなずいて退出した。
あの夜のあとも、ズァラームと伯爵夫人は変わらぬ態度で日々を送っていた。
伯爵夫人は特別なことはなにもなかったようにふるまい、一度もそのことにふれようともしなかった。それは彼にとっても受け入れやすい態度だったといえる。
だが、今夜は風向きが違うようだ。
ズァラームは杯の中身がなんであるのか、香りをかぎながら考えた。
伯爵夫人は優雅な仕草で杯を手にとり、中の液体をすすってみせる。
「蜜のような香りでしょう」
彼が言われたことを確かめようとするのを、伯爵夫人はいたずらっぽい笑みとともに見守った。今宵は一段とあでやかに装っており、リアーナが不安げな顔を見せたのも無理はないと思えるほど美しかった。
「めずらしいものというのは、これですか」
甘く濃密な香りはなるほど蜂蜜のものとよく似ている。
琥珀のような色も、ねばりつくようなとろりとした甘さを予想させる。
「これはね、蜜酒というの。ここからずっと北の、想像もつかないほどに寒いところで好まれているのですって」
うながされるままにすこし口に含んでみると、発酵した蜜が舌にからまった。
伯爵夫人は彼が飲み下すのを待っていた。
「どんな味?」
ズァラームはお世辞にもうまいとは言えない飲み物に対して、なんと答えようかとしばし迷った。と、その隙をつくように夫人は不意に真顔で言った。
「太陽の味が、しなくって?」
見返すとまじめを装った表情がかすかにくずれたようだった。
ズァラームは伯爵夫人が見せている表情に惑わされたふりをした。
「太陽の恵み深き味、ですか」
いらえは伯爵夫人の言葉をおもしろがっているようにひびいた。
彼女はズァラームの真意を確かめようとはせず、手の中の杯に視線を落とす。
「そこでは一年中寒くて、炉の火はいっときたりと絶やせないそうよ。空はあつい雲が覆い隠して、冬は暗く厳しく襲いかかるもの……。ひとびとはいつも太陽を待ちのぞんでいて、かの大神の残光ですら尊きものと崇めたてまつる」
世界は広い。北の地方ではそうなのだろう。
だが、彼らの住むここではちがう。
言葉は彼の胸に反語のように響いた。
アイン・シャムスでは誰も太陽を盲目的に崇めたりはしないものだ。
伯爵夫人は彼の心を読んだかのようにつづけた。
「私たちはかれらのように純真ではいられないわね」
アイン・シャムスの太陽は、大地をあたため生き物をはぐくむ慈悲深き神としてのみ存在するのではなかった。すべてのものからうるおいを奪い、焼きつくし、死に至らしめる、非情な神でもあるのだ。
だが伯爵夫人はそうした事実をのみ語っているのではなかった。
「この蜜酒は、太陽の酒と呼ばれているのですって」
ズァラームはその声にかすかなあこがれを聞きとった。そのことが彼自身にもわからないながら心を奇妙に波立たせた。
「私なら、月の乙女をえらびたいですね」
あまねくふりそそぐ陽光とはべつに、月の淑女は気に入りのひとりをえらびとる。しかし、彼女の愛は冷たい氷でできており、ひとにとっては狂気の原因にさえなるという。
彼にはふさわしいとはいえまいか。
だが、その言い方は挑むように聞こえたかもしれない。
伯爵夫人は年わかい弟のような男をえもいわれぬ顔をして見つめていた。
「どんなに冷たくても?」
「――ええ」
どんなに孤独でも。
こころの中でつけくわえたのが聞こえたように、艶のあるくちびるに苦笑いがうかんだ。
「あなたらしい――ちっとも弱気にならないのね」
一瞬、女の姿が亡霊のように見えた。
伯爵夫人は弱気になっているということなのだろうか。
ズァラームは杯を置いた。額にかかっていた髪をズァラームの手がそっとかきあげたとき、伯爵夫人はようやく彼を見た。その顔に表情と呼べるものがあったのかどうか。彼は彼女のからだがふるえたと思ったが、瞳には怯みと思えるようななにものも見つけることはできなかった。
彼女は彼の腕に手をかけてささやいた。
「いまなら、言ってもいいかしら――あなたが誰を想っているか」
空気がはりつめたような瞬間が過ぎ、ズァラームは無表情だった美しい面にいつわりの微笑みをのせた。
「そんなことを言われたこともありましたね。そのとき私は言ったはずです。もし本当にあてられるというのなら……」
伯爵夫人の華奢な顎に手をかけると、彼は赤いくちびるを封印した。
「……あなたはずいぶんな自信家なのだと」
長いくちづけのあと、自嘲するようにつけくわえる。
「私はあなたを想っているのですよ」
ズァラームはゆっくりとからだを離し、伯爵夫人は息をついた。
そのとき、部屋の外と思える場所で物音がした。廊下を遠ざかってゆく足音は、みだれていた。見えるはずのない侍女の姿が、鮮明に彼の脳裏に像をむすぶ。
突然の侵入者は、穏やかで親密な時を修復困難なまでにうちこわしていた。
ふたりの距離は急に遠ざかったようだった。
「このあいだのことは、もう忘れて。あれは過ぎ去った夢よ。いいえ、見たこともない夢」
伯爵夫人はかぶりをふった。未練を断ち切ろうというのだろうか。
「私だって、あなたを愛している。でも、これは自分へのごまかしなの。わかるでしょう」
今度はズァラームの頬を女の手が撫でる。
「私があなたを愛するように、あなたは私を愛している。あなたと私は似ているわ。私たちは自分を慈しむようにおたがいを慈しむ。闇を、月を、自分に似たものとして愛するように」
ズァラームは顔を背けた。
まっすぐな黒髪が帳となって、その表情を隠す。
「そしていつも追い求めるの、光を。太陽の光を。闇とは正反対のものを。まぶしさに焼かれて苦しみながら」
言葉ににじむ苦しみがズァラームにはわかった。それは実際に彼の中にもある苦しみだったから。
苦々しさとともに彼は言った。
「たしかにあなたはそうなのでしょう。しかしなぜ、そんなことを私に言われるのです。なぜ私をもそうだと決めつける」
押し殺すように声を低めても伯爵夫人は動揺しなかった。
彼女は穏やかに問い返してきた。
「ズァラーム。あなたはなぜ、ここに来たの。これは理由にならないかしら」
「ヴィスタリス、あなたは――」
言い返そうとしたズァラームの眼に映ったのは、憐れむように見つめる双眸だった。
ズァラームは言葉を失った。
伯爵夫人の瞳には彼への、自分に似た存在への憐れみと、そしてなによりも深い絶望が濃い影を落としていたのだ。
彼女の感情は深いところで彼のものとおなじだった。
たぶん、ある一点をのぞいては。
彼は常に運命を拒んで生きてきた。
そうすることで、みずからの存在を許してきたのだ。
このときもまた、ズァラームは伯爵夫人に背を向けた。
胸に苦いものがこみあげてくるのを、彼は無視した。
闇はそれのみでは成り立たぬ。
いかにも。
だからといって、なぜ闇がみずから光を求めなければならない。
ズァラームは憎んでいた。
世継ぎの王子を。
金の髪をなびかせて彼に微笑みかけたアルスィオーヴを。
その容姿ゆえに。そのつよさゆえに。
彼にはけして持つことのできない、その輝きゆえに。
そうだ、憎んでいたのだ。
彼は背を向けた。王子の存在する場所を見ずにすませるために、太陽にそむいた。
闇を友とし、みずからの一部として受け入れもした。
憎悪のために。それ以外の理由を彼は必要としない。それ以外の感情も、認められはしなかった。
ズァラームはひややかな闇の中で平静さをとりもどそうとした。
伯爵夫人は自分の感情を持て余すあまり、彼と自分を同一視し、一方的に彼を非難している。そう思いこもうとした。
ズァラームは深淵の縁に足をかけ、その深さを測りかねているところだった。
彼の前には闇が、後には暗闇があった。
引き返すことはできない。
彼は自分に枷をはめ、それ以外の道を許さなかった。
闇の秘術はやがて完成する。
あと一歩、彼が前へと踏み出せば、それですべてが終わりとなるはずだ。進行中の魔術は彼の私室で最後の一仕事を待っていたのだ。
ズァラームは伯爵夫人を残して部屋を去った。
伯爵夫人は扉の音を背後に聞いていたが、ふりかえらない。
このとき人に思われていたほど、自分で考えていたほどに、彼は老成しても大人びてもいなかった。そのことを自覚したとき、ズァラームはそれが遅すぎたことも悟らねばならくなるはずだ。