その夜以降、ズァラームと伯爵夫人は儀礼的な会話以上の言葉を交わさなくなっていった。
 礼を失することはなかったが、よそよそしさは態度にもあらわれかけている。
 夫人は気にするふうではなかった。彼女にはもっと重大な心配事があるように見えた。それは妹のマルティネシアのことかもしれず、そうではないのかもしれなかった。
 館を訪れるズァラームをにこやかに受け入れるのは、ディヤリスだけになっていた。
 彼は異母弟の午睡が終わる頃にやってきて、薔薇園の木陰でしばしの時を過ごした。
 ふたりが花の盛りを過ぎた薔薇の迷路の中で、やってくる昆虫や蝶、鳥たちを眺めているとき、侍女は遠く離れた柱の影でひっそりと様子をうかがっている。
 ズァラームは物陰から見つめるリアーナの視線を背中越しに、ときには異母弟越しに感じることができた。彼はリアーナを無視しつづけ、ディヤリスの相手をすることのみに神経を傾けているようにふるまった。
 ディヤリスのゆびに黒い光沢のある虫がとまり、すこしのあいだ羽根を休めたあとで飛び立ってゆく。
 彼らが共有しているのは、こんな他愛のない出来事に過ぎない。
 それでもリアーナは息を殺し、じっと様子を目で追った。
 ゆるやかな午後の風に揺れるズァラームの黒髪。ディヤリスの瞳が虫の行方を追ってさまようさま。
 かつて恋人だと思っていた男は、自分といたときよりもずっと優しい微笑みを浮かべている。
 生け垣の下へと入ってしまった虫を追って這いつくばる弟を見まもる、おだやかな黒い瞳。
 ディヤリスはがっかりして体を起こし、兄を見た。
 ズァラームは地面にこすりつけた服から土をはらってやると、虫を見失った弟のために次の獲物をさししめしてやった。
「ほら、ディヤー。あそこに猫がいる」
 ふりかえると薔薇の間にしなやかな肢体の黒く優美な獣がいた。
 ディヤリスは目を輝かせて小さな肉食獣に近づいていった。猫は金色の光彩をほそめると、すばやい身のこなしでディヤリスと生け垣の間を走り抜けていった。
 少年は生き物の身軽さに触発されてはじかれたように後を追う。
 小さな後ろ姿はやがて緑の迷路の中へと消えてゆき、中庭は乾いた風が吹きすぎるだけのところに変化した。
 ズァラームは、ディヤリスを追っていったリアーナの視線が、ふたたび自分へ戻ってくるのを待った。
 背後の侍女は、ともに薔薇園に残っているのが誰であるかを思い出して体をこわばらせている。
 ズァラームは静寂に逆らわず、ただ待ちつづけた。
 リアーナはせめぎ合う感情を持て余していた。自分がなにをしたいのか、なにをするべきなのかを理解する前に、足はうごき出していた。彼女は夢遊病者のような足どりで薔薇の間を通り抜け、ズァラームの前で立ち止まった。
 彼はリアーナの姿を見て動揺してみせた。
 リアーナは行動の後の困惑を味わっていた。憤りが彼女の体を動かしていたはずなのに、標的を目の前にしてためらうさまがズァラームをほほえませた。
 彼女はここ数日のやりきれない思いを解消するための決意を、必死になってかためているところだった。
「ズァラームさま、わたし――」
 やっとの思いで口にした言葉を、ズァラームは遮った。
「やっと口をきいてくれたんだね、リアーナ」
 美しい顔をほころばせて侍女をひるませる。
「このところずっと避けていただろう。嫌われたのではないかと、心配していたんだよ、私は」
 憂いを含んだ黒い瞳が、静かにリアーナを見あげた。彼女は頬を染めて顔を背けた。ズァラームは気遣わしげに尋ねる。
「どうしたんだい。こちらをむいてごらん」
 前で握りしめていた両手を取ると、娘ははっとなった。
 彼の手をふりほどいて、自分の行為に驚いたようだが、疑念をすてきれず、さりとて未練をたちきれもせずに彼を呆然と見つめている。
 ズァラームはゆっくりと立ちあがった。
 リアーナは後じさった。
 彼の口元に自嘲の笑みが浮かんで消えた。
「ずいぶん嫌われたものだな。触れられるのもけがらわしいというのか」
 声には不当な扱いを受けているものの憤りが滲んだ。そして、侮辱を与えているのがほかならぬ彼女であるということに、かぎりない絶望と悲しみを抱いているように聞こえた。彼がリアーナを深く思っているように聞こえた。
 リアーナはさすがにおびえを隠せなくなっていた。
「嫌ってなんか――、嫌ってなどおりません。ただ――」
 それからなにをどのように弁解すればよいのか。リアーナは唇をかんだ。
 ズァラームは目を細めた。したたり落ちてきたあたたかな涙をゆびでぬぐいとる。
 肩を抱かれて腰を下ろしたリアーナは、彼の金糸をぬいとった服の袖をしっかりと握りしめていた。
「リアーナ」
 耳元でささやかれる言葉は、まるで呪文のようだった。
「おまえはあれを見たんだね」
「…申し訳、ございません」
「私が信じられなくなったのか」
 落胆を聞き取ってリアーナは顔をあげた。
「そんなことはございません。わたしは、ただ――」
 勢い込んでうち消そうとしたが、あとが続かなかった。
 リアーナは情けなさそうにうつむいた。
「――伯爵夫人は、おきれいな方ですもの」
「おまえは私を汚らわしいと思っているんだろうね」
 驚いたようにリアーナは幾度も首を振った。
「とんでもございません。違います、ズァラームさま。罪深く汚いのは私のほうです。私の大それた想いまで大切にしてくださるのはうれしいですけど、私なんかのせいでズァラームさまが苦しまれることはありません。私なんかのことは忘れてくださったほうが、ズァラームさまのためにはずっといいに決まっているもの。私が物陰からお姿を拝見しているのがお気にさわるなら、もうやめます。どうか、そんな顔をなさらないで。お願いです、ズァラームさま」
 ズァラームは目を疑った。
 リアーナの訴えるのは自らの正義ではなく、彼の正当性だった。
 それが嘘偽りのない心から出た言葉であることは、澄んだ瞳があかしていた。
 娘の黒い瞳にくもりはなく、一途な情熱とともに彼に迫った。いまにも彼のためによろこんで命を投げ出しかねないようにも見えた。
 それは彼自身の目が確かであることの証明だったにもかかわらず、彼を不快にした。純粋に人のためを願う心は、彼をいらだたせ、打ちのめす。
 リアーナ・クルスーンの魂はまさに光に属していた。
 これほど尊い涙は、見たことがない。ズァラームは苦々しく考えた。
 この柔らかい喉笛を裂けば、あいつはことのほかよろこぶに違いない。
 憎悪と嫌悪につきうごかされ、彼はリアーナの頬に手をかけた。なめらかな輪郭をなぞってゆく感触に暗いよろこびを感じながら、彼は娘に覆い被さった。
 リアーナは疑いを持たなかった。
 彼女は瞼を伏せて、すべてを彼にゆだねた。
 彼は娘の頸にかかった手をゆっくりと折り曲げ、ゆびの関節に力を込めた。
 口の中で幾度も暗誦した呪をつぶやきながら、意識を無防備な喉に集中する。
 紅潮したリアーナの顔は次第に青ざめ、苦悶を訴えるように唇が半開きになった。柔らかくしなやかな体が緊張し、小刻みにふるえ、やがて手の中でぐったりと重くなった。腕の中に落ちてきた娘の肉体を、彼はゆっくりと大理石の長椅子に横たえた。
 その瞬間を迎えた興奮が、ズァラームの意識をたかぶらせていた。手順に誤りはない。一言一句、おぼえたとおりに繰り返し、娘の生の営みがはっきりと停止したとわかったとき、彼は緊張を解こうとし、そして気づいた。
 榛色のふたつの瞳が、彼をじっと見つめていた。
 ふいを突かれ、彼は一瞬、息を止めた。
 ディヤリスの顔には表情がなかった。しかし、薄い皮膚の下に隠されているのが驚愕と恐怖であることは見てとれた。
 呼びかけの前触れのようにかすかに口がひらいていたが、どのような言葉も、声も、発することはできないだろう。
 ディヤリスは異母兄ではなく、血の気のない侍女の顔を見ていた。息をしていない人間を見たのは初めてなのに違いない。
 少年の目はうつろで、どこか焦点が合っていなかった。
「ディヤー…」
 ズァラームの声に、ディヤリスはびくりとして視線をリアーナからはずした。
 夢から連れもどされたかのように、彼は二回、まばたきをした。だが、悪夢はいまだ彼の前に存在した。
 そのとき、ズァラームは異母弟になにを言えばよかったのだろう。
 彼はディヤリスをひきとめればよかったのだろうか。
 彼は立ちあがり、小さな弟に一歩近づいた。
 だが、それは間違いだった。ディヤリスを失いたくなければ、してはいけないことだったのだ。
 少年は迫ってくる魔におびえた。
 それが兄であることに、幼い彼は思いおよばなかった。
 恐怖にかられて走り去る後ろ姿を、ズァラームは幻を見るように見送った。
 ディヤリスはもう、心からの笑顔を彼にむけることはないだろう。
 そんなことをふと思った自分に、肩をすくめる。沈んだ気分はおのれの甘さのように思えた。だが、ことさら無視するのも面倒な気がして、そのままほうっておくことにする。
 リアーナのためにも、そのほうがいいような気がしたのだ。
 じきに闇への供物とされるその身の運命を知り、悲しんでやるものはほかには存在しないのだから。
 娘の動かぬからだの上に、彼はたわむれに薔薇の花びらをふりかけた。
 舞い落ちる赤は、流されるはずの血液のように美しかった。


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