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第一章



 シアは夢を見ていた。
 島の夢。
 生まれてからずっと、世界のすべてだった、海にかこまれた小さな領土。
 潮のかおりのする風や、冷えこむ納屋の寝床、朝のさわやかさ、みどりのかがやき。足にまとわりつく子犬のシルグ。山羊を追って朝と夕に通る道。
 館の暗い台所。あたたかいスープから立ちのぼる湯気。
 霧のたちこめる谷の小屋。不潔な老人と薬草のにおい。あやしげな魔法のしるされた本。老賢者のささくれだった、しわだらけの手。欠けて汚れた歯。
 暗闇にゆれる篝火の炎。つめたい目、ひややかな熱をおびた、狂信的な目。
 金属のぶつかりあう音が聞こえる。
 吐きだされる呪いのことば。魔除けのしるし。殺された母の亡霊。
 すみずみまで体になじんでいるものへのなつかしさと、どうしても同化しきれなかったものへの違和感が、夢のなかで渦をまいていた。
 排他的な島民の狭量な顔が、思いだしたくもないのにつぎつぎと浮かんでくる。
 魔法使いを騙り、シアの母親を魔物ときめつけた育ての親の老人が、彼女も魔物なのだと宣言したあとで見た、背筋の凍る光景がくりかえされる。
 満ちてくる潮。突き立てられた杭に縛りつけられて、つめたい波に洗われつづけた。
 月が無情にかがやいている。まるで、ひややかで無関心な精霊のように。
 ふかい藍の空、ふかい黒の海。身をなぶる波。ゆれる銀の鎖。
(これをもっててくれないか)
 あかるい色の眼をした少年が差しだしたのは、たぶん、母のかたみの夜色の石だ。
(ああ、あたしは死ぬのに)
 背筋の凍るような水のうずにゆすぶられながら、シアは思う。
 せっかく、たいへんな思いをして、島から出てきたというのに。
 それはこんなにかんたんに死ぬためだったなんて。
 なんてばかげた人生だろう。
 つめたい絶望が胸をかすめた。
 せっかく、ティストがじぶんを犠牲にしてまで彼女をたすけてくれたのに。
 兄さんみたいだったティスト。いまごろ、魔物をたすけた裏切り者として、どれだけつらいめにあっているだろう。
 かれが心の傷にたえながら、血のにじむ思いでしてくれたことの結果が、こんなふうに終わってしまうなんて。
 シアはじぶんとティストのために泣き、エスカのためにも泣いた。そして、精霊の情をもたない美しさにいいしれぬ憤りを感じた。熱い怒りが、さいごの抵抗のように燃えあがった。
 くろぐろとした闇の中に、ちいさな炎があがった。
 水のなかでも消えることのない火は、波のなかで水のうごきにつれてゆがみはしたが、自身はいささかもゆらぎはしなかった。
 それは炎ではなかったのかもしれない。
 光は遠くまでとどいて周囲に水の斑をつくった。屈折してゆらめきながら、海は彼女をとりまいていた。
 白い水泡が真珠の鎖のようにつらなってまわり、シアは吸いよせられるように大きくたゆたう流れの中へとはこばれていった。
 流れは、海底へむかって渦をつくり、シアはぐるぐるとまわりながら、下へ下へとひきこまれてゆく。
 闇を照らすのはちっぽけな光だけだったが、恐ろしさは感じなかった。
 きっと、これは夢なのだと、意識していたからにちがいない。
 精霊がシアのすぐそばでふしぎな微笑をたたえたうすい唇をひらいた。
(おまえの言うとおりにしてやろう)
 ことばの意味がわからない。なにを言っているのだろう。わたしがなにをしたというの。
 聞きかえすまもなく、精霊は波にからめとられて、ひきはなされていく。美しい姿が闇のなかに消えてゆく。
 はやくなるいっぽうだった流れが緩慢になってきたのを、シアは翻弄される意識のなかでとらえた。
 渦はかたちをなくし、地面の上でわだかまるように終わっていた。
 ここはどこだろう。
(あたしは、もう、死んだのか)
 それではここは、あの世というわけなのだろうか。
 波に髪をなぶられながら、シアはぼんやりと考えた。
 光はうねうねとつづく砂丘を陰影をつけてうかびあがらせていた。そして、そのむこうに小さな光では照らしきれない、巨大なくろい影がそびえていた。
 水中都市。
 シアはこのように大きい建物を見たことがなかった。島長の館など、これにくらべれば犬小屋のようなものだ。
 きっちりと組みあわされた石でつくられた、重々しく堅牢な建物の下をくぐり抜けると、おなじような造りのおなじように大きな建物が、道の両端に規則的にたちならんでいた。
 そこはもう暗くはなかった。
 光源らしきものは見あたらないのだが、すべてが自身で発光しているようにあわい輝きを放っている。
 シアは通りをゆきすぎる人びとの美しさにおどろいて目をみはった。
(見かけぬ顔だな)
 声をかけてきたのは、わかい男だった。
(なにをそのようにおどろいているのだ)
 男の端正な顔はとなりの、やはり美しい女をふしぎそうに見かえした。女はシアをいぶかしげにながめていたが、ふいに手をさしのべてシアの胸にさがっていた鎖を手にとった。
(めずらしいものをもっておるな)
(そのものは客じゃ)
 背後から水があわだつような声がふりかかった。
 女は手にした鎖をはなし、シアを蔑みとあわれみと羨望のまじった、きみょうな銀の瞳でみつめた。
(それでは、つれてゆくがよかろうよ)
(ここはそなたのおるべきところではない)
(なにゆえ、ここまで足を踏みいれることをゆるしたのか)
 つよい拒絶がシアをとりまいた。ついさきほどまでは、シアのことなど眼中になかった人びとが、とつぜんふりむいて不快を訴えだした。
 シアはじぶんのなにがそれほどの反応をひきだしているのか、わけがわからないまま不安になってあとずさりをはじめた。
 波のゆれるごとにふるえる水中都市。
 住人はシアを、異質なもの、じぶんたちとはあいいれぬものを見るときの目でながめた。
 瞳の色はさまざまで、人のものとは思えないほど澄みきった、情のうすい感じのするまなざしに、シアは精霊の瞳を見た。
(このひとたちは、みんな、精霊なの)
 疑問にたいする答は、嘲笑のようなほほえみだった。
 あまりの美しさに、シアは反感ももたずに不安だけをつのらせた。
 ここがあの世なら、なぜ、人間がいないのだろう。
 まさか、精霊のあの世にきてしまったのでは。
 シアの考えをたしなめるように、涼やかな凛とした声が聞こえた。
(心配することはない。ここは、あの世でも精霊のすまうところでもありはせぬ)
 シアの手をやわらかくとってひきよせたのは、最初に話かけてきたものとおなじようにわかく、美しさではより以上のすっきりとした姿をした男だった。
(このものは来るべくしてこの都へと来た。なにものの手びきもうけてはおらぬし、まして、なんびとも不満を言うすじあいではない)
 男はシアの顔を見ていたが、ことばはまわりの人びとへと向けられていた。
 かれの声はろうろうとして威厳があり、そのまなざしに悪意と名づけられそうな負の感情はどこにも見えなかった。
 わかいとはいえ、彼女からはだいぶ年上と思える青年の身についた高貴さに圧倒されて、シアはぼんやりとなった。
 青年は整いすぎるほどに整った面をかすかにうつむけて、シアに語りかけた。
(だが、この都がそなたにふさわしいものとは、とうてい言えぬな)
 声を落としたそこには、さきほどの女や男の拒絶のような高慢な響きはなかった。
 わかい統率者はさみしげな微笑をくちびるに刷き、
(では、案内しよう。そなたはここにいるべきではない)
と言い、シアをつれて身を宙へとおどらせた。
 上から見ると、都は石造りの迷路のようだった。
 ぼんやりと燐光のようなかがやきがところどころで見られ、それがたよりない光源の役割をはたしていた。水底に生える藻が石壁を緑におおいつくそうとしているのが、ここが海底なのだということをかろうじて思い出させるただひとつの現象だった。
 すべては調和のとれた美しい様式でたたずみ、人びとはほんのすこしまえのことはすべて忘れたかのように、やわらかく穏やかな顔をしている。
 黄昏のような薄闇が水中都市をひたひたとおおっていた。
 青年は藍やむらさきの光のなかに沈むかれの都を、さきほどのさみしげな表情をうかべて見ていた。
 長く美しい髪が水になびく。
 シアは潮にさからう進みかたにおどろき、この世のこととも思えない光景に驚嘆していたが、いっぽうでは青年の憂いの意味をぼんやりと考えていた。
 ふたりは迷路の上をとおりすぎ、いつのまにか、建物のないひらけた場所にやってきていた。
 青年はシアとともに碧い海底におりたち、白い衣をふわりとなびかせた。
 シアは視界が波とはべつの理由でゆれはじめるのを、めまいとして感じていた。
 青年はシアを前へと押しだした。
(さあ、進むがよい。そなたの生は地上にある)
 シアはぼやけてゆく青年のすがたに問いかけた。もう、会うことはないのかと。
(そうは言いきれぬ)
 青年はシアをふしぎなまなざしでみつめた。
(ではまた、運命(さだめ)の命ずるときに会おう。シルアーリス)
 大きな波がシアをさらい、青年とのあいだをひきはなした。
 白い泡が彼女のからだをつつみ、見えるのは、ただ白ばかりだ。
 夢は終わりにちかづいていた。水中都市はすでに消えていた。
 蒼い炎も、黄昏の美しさも、水の渦にかき消されてしまった。
(ゆくのです。生きるのよ、シア。私はあなたのためになにもしてあげられないけれど、あなたの無事を祈っています)
 母が、すでに肉体をもたず、霊魂のみをぼんやりとうかびあがらせる母の姿が、シアに呼びかけた。
(シア)
 母の姿がしだいに変化して、まばゆい光をはなつようになった。
 正視できないまっしろな空間に、金の翼がおおきくひろげられた。
 金の鳥は紺碧の大空にうかび、彼女のゆくさきをさししめしている。
 彼方を。


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