風は、天気のくずれるまえぶれだった。
それまで、なさけ容赦なく降りそそぐ太陽の光から逃げることもできず、暑さと喉の渇きに死ぬ思いをしていたかれらは、この変化を歓迎した。風にはこばれてくる雲が、ここちよい影をつくってくれると思ったのだ。
期待どおり、風は黒い雲をどんどん頭上に流しこんできた。
しかし、灼けつくような太陽から開放されて、ほっとしたのはつかの間のことだった。
死にそうにあかるく青かった世界は、風が強まるごとに暗くなり、見るまにたちまちまっくらに、まるで、昼がとうとつに別れを告げ、いきなり夜が訪れたかのように世界が変化してしまったのだった。
小舟の中でゆられているシアは、ふきつけてくる風のつめたさと、しだいに大きくなる波とにおそまきながら異変を感じていた。
なまあたたかった風が、むきが変わって急にひんやりとしたものになった。
風はどんどんつよくなり、やむような気配はない。すると、波はどんどん荒れてゆくだろう。
このところのせまくるしい船上生活のおかげで、シアにもこの程度の理屈はすぐに考えられた。
では、この風が際限なく吹き荒れるようになったら、いったいどういうことが起こるのだろう。
とつぜん、舳先がぐいともちあがり、つぎの瞬間にシアは小舟ごとななめにかしいでいた。
不安が恐怖に変わった。シアは必死で舟にしがみつき、投げだされそうになるのをこらえた。
「エスカ!」
船底の大半を占領して横たわっている少年は、少女の叫びにも力のない声を吐きだしただけだった。
「エスカ!」
ひびわれたくちびるは、こんどは息をもらしただけ。そんなかすかなうごきを読みとっている余裕は、シアにはなかった。
小舟はふたたび波にもまれ、しぶきがかれらのうえに降りかかってくる。
波にゆすられるたびにぎしぎしと悲鳴をあげる小舟の中で、シアは海へ落ちないように気をつけながら素足で少年の背中をおした。
「おきてよ、エスカ」
少年はうごかなかった。死んだように眠っている。シアはエスカの背中を蹴った。
「おきろ、おきろってば、この役立たず」
大きくゆれつづける小舟は、しがみついているシアをふり落とそうとしはじめたようだった。彼女はやせた腕にだせるかぎりの力で縁をにぎりしめた。
表情を変えたのは海だけではない。
風はびゅうびゅうとふきまくり、シアの陽に焼けたしろっぽい金の髪と、粗末な服をはためかせて、あわよくばともに巻きあげてしまおうとしていた。
舟からさらわれそうになるたびに、シアは悲鳴をあげつつ、エスカを罵倒した。
もちあげられては落とされ、沈んだかと思うとなげだされ、小舟もシアに負けず劣らず悲鳴をあげつづけている。
悲鳴と非難はしまいにはどちらがどちらだか、区別がつかなくなった。そして、真暗な空から大気全体にとどろく音が聞こえだしたとき、ふたつはひとつになって消滅した。
声にならない悲鳴をあげて、少女はゆれる小舟のなか、意識のもどらない魔法使い見習いにしがみついた。
大気がぴりぴりと張りつめている。
天を裂き、地を破壊する雷神が、怒りをくすぶらせているのだ。
雨つぶがたたきつけるように降りはじめた。雷と海面に落ちる雨の音が、高まり崩れる波の音が、大気をうち、耳を聾した。
閃光が走る。
一瞬、もりあがる波がしらが見え、闇がもどったかと思った瞬間に、すべてをひき裂くような音が世界を麻痺させた。
小さな島の小さな館の奉公人だったシアが、魔法使い見習いだというエスカとともに逃げるように島をあとにしたのは、三日前のことだった。
とても外洋にでられるような代物ではない小舟に乗っているにしては、航海は順調にすすんでいた。
知識のないシアは帆がないのに前進する舟をふしぎとも思わなかったが、それにはやはり、理由があった。三日のうちにさすがに疑問がわいたものの、エスカは潮にうまく乗っているのだと説明したので、そんなものかと納得していたのだ。
そんなことより、彼女の関心はしだいに減ってゆく食料と、つよい陽射しのために赤くなって痛むようになった肌にむけられていた。さえぎるものがなにもないので、晴れわたった空を恨むことしかできなかったのだ。
日焼けは、南の島で野良仕事をしていたシアよりも、北からくだってきたというエスカのほうがひどかった。じっさい、かれの肌には火傷のようにみずぶくれができており、見ているだけで痛ましいくらいのありさまになっていた。
ときおり、ひまをもてあまして愚痴をこぼすシアとは反対に、しかしエスカはけっして泣きごとを口にせず、だまって痛みに耐えていた。
もしかするとエスカは、このころから限界に近づいていたのかもしれない。
魔法使いは、舟を精霊に運ばせていた。
精神の力できまぐれな精霊を押さえつけ、目的地へと舟をむかわせていたのだった。
シアは、恐怖に気がとおくなりかけた。
ぐん、と突きあげる波と、降りかかる雨が、彼女を現実にひきもどした。
あわてて舟にしがみつく手に力をこめる。彼女はエスカの大きすぎる服のたるみを握ってひっぱった。
「おきてよう」
いつのまにか涙がにじみでて、肩で息をしていた。声はかすれ、雨風に消されてしまう。
少年は反応しなかった。息はしているのに、まぶたはぴくりともしない。
「魔法使いは、どうやら限界のようだな」
ひときわ大きな波に、舟をひっくりかえされそうになりながら、シアは声の方向を見た。
「分不相応なわざを使いすぎたのだ」
舳先にだれかが座っていた。この世のものとも思えない美しいすがたかたちをした、それ。
雨も風も波も、その存在には意味を持たないようだった。濡れてもいないし、髪が乱れるようすもない。ただ、端然とそれはそこにいた。
シアは涼しげな顔をにらみつけた。
「どこ行ってたの」
「ずっとここにいた」
精霊はひとならぬものの冷淡さで答えた。
「だったら、どうにかしてくれたって」
シアの抗議は降りかかってきた波しぶきによって中断された。
にえくりかえる思いで小舟をほんろうする波をたえしのび、つぎに波の最高点に達しようとするときに、あらんかぎりの声で叫んだ。叫ばないと、声はじぶんにも聞こえなかった。
「どうにかして!」
「私に命令するのは、おまえが魔法使いになってからにするのだな」
「そんなひまがどこにあんのよ。いま、いま死にそうだってのに!」
精霊は、シアの必死の声に心をうごかされたようすもなく、抑揚のない答を返した。
「私は、私の名を所有するものにのみ、仕える。いま、私を自由にあつかうことが許されるのは、その魔法使いのみだ」
「名前? 名前ってなによ」
「真実の名は、その性をあらわす。すなわち、名は、私自身だ」
それから精霊はひとにはわからないくらいかすかに眉をひそめ、いぶかしげにやせっぽちの少女をながめた。
シアは精霊の不可思議な表情に気づかなかった。
稲光がして、雷鳴がとどろき、それどころではなかった。わけもなくうめきながら、シアはあばれ馬のような小舟をなんとかして乗りこなそうとした。無意識のうちに、呪いのことばが口をついてでる。
暴風雨になぶられてずぶぬれになりながら、シアは恐怖とその果てに生まれた怒りとの力で精霊をののしっていた。
「ごちゃごちゃ、わかんないこと言うな。エスカの子分だって言うんなら、エスカをたすけなよ。このままじゃ、ぜったい、おぼれて死ぬよ!」
精霊は表情のない無情とも思えるしずかな視線をシアにむけていた。
その瞳は、なにいろともつかぬふしぎないろをたたえ、理解しがたい現象として、眼の前の少女をとらえていた。
だが、シアに精霊のこころを読みとれるはずもない。
彼女は、ついと舳先から艫へと移動した精霊をいまいましげににらんだ。
「あんた、なんのためにここにいるのよ。あっ」
ひときわ大きな波が小舟を襲い、シアはあやうく外へ放りだされるところだった。
恐怖のまじった怒りが、いらだちとともに彼女をつつんだ。
ふたたび稲妻がはしり、さかまく海といまにも沈没しそうな小舟とが照らしだされた。船底には海水がゆれており、ぬれそぼっているのはシアだけではないことがわかった。
エスカは苦しげに顔をゆがめてはいたが、意識をとりもどす気配はなかった。
絶望が、かすかに胸をさした。
この嵐をきりぬけられるとは、とても思えなかった。
ずぶぬれで、さむくて、不安定で、ひもじくて、それが永遠につづくような気がした。
精霊はかれらをみすてようとしている。運命が彼女をみすてようとしているように。
だが、一瞬のちには弱気になったぶんぬけてしまった力を補うような、理不尽さにたいする怒りがわきあがってきた。
シアは荒れ狂う暴風雨の闇の中に消えようとする精霊にむかって、大声でどなった。
「消えるな!」
するどい制止の声は、風の悲鳴、海のうなりを裂いて、刹那のあいだ、すべてのうごきを凍らせた。
「行くんじゃない!」
うつくしい顔が、精霊の驚きにみちてふりかえった。それは神妙に少女のつぎのことばを待ちうけているようにさえ見えた。
シアは、精霊のためらいを無意識に感じとり、力をこめて命令した。小舟は断末魔の叫びをあげようとしているところで、彼女のほうにはためらっているひまはなかった。
「あたしたちをたすけなさい」
ことばの効果をたしかめる余裕はなかった。
シアが命令をなげつけると同時に、小舟は大波に平衡をうしない、転覆した。
シアは塩からい水の中に投げだされた。なにもたよるもののない、冷たい暗黒の中へ。
体をひきちぎられそうな圧倒的な水の力にもまれ、息ぐるしさに気をうしなうのに、長い時間はかからなかった。