一本の木になっているコルンの実をとりつくすまで食べつづけると、ようやく喉のかわきにひとここちがついた。
コルンの実は小さくて、水分をたっぷり含んでいるから、空腹をみたすところまではいかなかったけれど、ごまかすことはできた。つぎはエスカのぶんだ。
前を見ると、すこしはなれたところにおなじ種類の木が生えていた。シアはさきほどよりはいくぶんゆったりとした足どりで木に近づいた。密生した下生えに足をとられて、ただでさえさだかでない足もとがふらつくのも、無視してしまえるくらいだ。
しかし、ほんとうにころんでしまったあとでは、心のゆとりは跡形もなく消え去っていた。
「いっ」
小さい悲鳴をあげて、シアはその場にうずくまった。なんだかとても硬いものに足指の先をぶつけてしまったらしい。
涙のにじむ目をあけて足もとをにらんだ。からまり生えている草のあいだに、黒々とした四角く固いものがあるのが見えた。
それは石だった。まっすぐでなめらかな直方体をしている。
シアは石のまわりをよく見てみた。
わかったのは、この草の生い茂る緑の中に、彼女が足をぶつけたのとおなじ石で造られたなにかが隠れているのだ、ということだった。
それがすでに朽ちかけていることはあきらかだった。
植物は、石造りのまわりに行儀よく植えられたものではなかった。建物の主がいなくなったあとで、破壊の神の協力者として繁茂してきたものだ。
堅牢だったはずの石組は、木や草に食いこまれ、ひびわれていた。好き勝手に生えた植物たちは、いまや完全にかつての建物を呑みこんで、消化しかけていた。
シアは、好奇心からおそるおそる廃墟の中に足を踏みいれた。
建物は天井がくずれ落ちており、きっちりと組みあげられた石の壁のなごりが、ところどころに存在するだけだった。
まわりからのびてきた蔓が、それらをおおいつくして、緑の館のようにしたてあげている。
かつてはなめらかに敷かれていたはずの床石が、長年のうちにでこぼこともちあげられて、足場はひどく悪かった。
シアはゆっくりとすすんだ。
隆起した石の上を慎重に歩いてゆくと、かなりの部分が残っている壁にたどりついた。
その壁は、こまやかな彫刻をほどこされた柱によってとぎれ、そのむこうにはさらに完全に近いかたちで残った壁が、回廊をかたちづくっていた。
そこに人の住む気配はまるでなかった。雨風にさらされてざらざらになった石の壁に触れながら、シアは刻まれた長の年月を感じていた。
なぜだか、ここに来たことがあるような気がした。中へとすいこまれてゆくような、へんな感じがする。
見えない糸に導かれるように奥へと入りこんでいったシアは、最後に中央にまわりを装飾的な石でかこまれた泉のある部屋にたどりついた。
そこにも屋根はなく、そこらじゅうを緑の蔦がおおっていた。だが、奇妙な姿をした獣像の口からはまだ水がわきだしており、流れる水の音が静けさのなかでかすかに響いている。
その溜りの水で、身をきよめているものがいた。
薄暗い石の廃墟のなかで、裸のこどもに透明な液体をふりかけている。手を水にひたし、すくいあげて、額からぬらそうとしたときに、シアの気配に気づき、それはふりかえった。
シアは、自分の見たものが信じられなかった。
こどもの髪は金色で、みずからのあかるい色の髪を魔物のものと言われて忌み嫌われていたシアは、それだけでも驚いたにちがいない。
だが、真に驚くべきは、こどものかたわらの、ふりかえりながら立ちあがった人物だった。
それははだかで、みずからの長い黒髪以外はなにも身につけていなかった。だが、そうとわかったのはすこしたってからのことだ。
シアは銀いろでおおわれたからだを、それが鱗なのだとわかるまでぼんやりながめていた。
相手がじぶん以上に驚いていることに気づいたのは、そのあとだった。
にらまれている。
黒い瞳が、敵意をもって刺すような視線を投げていた。
シアはとたんに恐くなった。なにかひどく場違いなところに足を踏み入れてしまったのだと、わかったのだ。
くるりとむきを変えて、来た道を走りだす。背後で鋭い叫び声があがった。かんだかく、空気をつきぬけるような声だ。からだじゅうがふるえて、背筋が縮まった。仲間を呼んでいるのだ、となぜだかわかった。
こんなところに来るのではなかった。
シアは必死になって走った。石壁を何度もまがるうちに、どちらから来たのか、わからなくなってしまった。
そとから、きんきんとした声がちかづいてきていた。そして、葉ずれの音が。呼びかけにこたえて仲間がやって来たらしい。
シアは石に足をとられながらようやく迷路からぬけだした。
すでに息があがり、胸が焼けつくように痛かった。が、彼女はさきほど見た鱗におおわれたものが追いかけてくるのではと、気が気ではなかった。
海岸をめざして樹陰の下をよろよろとすすみながら、からだが思うままうごかないことにあせりを感じていた。足が、とても重たい。前に踏みだすだけのことが、苦痛でたまらない。
ようやく砂浜を見おろせるところにたどりついたとき、からだじゅうの力がいっぺんに抜けおちた。
エスカは。
彼女のいるところから数百メートル離れた波にけずられた岸壁のすそにひろがる砂浜に、うごくものが見えた。
目を凝らしてよく見ると、人影のようなものが三、四人、なにかをひきずりながら海へとむかっている。そのなにかがエスカだということは、姿を見なくてもわかった。
シアはいったん飛び出しかけて、ためらった。全身が悲鳴をあげていた。それをおして、草地の陰から土手の先端へとそろそろとまえかがみで前進した。
近づいてゆくにつれ、人影はすこしずつ大きくなって、シアはじぶんの勘がまたあたったことを知った。
人影は、人間ではなかった。
さっきの化物の仲間だったのだ。
全体の輪郭では、人間とはあまりかわらなかった。手足が多少みじかく、頚がふといぐらいのちがいでしかない。遠目では、それにいまのように逆光を浴びていては、こんなささいな相違は、無いにひとしい。
シアは唾をぐっと飲みこんだ。
かがみこんだまま、陽光を反射して銀にひかる鱗をながめた。
鱗。からだじゅうにびっしりと生えた鱗。
よく見ると、前へ進むたび上下する背には、鰭があり、これがまた太陽の光にきらきらとしていた。
からだじゅうを異なる種族にたいする驚愕と嫌悪にみたされて、だが好奇心にも勝てずに目を凝らしてもっとよく見ようと身を乗りだした。
かれらは砂上をよたつきながら歩いていた。あきらかに、陸上を歩くことに不慣れな、ぎこちない足の運びかただ。とすると、あれほどおおあわてで逃げる必要はなかったのだ。
シアは、大きく息をして、肩の力を抜いた。
あの魚人間がどういう目的をもっているのかはわからないが、かれらがひきずってゆこうとしているのは、まぎれもなくエスカだった。
まだ気を失ったままなのだろうか。蹴とばしても起きなかったのだから、いちども目を覚ましていないのかもしれない。
眼下の一行は、のろのろと汀めざしてすすんでいた。そのとほうもない時をかけての前進は、太陽のうごきに歩調をあわせているかのように思えるほどだった。
シアは土手にへばりついているうちに、はじめの緊張感をあらかたなくしていた。
捕えられているエスカを救わなければとは思ったものの、どうすればよいのか、見当もつかなかったし、うごかずにいたので、また疲れがよみがえって、ひもじさも増していた。
注意力散漫になった罰は、すぐにやってきた。
廃墟から彼女を追ってきたものたちが、近くまでせまってきていたのだ。草をかきわける音に気づいたときには、シアは逃げるときを逸していた。
いまでは、魚人間たちは彼女のすぐそば、手をのばせば届くところにまで近づいていた。
あわてて立ちあがり、のびてきた手をかわして、草をかきわけ土手をくだろうとしているうちに、砂浜の魚人間の姿が目にはいった。
彼女は入江に入ってくるほかの魚人間の姿にはじめて気づいた。
大きなとてつもなく太い丸太をひいてすべるように海面をちかづいてきたそれは、仲間が待ちうけているところまで丸太を押しやった。丸太は波に押されてゆっくりとだが、くるくるとまわりながら浜によせられてきた。
かれらは流れてきた丸太を腰をかがめてひきよせると、運んできた荷物を力をあわせてそのうえにずりあげた。エスカは物のようにごろんところがされた。
ここまで見て、シアは連れがさらにべつのところへ、海をこえてゆくところへ連れてゆかれるのだということを、はっきりと理解した。
魚人間たちはつぎつぎに海へと入ってゆく。
水に入ってからのかれらのうごきに、もはやぎこちないところはなかった。丸太を四方からかこむようにして押しながら、どんどん沖へと遠ざかってゆく。
「ちょっとっ」
シアは砂煙をあげながら土手をすべりおり、きらきらと光る波のむこうへよびかけた。
熱い砂を蹴りとばしながら、まろぶようにうすい波のヴェールに足を踏みいれる。
「どこ行くんだよっ」
あとから追ってくるもののことも忘れて、シアはしぶきをあげて丸太を追った。追おうとした。
だが、水に足をすくわれそうになったところで、溺れかけた記憶が生々しくよみがえった。
恐ろしさに身がすくみ、水のうごきにめまいがした。一瞬気が遠くなり、膝がくだけて、シアは海水の中にしりもちをついた。
波をまともにかぶって目は覚めたが、水を吸いこんでむせ、鼻の奥がつんと痛んだ。涙をながして咳きこんでいると、目の前に立ちはだかるものがあった。
シアは、ごくりと塩からい水を飲みこんだ。
手をのばせばとどく距離に、ひしゃげた鼻のない平たい顔があり、手足のみじかくふとい、胴のほそいからだがあった。手のゆびは関節が節のようにふとかったものの、ほそくてながく、あいだには膜があった。
水掻き。
シアの脳裏に、島の蛙の姿があらわれた。蛙のような、水掻きだ。
そんな思考は、すべて銀色の鱗に圧倒されて麻痺した脳の片隅でおこなっていたものだった。まえに立っている生物の表面、ぜんぶを覆っている鱗。そして、魚のつめたい眼がシアを見ている。
ぼうぜんとしていたシアは、のびてくる腕に気づいて恐ろしさに身を凍らせた。
よけようとしてそのまま海にたおれこもうとする彼女を、魚人間はがっしりと捕えた。その手のあたたかみのかけらもない感触に、からだじゅうが拒否反応をおこした。からだをねじってのがれようとするが、逆に深いほうへと追いたてられる。
そのうち、足の立たないところにきて、シアはすっかり魚人間の手のうちにはまってしまった。
魚人間はシアを捕えたまま、沖にでる手前で待ちかまえていた仲間に合流した。シアはずぶぬれのまま、エスカの乗っている丸太の上にほうりなげられた。
かれらはそれからはシアのことなどかまいもせずに、丸太を押してぐんぐん進みはじめた。太陽とは反対の方角に。
とはいえ、目的地がどこだろうとシアにとってたいした違いはなかった。
安定性のない丸太のうえにどうやらひっかかることに成功したシアは、まず、いちばんの気がかりを確かめた。
エスカは生きていた。
呼吸をしているし、からだもあたたかい。目を覚ます気配は、まるでなかったが。
ともかく、ひとりぼっちになることだけはまぬがれたのだからと、神に感謝するべきなのだろう。ぬれたからだに風がつめたくて、とてもなさけなかったけれど。