エスカが目を覚ましたのは、日が暮れて、あたりが宵闇に沈みはじめ、昼間のあたたかさが幻にかわりはじめた頃だった。
果てしのない水平線に燃えるような太陽が没し、空が青から橙へ、橙から紅へ、紅からむらさきへそして蒼へ藍へと変化してゆくのをぼんやりとながめながら、じぶんを捕えたものたちのようすに神経をとがらせていたシアは、となりにころがってみうごきひとつせず、いることを無視しようかとまで思っていた少年がとつぜん声をだしたので、死ぬほどおどろいた。
エスカとしてはそんなつもりはまったくなかったので、こわばったくちもとをしたやせっぽちの少女がこわい眼でにらみつけてくる理由がわからずに、きょとんとして問いかけのまなざしを返した。
「どうしたんだ」
「しっ」
シアの剣幕におされて、エスカはいったん黙った。
そして、目が覚めてからはじめて、あたりを見わたして、自分がもはや小舟にゆられているわけではないのだと知った。
ほとんど暗がりといっていい日没後の、まだ月もでていない時間の闇のかぐわしさと、やわらかい砂の感触、波のうちよせるうごきと音、火の気のまったくない大気のさびしいつめたさとを瞬時に感じとった見習いの魔法使いは、説明をもとめてもういちどシアを見た。
「どうなったんだ、ぼくたちは」
のんきにたずねてくるエスカに、シアはこの事態をどうやってつたえようかとにがにがしく考えた。
少女のけっして上々とはいえない機嫌に気づいて、エスカの問いはしりさがりになって、砂に吸いこまれた。
「嵐がきて、ひっくりかえって、おぼれかけたんだよ」
シアの声はさらにひくく、声というより、半分以上息だった。しかし、たたきつけるようにくぎって話しているので、聞きとれないということはない。
彼女が怒っていることも、じゅうぶんにわかった。よからぬ記憶を自分だけでひきうけているのが、おもしろくないのだろう。
エスカは非難のまなざしを感じて、記憶のなかをまさぐっているようだったが、徒労に終わったことはその表情からあきらかだった。
「ごめん、おぼえてないんだ」
すまなさそうなエスカに、シアは態度をすこしやわらげた。
「あたりまえだ、寝てたんだから」
「そんなに…?」
「おぼえてないんでしょ、舟から落ちたの」
かすかに軽蔑をふくんだ言いようにも、エスカはうなずくしかなかった。
覚えていなかった。ほんとうに。
照りつける太陽にそれまでの疲労が拍車をかけて、意識がもうろうとしていたことは記憶にあった。からだがおもくて思うようにうごかず、ときおり、目のまえが真っ暗になったことも。
とりわけ鮮やかなのは、かれの限界をはかりながら、その瞬間をてぐすねひいて待ちうけている精霊の美しい顔だった。
精霊を捕えておくのは骨がおれた。
元気なときですら、かれにとって精霊を必要以上にひきとめておくことは困難をともなった。メリアナの指環があり、名を支配しているとはいえ、やはり、ながいあいだは無理なのだった。
それをエスカは、常識からは考えられないほどひきのばした。これ以上できないほど精霊を酷使したうえでだ。
「それで、ここはどこなんだ」
少年はたずねてしまってから、愚問に気づいたようだ。シアは、やっぱりこいつはまだねぼけているな、とすこし肩をおとした。
島から出るのははじめての少女に、地理をたずねてもしかたがない。
シアはエスカがもういちど、こんどは明確な意図をもってあたりを観察するのを見ていた。
波打ちぎわからさほどはなれていない、まだ砂地のつづく中程にかれらはいた。あかりは星影だけ。すぐそばにいるたがいの顔も、闇がおおってよくは見えない。
同時に、かれは寒さに気づいた。
シアの話から想像するに、ずぶぬれになったうえ、吹きさらしで死んだように寝つづけていたらしい。からだが冷えているのだ。
身を起こすと、もうひとつひりつく痛さが襲ってきた。日焼けはすでに火傷になっていたのだが、そのことをすっかり忘れていた。この近くに薬になりそうな植物が生えていればいいのだが。
風は西から吹いていた。乾燥していて、かれがなじんでいるものより、かなりあたたかい。
とはいえ、シアのいた島で吹いていたものよりはひんやりしていた。シアがときおりからだをふるわせるのを感じて、エスカはかわいそうになった。
この少女は生まれてこのかた、あたたかい島から一歩もでたことがなかった。しかも、かれはこれからさらに北へ、寒いほうへ行こうとしているのだ。
「それにしても、よくたすかったね」
意識を失ったということは、精霊を捕まえておけなくなったということだ。
進むだけでも自力では不可能だったあの舟で、嵐にあったというのに(覚えてはいないが)、よくもまあ、生きて陸地にたどりついたものだ。
感慨深げにつぶやくエスカに、シアは感動のうすいあいづちをうった。そろそろ、もうひとつの現実を話しておかなければならない。
「舟はきっと、ばらばらだろうな。ふたりともおんなじところにうちあげられるなんて、ついてるよ。女神に感謝を。もしかしたら、このまま無事に塔に行けるかも…」
「どこが無事なのさ」
シアは緊張したようすであたりを神経質にうかがいながら、ぶっきらぼうに、しかしやっぱり押さえた口調で言った。
「あたしたち、捕まってんの。ふたりおんなじとこにうちあげられたんじゃなくて、さいしょはべつべつ。いっしょになったのは、捕まってつれてこられたからなんだよ」
「捕まったって、だれに」
「へんなやつに」
エスカはじぶんたちを捕えたという相手をもとめてぐるりを見まわしたが、だれもいなかった。
シアはじぶんのことばが信じられていないことに気づいて、「いまはいないの」とおしつけるように言った。
「でも、また、すぐにもどってくる」
奇怪な、ことばとも思えないことばを発しながら去っていった鱗におおわれた生きものの姿がよみがえって、シアは身ぶるいした。
少女の声にまぎれもない恐怖を感じとったエスカは、視覚にたよるのをやめ、精神(こころ)をひろげて夜の闇をさぐろうとした。
かれらのすぐ近くには海があった。陸地はごくちいさかった。ここもまた島なのだ。
海をへだてて、そう遠くないところに島はいくつもあった。このあたりには小さな島が無数にある。どれもが南のゆたかな自然にめぐまれた、緑の美しい島だ。
ファリアート海だ。
エスカは知識を掘りおこそうとした。
大陸の南を大きくえぐるようにはいりこんでいる、巨大な内海。そこは、多島海とも言われる、小島の点在する浅い海だ。と、ケリドルーズ師が言っていたことを思いだした。付近の都市の交易の重要な拠点が、ファリアート海を囲むように存在する。
だが、ここに人の子の気配は微塵もない。あるのは、なにかものさびしいような寂寥にみちた感じと、とてつもなくけものじみた、突きあげるような衝動。
エスカは、それが海からやってくるのに気づいた。
まもなく、エスカは近づいてくるものの正体を見た。
「逃げるんだ」
かれはあえぐように言って立ちあがろうとしたが、何日も眠っていたからだはふらふらとしていうことをきかなかった。
「どうしてさきに逃げようとしないんだ」
非難されたシアはむっとして言いかえす。
「うごけなかったんだもん」
つきだされた両手首は、しっかりと縛られていた。見ると、両足首もひとまとめにされていて、ごていねいなことに、しっかりと大地にうちこまれた杭にがんじからめというかんじでくくりつけられている。
エスカは戒めにつかわれている海草をよりあわせたものを見て、事態はまったくいいほうに進んでいないことを理解した。
海辺の方向で、かんだかい音があがった。
ふたりは冷水を浴びせかけられたかのように、全身を総毛立たせてふりかえった。
いつのまにか、波間がぼうっと明るくなっていた。無数の星が、海上におりたったかのように見えたものは、近づくにつれてそんなふぜいのあるものではないことをはっきりとさせた。
それは、眼だったのだ。銀の鱗につつまれたぬめりをおびたひとがたの、双眸。
海からやってくるのは、シアが昼間に見た魚人間の何十、何百という数の大群だった。
その波のごとくおしよせてくるかれらの、何百という数の眼が闇のなかで発光している。漁火のように、波にゆれながら、ゆっくりと近づいてきているのだ。