prev 海人の都[Chapter 3-2] next

 ぼうぜんとしているうちに、ふたりはおしよせる鱗の波にとりこまれた。
 逃げることも、隠れることもできなかった。シアはその場から一歩たりともうごけなかったし、エスカにしても、大差はなかった。
 かれは、シアの手首のいましめをくいいるようにみつめながらも、なかばあきらめ声で言いかける。
「これははずせない。独特の魔法がかけられてるんだ。時間があれば……」
 エスカは、舌の先まで出かかっていたことばをのみこまされた。
 からだがとつぜん宙に浮いたのだ。
 魚人間はふたりをかつぎあげ、奇声をあげた。頭の芯に切りこんでくるような、ほそくてするどい、そして、とても人間にはだせそうもないくらいに高い声だった。
 ひくい背からは想像もつかないほど、鱗におおわれた腕は力づよく、不器用ながらも着実にかれらは前進をつづけていった。
 はげしいよこゆれとたてゆれの連続に、気味のわるいものにからだをつかまれているという不快感がかさなって、シアは逃れたいといういっしんからじたばたとからだをうごかしたが、そのたびに手足をにぎる力はつよまることになった。
「もう、やだ」
 嫌悪からの悲鳴は、あえぎのように一瞬ひびき、あとは化物たちの発する声にかき消された。
 一行は、かれらの身体の形状から考えればあたりまえのことだが、波間を海の深部へとむかっていた。
 エスカはこころみるだけ無駄なものとしてはじめから抵抗をしなかった。そのかわり、この異形のいきものがいったいなんであるのかを、かれの知識を尊ぶ長年の修業がもとめていた。
 潮風がうすらいで、夜の女神が暗夜にようやくその姿をあらわした。空から降るようだった星たちのかがやきも、青白い貴婦人の到来で色褪せたようだった。
 あおむけで空を見あげながら、見習いの魔法使いは月のかたちにぼんやりと暦の計算をしていた。
 エスカの計算に決着がつくまえに、ゆったりとした、酔いそうになるかと思われた振動がやんだ。魚人間たちは、とうとう目的地についたのだ。
 シアとエスカは、地面に乱暴におろされた。なげすてられたというほうが近いやりかただった。
 かたい地面にしたたかからだをうちつけて、シアは抗議のうめきをあげかけた。だが、顔をあげて眼前にひろがった光景が、うめきを呑みこませた。
 エスカはシアから二、三秒おくれでそれを見て、やはり絶句した。密生した草のあいだから見えたのは、月のあおじろい光にうかびあがった都市だったのだ。
 いつのまに陸地についていたのだろう。しめった砂が、掌にひんやりとした感触をあたえている。シアがうしろをふりかえってちいさな叫びをあげた。
「見て」
 すぐうしろで薄い波が海岸線をあらっていた。朽ちかけた石造りの建物は大雨のあとのようにじくじくと濡れている。あきらかに、水がひいたばかりなのだ。
 こづかれるようにして都市のなかに足を踏みいれたふたりは、そこがかつては都市であったもの、いまは廃墟という名のくずれかけた都市の残骸であることを知った。
 奇妙な光景だった。
 月影のもとで、都をつらぬく大通りであったと思われるひろい道にあふれんばかりにあつまっている化物たちは奇声をあげていた。ふたりはぬるぬるとしめった石畳のうえをひきずられて歩かされつづけた。まるで奴隷かなにかのようだ。
「いったい、どこにつれてかれるの」
 シアは背中をおされて悲鳴をあげながら、しばられたままの両手でエスカをつついた。
 エスカは中断された暦の計算を一心につづけていた。
 今夜は満月だ。かれの記憶が誤りでなければ、潮の満干の差が最大になるのは、あさってのはずだった。そのために、このいにしえの都市は海上に姿をあらわしたのだ。
 おそらく潮がひいてそれほど時間がたってはいないだろう。ここに生えているのは海藻だ。この廃墟が、そうたびたび海の底から浮かびあがってくるわけではないことは、しっかりと根づいたそのようすからもわかる。
 それに、とエスカは考えた。関係があるかどうかはわからないが、明晩は盛大な魔よけの儀式がおこなわれる日のはずだった。
 シアは、じぶんの考えに没頭している魔法使い見習いからなぐさめを得ようとすることをあきらめた。
 魚人間に捕えられてからも辛抱づよく耐えてきたのは、エスカが目を覚ましたらどうにかしてくれる、と思っていたからだった。なのに、現実は手枷さえはずすことができない。
 しかし、異常事態には彼女よりもはやく適応しているようだった。なにしろ、おぞましい鱗だらけの冷たい手でこづきまわされながら、平然と考えごとができるのだから。
 いいかげん、気がおかしくなりそうだった。この、存在する理由すら考えたくもない化け物たちは、なにが目的でこんなことをするのだろう。かれらをどこへつれてゆこうとしているのだろう。
 シアは異様な興奮につつまれたあたりに嫌悪をいだきながら、前方を見あげた。
 まるい大きな月が、夜にしては信じられないほどあかるく地上を照らしだしていた。
 おかげで道の両側にそびえている、くずれた、あるいはそのとちゅうの建物の黒いしみは、へばりついた海藻であることがわかった。隙間なくきっちりと組みあげられた堅牢な石造りの建物だったのだろう。長年の生き物の浸食に耐えて残った壁面は、いまだにまっすぐに立っている。こんなに大きな人工物を見たのははじめてだった。
 はじめて。そうだろうか。
 シアはみょうな気分になって、あらためてまわりの建造物をながめた。
 しろい月あかりに黒い影となり、あるいは年月を刻んだふるびた壁面をさらけだし、滅びた都市がよこたわっている。
 きっと、何十年も何百年も昔にこのすがたになって、それ以来、ずっとこのままなのだ。
 それはシアにとっては想像のつかない、はるか昔からつづいている。
 なのに、どうして、この都市を見たことがあるような気がするのだろう。
 シアはまったくへんな気分だった。
 身に覚えのない感覚、既視感はつぎの瞬間に決定的となった。
 うねりながらつづく魚人間たちの行列のゆくてに、ほとんどもとの形をとどめた巨大な建築物があらわれたのだ。
 これを見たことがある。
 シアは確信し、その根拠のない思いにじぶんでとまどった。
 だが、たしかに、この建物を見たことがある。この建物の影の下をくぐったことがある。
 すきまなく組みあわされた堅牢な石の門を、シアは行列とともにふたたびくぐり抜けた。
 異形の群れのきちがいじみた興奮は、このにわかに浮かびあがった廃墟の都市全体をおおっているようだった。
 風はつめたく、だが、それは刺激となって、さらに狂熱をあおりたてていた。
 恐ろしさは、不安とともに堪えがたいまでにふくらんでゆく。
 シアはエスカの腕にしがみついた。落ちついているように見えた少年が、じつはつめたい汗をじっとりとかき、からだじゅうをはりつめていることが、これが夢ではないのだとおしえていた。
 これからなにをされるのか、まったく予想もつかなかった。
 魚人間はかれらをどうするつもりでいるのだろう。これまでのようすからしても、待っているのはあまりありがたくないことである確立のほうが高い。
 エスカは、これが祭りのような気がしていた。魚人間に祭りをする習慣があるとしたらの話だが。
 くずれかけた建物の列は、ある地点をもってふつりととぎれた。
 ふたりは、ひろびろとしたなにもないところに出た。もちろんそこにも興奮した化物たちはたくさんいた。ここが目的地らしい。
 広場の中心には、エスカの考えを裏うちするような、しかし、この場を埋めつくすものたちの形態からは考えられない性質のものがすえられていた。
 エスカはおどりあがる炎を見て、息をのんだ。
 まさか、からだじゅうを鱗でおおわれ、鰭や水掻きを持つものが、火をあつかうことができるとは。
 祭壇があった。
 たしかに、祭壇だ。流木をうずたかく積みあげた、大きな焚火。
 粗末で、簡単な、それこそ原始的なものに違いないけれど、これはかれらの祭壇なのだ。
 そこからたち昇る炎のすがたに、化け物たちは恐れとともに恍惚としたあこがれを感じているようだった。
 けしてそばに近よろうとはしない。
 一定の距離をおいて、くいいるような視線を赤い、ときには青い炎をみつめている。わけのわからない声をあげながら。
 祭壇をとりかこむ輪の中から、シアとエスカはいつのまにか前へと押し出されていた。
 耳にこだまする化物たちの声と、目の前の炎とふたりをみつめる光る眼、湿ったつめたい地面を踏みしめる素足の感触が、恐怖と混乱の頭のなかをぐるぐると回っていた。
「なにすればいいの」
 シアはエスカにすがりつきながら、しきりにかれらを押し出そうとする化物たちの意図をたずねた。
 エスカは魚人間の興奮にあてられて、シアのほそい腕をにぎり返すだけだった。
 かれの頭の中には、ひとつのことだけが繰り返されていた。それをうちけそうとして、必死になにかをさがしていたのだが、うまくいかない。
 ふたりはじりじりと祭壇に近づいていった。
 四方をかこまれていては、ほかにどうしようもなかった。
 化け物は、かれらを祭りの儀式に参加させる気でいるのだ。有無を言わさずつめよってくる何十、何百もの眼に宿ったものは、圧倒的な迫力でふたりを追い立てていった。
 風にあおられてふき飛ばされる火の粉や熱風を皮膚に感じるようになり、エスカはいよいよ、自分たちの運命が定まってしまったのではないかと恐れはじめた。
 異なる種の生き物を祭壇へと運ぶ理由とは。ケリドルーズ師が不肖の弟子にたれる蘊蓄が、懐かしいしわがれ声とともによみがえった。
 神に捧げられる贄として、火焙りにされる。
 生け贄に、そう、生きた贄になるのだ。
 エスカは犠牲の祭りで奉納される、こんがりと焼けた羊の姿を頭から追い出そうとしていた。
 シアがかれの考えを読んだかのようにぶるっと身震いをした。
 エスカは自分自身の考えがことばになったときに、もういちど、なにかべつのことが、希望になりそうなことがなにかないかと死に物狂いで考えた。かれにはまだ、できることがあるはずだった。
「シア」
 少年の声に希望の輝きを聞きつけて、シアはエスカの腕に押しつけていた顔をあげた。
「ゆびわ、きみの指環は」
 少女の顔から生気がぬけおちていった。
「ない。とられた、あいつらに」
 そのとき、背後でとてつもなく高く、澄んだ音がした。
 それは、これまで周囲に響きつづけていた甲高く耳障りなものではなく、この世のものとは思えないほどにきよらかな、魂をゆさぶる、声だった。
 地上に縛りつけられた生きものが天上の神々へ捧げる、祈りにも似た一途な想い。
 大気をふるわせ、星々にまでとどこうかという、ゆたかな、まっすぐな声だった。
 一瞬、頭がまっしろになった。
 それまで、窮屈なくらいにせめぎあっていた、さまざまな思いが、声につらぬかれたとたんに消え去った。
 なにもかもが霧が晴れたようになくなって、すずやかな声だけがぬけていった。
 夜の闇と、藍色の空を焦がす祭壇の炎と、祈りの声。
 そして、声のぬしたる、すっきりとしたひとりのすがたが、神々の炉からあらわれた焔の子のように照らしだされた。
 最大限界までひきのばされた響きが、それ自身の命がつきるようについえたあと、まだ残る余韻の中で、シアは後をふりかえった。
 風になびく、長い髪にふちどられた人間の顔が、彼女を見かえした。
 金の髪。
 とぎすまされた美貌が、炎の影をうけてうかびあがった。


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