prev 海人の都[Chapter 4-3] next

 ローダの領主、エイデールの居館は、街の中央よりわずかにはずれた、小高い場所に立っていた。
 もとはと言えば、海辺の商業都市。海からの襲撃に対する備えはしてあったが、そのまわりを取り囲む石壁は、そのつぎはぎから見ると、どうやら最近になって増築されたものらしい。
 近ごろはどの地方へ行っても、ゆれうごく北の王都の情勢を受けてか、治安対策や軍備の増強に余念がなかったが、これほど南の、戦の音すら遠くから響くファリアートの沿岸で、こんな城壁にであうとは。
 エスカはため息をこらえられずに、せめて気をたしかにもとうと自分を励ました。
 月明かりに浮かびあがる城壁は、もちろん、かれが見てきた大都市のものや、ましてディナス・エムリスのものとは比べようもないくらい、簡素でいいかげんなものでしかなかった。
 それでも、大軍勢ではないたったひとりの少年にとっては、たしかに目の前に立ちはだかる大きな壁だった。
 エスカは腕にはめたエイメルの腕環にふれ、あらためて確かな感触を得た。
 ここに、海人の巫の片われがいる。
 真夜中をすぎ、さきほど通り抜けてきた街とはうってかわって、館の中は澱んだようにしずまりかえっていた。まるで、空気がここだけながれていないかのようだ。息がつまる。
 そそりたつ城壁にそって歩いてゆくあいだじゅう、不安と、得体のしれない不吉さがかれをためらわせつづけていた。通用門を見つけたとき、エスカはそれをふりきった。後戻りはできない。
 通用門には、お仕着せを身につけた警備兵がつめていた。
 エスカは息をひそめ、気配を消した。
 これは、塔で修業して身につけたものではない、かれの身に生れつきそなわった力だった。
 自然の中であれば、まして、夜であれば、普通の人間でかれの存在を感じとるものはめったにいない。
 野に住む獣よりも自然に同化しながら、エスカは、そろそろと通用門を通り抜けた。
 気のゆるんだ門番は、かれに目もむけなかった。まずは成功と言えるだろう。
 城壁の反対側は、裏庭だった。夜風がはこんでくるにおいで、すぐ近くに鶏小屋や犬小屋、厩などがあることがわかる。
 動物たちは兵士よりも敏感だった。とつぜんの闖入者に緊張がはしっている。
 エスカはあわてて、かれらをなだめるためにささやいた。安堵がその場の空気を支配してゆくのを感じとりながら、かれはそっとためいきをついた。
 塔は、入ってきた通用門の反対側の城壁の近くに立っていた。
 身体中の感覚をとぎ澄ましたままで、エスカは裏庭を横切っていった。
 厨房へ通じる扉が開いていて、中からかすかに明かりが漏れていた。館の中にも、祭りの前の空気が伝染しているらしく、笑い声らしき音が聞こえてくる。こんな空気の中でも笑うことができる。人間とはなんと鈍く、しあわせな生きものなのだろう。
 塔の下まできたところで、エスカは外から直接塔の内部に通じる入口はないことを知った。
 かれは後戻りをして、厨房の戸口の陰で中の様子をうかがった。
 食べ物のにおいとなまあたたかい空気にまじって、人の気配が感じられる。だが、すぐそばに、ではない。
 エスカは用心深く厨房に入りこんだ。中は、ランプでうっすらと明るく、さらに竃の火が足元をぼんやりと照らしている。
 料理人たちは、壁ひとつ隔てた扉のない出入口のむこうでくつろいでいるらしい。
 どうやら、館の内部に入るためには、そこを通らなければならないようだ。厨房から直接、他の部屋へ抜ける道はなかった。
 仕方ないので、エスカは奥の部屋へ通じる入口の陰にはりつくと、ふたたびむこう側の様子をのぞき見た。
 下ごしらえ用の大きなテーブルのまわりに、数人の人影があった。料理人の他に、館の下働きがここにあつまって、夕べの宴を楽しんでいる。かれらは手に手に杯をもち、あるいは残り物の料理を食べながら、雑談をかわしていた。
「それはそうと、今夜の客の面を見たかよ」
「軽業師かなんかか」
「お館様は欲求不満だからよ」
「べっぴんの踊り子でもきたのか」
「女みてえにきれいな顔した歌びとだ」
「女じゃねえのか」
「それが、たいした歌い手だって、街じゃちょっとした評判らしいんだ」
「ちぇっ。おめえ、昨夜は姿が見えねえと思ったら」
「どうせ、評判だおれだろ。ちかごろやってくるやつらときたら、金はねえし、汚ねえし、どんより曇った目をして、気色わるくてよ」
「北から逃げてきたやつらのことか」
「あいつらはただ疲れ果てて、希望がねえだけだ。気色わるいのは、あの黒い奴だよ」
「しいっ。あいつは魔法使いだぜ。めったなこと言って、聞かれでもしたらことだ」
 急にこそこそとした声になった男たちは、体をちぢめてあたりをうかがった。
 そのとき、まるでねらいすましたように奥の扉が開かれた。
 あらわれたのは戦士らしいがっしりとした体つきの男だった。厳しい顔にしわを刻んで、男は館の下働きたちを睨みまわした。
「おまえたち、休む時間にはまだはやすぎるぞ。エイデール様が酒と肴をご所望だ」
 下働きたちは男の堂々たる体躯と、触れると切れるような神経質な様子にすっかりおびえて、返事もそこそこにあたふたとたち働きはじめた。
 くたびれた革の鎧を身につけた男は、厨房を検分するように視線を泳がせると、命令に念を押して去っていった。それと入れ替わりに小姓がやってきて、いましがた男が言ったのとおなじ命令を伝えてきた。
 エスカは男が去っていくのを息を殺して見守った。
 男が正規の兵士ではなく傭兵であることは、ひとめでわかった。その眼光の鋭さに、気配を感づかれるのではないかと心配したのだ。
 突然ふってわいたように騒がしくなった厨房から、エスカはようやく館の奥へと足をふみ入れた。この行程でも、かれはめくらましを使うことを余儀なくされた。
 暗い廊下に出て緊張をとくと、ため息が深々と漏れた。こんな調子で、タデュアとの約束が果たせるのだろうか。
 まわりがほとんど見えない暗闇の中を、五感をたよりに進んでいく。
 記憶では塔は、厨房からみて右手奥の位置にあるはずだ。その方向にまっすぐむかいたかったのだが、廊下はエスカの願いどおりにはつくられていなかった。
 そのうち、申し訳ていどにしても真っ暗な空間を照らしだす松明があらわれ、かれはできるかぎり気配をころす努力をいっそうして、そろそろと歩いていった。するうちに、おおぜい人間が集まっているらしいことが感じられるようになった。領主の広間が近くにあるらしい。
 エスカはうごきを止めて、他に道はないかとあたりをうかがった。
 そのかれの耳に、朗々と響きわたる人の声がとびこんできた。
 濁りのない澄んだ声は、かろやかな旋律を歌っていた。訓練された歌唱法を駆使する、吟遊詩人の歌だ。
 下男たちがうわさしていた歌びとというのは、きっとこの人物のことだろう。
 かれの記憶にある、森の人びとの歌声にもひけはとるまいとさえ思わせる、こころゆさぶる清水のような響きだ。からだに重くまとわりついていた、嫌な空気がはらわれていくような気さえする。
 こんなところでこれほどまでに見事な歌とであおうとは。
 エスカは歌声にしばし気をとられ、すぐにそのことを後悔することになった。
 背後に、人の気配がある。それに気づいたときには、すでに間合いはつめられたあとだった。
 くびすじに冷たいものをおしつけられて、エスカは息を呑んだ。
「声をだすな」
 命令されるまでもない。話すどころか、息すらできないありさまだ。
 鋼の武器を急所に、背後の人物はエスカの後につくと、腕で首をしめつけた。
「じっとしてろ」
 男は見習い魔法使いのほそい体を首をおさえたまま、からだじゅうをさぐって武器がないかを確かめた。
 エスカは驚きと恐怖に支配された意識をすこしでも実際的な方向にむけようと努力した。その結果、自分をおさえつけている人物が、厨房で見た、傭兵ふうの男であることを確信した。
 エイメルの金の腕環をみつけられるのは、時間の問題だった。なにしろ、エスカが身につけているのは、ほかにぼろぼろになった服しかなかったのだから。
 ただひとつの手がかりを取りあげられて、エスカは絶望をとめようがなかった。
 必死で気を落ちつけて、ようやくこの場にふさわしい行動をとろうと頭がはたらきだした直後、もうひとり、別の人間がそばまでやってこようとしていることに気づいた。エスカは、その人間のまとっている腐臭ともいうべきいまわしい波長を感じとって、胸が悪くなった。
「なにごとだ」
 問われた傭兵は、エスカをいましめる腕に力をこめて声の方へと体をねじった。
 蝋燭の炎がエスカの闇に馴れた目をくらませる。燭台をかかげた人物は、低く喉を鳴らしてかれを見ていた。視線がからみつき、ひどくかすれた声が言う。
「これは見事におあつらえむきの金髪ではないか。どうしたのだ」
「こいつは館の中を嗅ぎまわっていやがったのだ。エイデール様のところへつれてゆく」
 太い腕にさらに力をこめてエスカをひったててゆこうとする傭兵を、もうひとりの人物は横柄にとめた。
「そいつは塔へつれてゆくのだ。牢にほうりこんでおけ」
 男はむっとしてを見かえした。
「おれはエイデール様から、不審なやつを見たらとっ捕まえろと命令されてる」
 明るさに馴れてきたエスカは、大きな体の戦士を怒らせても意に介さない人物の、尊大で醜悪な姿をようやく確かめた。
 黒い衣をまきつけたやせて醜い、ゆがんだ面が、エスカを見て、くちびるを歪めた。
「わしはエイデール様から、この件においては全権を任されておる。そいつは今宵、もうひとりとともに供物とすることにした。ゴンダリオ。なにをぐずぐずしておる」
 黒衣の人物は傭兵よりもはるかに低い位置から、まがまがしく血走った眼で大男をねめつけた。腐臭が漂って、エスカの感覚は悲鳴をあげた。
 それはただのにおいではなかった。存在すべてを侵しつくして、存在そのものとなった、卑しいこの男の正体なのだ。
 これに比べれば、傭兵のほうがずっとましだった。荒々しく殺気だって、いかにも剣呑な相手だったが、ただの人間だ。
 その証拠に、睨みあいの結果は呪術師の勝ちに終わった。
 傭兵はあきらかに不満をくすぶらせつつも、呪術師の命令にしたがった。
 人の恐れる闇の領域に手をのばし、理解のできない力をあやつる得体のしれない人物を怒らせることで被るかもしれない災厄を恐れているのだ。
 エスカは、ふたりのやりとりを聞きながら、隙あらば逃げだそうと体中を緊張させていたが、その機会はとうとう訪れなかった。が、なんだかわからないうちにではあるが、労せずして塔に行けることになって、とりあえず、事態の流れるままに動いてみようという気になっていた。
 なんとなれば、とにかく疲れきっていて、自分から行動を起こすのが億劫だったのである。休みたいというのが、かれの本音だったことはまちがいない。


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