シアが領主の館にたどりついたのは、魔法使いに遅れること、一半刻ほどの後だった。
精霊の不親切な案内に頼りながら、とにかく方向だけを思いさだめて進んだため、まがりくねった小路や、脇道にはまりこんで、よけいな時間をたっぷりとられてしまったためだった。
街中を歩くという経験自体が初めてだったシアは、ローダの道が、あたかも悪意をもって自分を邪魔しているかのような錯覚にとらわれた。どちらをむいても、つい先ほど通ってきたのとおなじ景色のように思えて、途方に暮れることもしばしばだった。
こんな調子でもなんとか館まで行くことができたのは、ひとえに館が塔を持っていたためだ。
迷いそうになると、月あかりに目を凝らしてそびえる黒い影を探せばよい。満月がすぎたばかりで、あたりがよく見えたのもさいわいした。
ようやくエスカに追いついたと思ったシアは、ひとつ安堵のため息をついた。ほんとうは、これからが難問であったのだが、そのことに気づいたのは、精霊の姿が消え失せてしまっていることを発見した後だった。
宿屋の二階から超自然的な方法で地面におろしてもらったシアは、館の中に入りこむについても精霊のたすけが得られるものと、なんとなく思いこんでいた。しかし、期待を裏切って精霊のとりすました姿はどこにもない。
シアは自力で館の中に入る方法を考えなければならなくなった。
島長の館の下働きであった彼女の乏しい知識が、まず、城壁の中に入らなくては、と結論した。
中に建物がある以上、壁が途切れているところがどこかにあるはずだった。
シアは、考えにしたがって、壁にそって歩きはじめた。
見習い魔法使いの慎重さをあざわらっているかのような、不用心な足どりだったが、だれにも見咎められなかった。
しばらくぶらぶらと歩いてゆくと、石壁が途切れて立派なしつらえの大きな柱が二本、その両端に立ち並んでいるところにでくわした。
出入口であることは、まちがいない。
シアは、通り抜けようとして、両側から同じ服を着た男たちが、血相をかえて駆けよってくるのに仰天した。
もちろん、かれらは正門を警備する夜警であった。汚いこどもが館の中に入りこもうとすれば、厳しく取り締まるのが任務なのだ。
しかし、シアの知識の中には、かれらの存在はなかった。
第一、大きく立派な門は正門であるから警備が厳しく、忍びこむためには用いるべきではない、などという知識からして持ちあわせてはいない。知っていれば、わざわざ、警備兵の横をすりぬけるようなまねをするはずがなかった。
「こらっ、入るんじゃない」
制止命令に、シアは一瞬、立ち止まった。
言われた言葉を理解する間もなく。
シアは、せまってくる武装した男たちにおびえて逃げだした。
逃げだした後で侵入口を過ったことを悟ったが、だからといって、どこへゆけばよいかもわからない。
実際のところ、そんなことを考える余裕もなく、めくらめっぽう駆けていたというほうが近かった。
夜警にとり押さえられたシアは、腹いせにこづかれた後で、追いついてきたもうひとりの兵士のおかげで暴力から開放された。
「おい、そのくらいにしとけよ」
人のよいその男は、ねじりあげられそうになったシアの腕を、相棒の太い腕からほどいてくれた。自由になったシアは、夜警に体あたりを食らわせて逃亡した。
恩をあだで返すようなこの行為に、夜警たちが逆上したのは言うまでもない。
館の中へつっこむように走りながら、シアはうしろから世にも恐ろしいことばで立ち止まれと罵られた。
ふたりの男から追いかけられて、シアは恐怖からよけいに立ち止まることができなくなっていた。
捕まったらどうなるのか、はともかく、このまま逃げつづけてどうなるのかということにも考えがおよばない。
館の中に踏みこんだのも、考えがあってのことではなかった。逃げつづけるために、とりあえず隠れやすいところを選んで飛び込んだにすぎない。
正門から入ったシアは、当然のごとくがっしりした造りの表玄関から館に入った。
ホールを突っ切って、つぎの瞬間には大広間にとびだしていた。
必死の夜警たちのとめる間もあらばこそ。
シアは、領主の宴席のまっただなかに、文字どおりとびこんでしまったのだ。
正面に堂々とした壮年の男性。小太りのきらびやかな女性。とつぜんの闖入者に度胆をぬかれ、どちらも目を剥いてことばもないようす。まわりの人びともぼんやりとシアを眺めている。
しばしのことだったが、シアは広間を覆う沈黙が自分を責めていることを感じとった。
「これは…いったい…」
ようやく金縛り状態がとけた男が口にしかけた疑問を、横からやんわりとさえぎったのは、シアがとびこんでくるまでここにいる大勢の前で歌を披露していた男だった。
「おさわがせして申し訳ございません、エイデール様。この者はわたくしめの身内にございます。ここに参ります前におちあうことになっておりましたのですが、手違いがございました。わたくしが今宵、エイデール様の御前にて芸を披露することになったことを聞きおよんで、ようやくここまでたどりついたものでございます。そうだろう、シルアーリス」
いったい、この人はなにを言っているんだろう。
シアの前に進みでてきたのは、男にしては細身でしかも、美しくととのった顔立ちの人物だった。以前のシアならば、ひとではないのではないかと疑っただろう。やわらかな髪が、わかい顔をふわりとふちどっている。
かれは、べらべらと嘘八百をならべたてながら、シアにむかってうなずいてみせた。おだやかな笑みにつられて、彼女はこくりとくびを縦にふった。
「しかし、そなたのように美しいものの身内とは、とても思えぬが」
この場で一番偉いらしい立派な服を着た正面の男は、半信半疑でシアを横目でながめ、隣の女性に意見を求めた。彼女も、シアのよごれかたに少なからぬ不快をあらわして、眉をひそめて同意した。
しかし、若者はまったく動じなかった。
「このありさまでは、そう思われるのも無理のないところです。しかし、汚れの下にどのような姿が隠れひそんでいるかは、御領主さま、奥方さまといえど、はっきりしたことは言えますまい」
「それは、たしかにな」
男は渋々うなずいた。
シアは心の中で異議を唱えながら、この場から逃げだすすべを求めてこっそりとあたりを見まわした。ところが、彼女の意図を見ぬいたものか、若者は親しげにではあるが、シアの肩に手を置いた。
若者の口上がつづくあいだ、シアは有無を言わさずおさえつけられていた。そのうちに、どういうわけか領主は彼女の存在を認め、夜警たちは持ち場へと追い払われた。
わけのわからないまま、シアは若者が領主にたいして感謝の言葉を述べるのをながめていた。
領主の希望にこたえて一歩進みでたときには、かれの優雅な態度と、よく響く声音が、まわりに感銘を与えているのがわかった。それが圧倒的な説得力になっているのだ。
若者は勇者をたたえる短い歌を歌いあげた。
それは暗に、領主の寛大な心を讃えるものだった。
シアは隣にひかえていたもうひとりの背の高い男にぬかりなく受け渡され、しっかりとおさえられていたが、そんなことはまるで気にならないくらいに歌の世界にひきずりこまれてしまった。
領主が宴の終わりを宣言し、客を部屋へ案内するようにと家来たちにいいつけるまで、ぼんやりとしたままだった彼女は、肩をかるくゆすられてはっとなった。
「きみはどうする、シルアーリス。領主さまのご好意に甘えさせていただくかい」
「宿に戻ってもいいんだぞ」
ふたりの若者が彼女を見おろしてたずねているのは、館に残るか、立ち去るかという二者択一だった。
黒髪の青年の険しい表情から歌びとの笑顔に視線を移して、シアはもうすこしで忘れてしまいそうだった自分の目的を思い出した。
エスカはここにいる。この館の中の、どこかにいるはずなのだ。