prev 海人の都[Chapter 5-2] next

 あてがわれた部屋を出ると、三人は二手にわかれて館の中を探索することになった。トルードが単独で、シアはアンガスと組である。
 シアは、背が高く鋭い顔立ちの、いかにも力強そうな黒髪の若者より、人あたりのよい吟遊詩人と一緒にいたかったのだが、年長の、あきらかに自分より経験豊富な者の決めたことに、なにが言えるだろう。
 館は寝静まり、ところどころに松明が燃えているほかはとっぷりと暗闇に沈んでいた。
 静寂をさかなでないようにそろそろと扉を閉じて、廊下に出ると、あらかじめうちあわせたとおり、トルードは東翼へ、シアたちは西翼へとわかれて進みはじめた。
「いいか。できるかぎり、おれの影にいるようにするんだぞ」
 歩きはじめに、アンガスはひくい声をさらにひくめて注意した。
 シアは返事の代わりに若者のそばにぴたりとついた。ぼんやりとしたあかりしかないところでは、シアはアンガスの体に隠れて、ちょっと目にはいることすらわからないはずだ。
 アンガスの大きな背中の後を追いながら、自分が足手まといであることにいまさらながらに気づいて、シアはきゅっと唇をかみしめた。
 トルードとアンガスが彼女と行動をともにする理由はわからないが、それだけでかなりの負担を負うであろうことだけは推測できる。
 シアはエスカにさんざんかけた迷惑を後悔して、アンガスの邪魔だけはするまいと思った。
 体中を緊張させながら、ふたりは闇の中を進んでいった。
 宴の行なわれていた広間を過ぎ、酒や料理のにおいが残っている廊下を歩いていくと、松明の間隔が次第に間遠になり、ついには光源がまったくなくなってしまった。
 シアはアンガスに触れられてぎくりと足を止めた。
「これにつかまってろ」
 アンガスが差し出したのはかれが身にまとっているマントの端だった。
 シアは右手で擦りきれたそれをつかむと、ぐいとひっぱって合図をした。
 ふたりがやってきていたのは、どうやら使用人のための区画のようだった。隙間風がふいに背筋をなで、壁のすぐむこうが戸外であることを意識させられる。
 食べものの匂いが、鼻をくすぐった。焼き魚とコルンの実の食事をしてから、数刻が過ぎていた。シアは、口のなかいっぱいにわきでる唾を飲みこんだ。
 そこにあるのは厨房だけらしかった。使用人たちの気配は、かすかにしか感じられない。明日にそなえて、眠りについたのだろう。アンガスは見切りをつけて、シアに前進の合図をした。
 次に入った回廊には、なにやらひどく胸の悪くなるような空気が漂っていた。
 しめった冷たい空気とかびたような臭いのなかに、饐えたような、鼻の奥を刺激する不快なにおいがまじっていて、それが記憶のなかの恐怖を呼び覚ました。
 シアは、この腐臭を知っていた。島で生活していたとき、何度も嗅いだことのあるにおいだ。
 それは、生きものが命を失い、利用されずに腐ってゆくときの、忌まわしいにおいだった。ひとのたどり着けようもない崖の下からただよってきた臭い。放牧先で山羊が転落死し、こっぴどく叱られたことを思い出す。
 シアはアンガスのマントと、首から紐を通してさげている小さな皮袋をにぎりしめた。耳飾りを入れるようにとトルードがくれたものだ。
 額に冷汗がにじんできた。一瞬、苦痛と絶望の声が、脳裏にひらめいて消えた。
 背筋がぞくぞくとして、気分がわるくなった。悲鳴が、頭のなかでこだましている。
 前をゆく男が不意に緊張したのに気づいて、シアは衝撃で金縛りにあったようにうごけなくなった。アンガスは彼女の思考をよみとったかのように体中で警戒をあらわしていた。
「まさか…」
 口をついて出たことばも、シアを怯えさせた。
 今の悪夢は彼女のもたらしたものだと言われるのではないかと、身を硬くしたとたん、今度は絶対に幻覚などではない、人間の声が大気をふるわせた。
 その圧倒的な声量の歌につらぬかれたとき、だれのものかは瞬時に理解できた。
 シアは体中の力が抜けて、すわりこみそうになった。そのシアの腕をひっぱって、かろうじてささえてくれたアンガスは、第一声が余韻になる前に音源にむかって駆けはじめていた。
 シアは置いていかれまいとして必死にアンガスの後を追った。
 トルードがとつぜん大声で歌いだした理由はまったく推測できなかったが、アンガスの不安と緊張が危険をいっそうつよく感じさせた。
 それに、どういうわけだか、体が重くて、なかなか前に進めない。
 息をきらしながら、ようやく追いついたときには、アンガスも肩を上下させながら壁によりかかっていた。
 部屋にはともったままの蝋燭がひとつ、卓の上に残っているだけだ。
 中に入ったとたん、シアはへなへなとへたりこんだ。あたまがくらくらして、体が鉛のように感じられた。
 腐臭だ。
 先刻嗅いだばかりのとまったくおなじで、さらに強烈な臭いが、部屋に充満している。
 床に額をつけたまま、シアは呼吸をとめて、両手で体をささえながらずるずると後退した。
「なに、あれは」
 息も絶え絶えになって廊下にころがり出たシアに、アンガスは手を差し出した。
「すくなくとも、呪術を使うやつがひとりはいる、ということだな」
「呪術? 魔法じゃないの?」
「もっと原始的で、野蛮なものだ」
 苦々しげなこたえにアンガスの自責を感じとって、シアはそれ以上の質問をひかえた。
 魔法と呪術の区別どころか、なにが起きているのかも、よくわからない。わからないことだらけで、なにを聞いたらよいのかもわからなかった。これでは質問のしようもない。
 長い沈黙の後、アンガスはなかば自分を納得させるように、口の中でつぶやいた。(ぜんぜん納得していないのは、シアにもわかった。)
「とにかく、こうなったら領主に会うしかないだろう」
「どうやって」
 シアの声はわれしらずふるえていた。領主の居丈高で恐ろしげな姿がうかび、アンガスが言いだしたことが、とてつもなく無謀なものに思われた。
 あんなに立派で偉そうな人物が、かれらのような人間に会ってくれるはずがない。アンガスはともかく、シアなど塵芥と変わらぬ扱いをされるのに決まっている。
 だが、若者は怯えているシアには気づきもせず、意を決したような力づよい足どりで歩きはじめた。
 シアは、黙ってついていくしかなかった。


PREV [Chapter 5-1] Next [Chaper 5-3]

海人の都[HOME]

HOME Original Stories MENU BBS
Copyright © 2000- yumenominato. All Rights Reserved.