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第六章



 トルードが意識をとり戻したのは、からだが下に叩きつけられたせいだった。
 衝撃と痛みに、トルードは目をさますと同時に歯をくいしばらなければならなかった。
 呪術師はすばやく牢の扉を閉めると、鍵をかけて去っていった。勝ちほこったしのび笑いが、暗い牢内に不気味な残響となった。
 トルードがうめき声をこらえながらからだを起こすと、暗闇の中で牢の先客が身じろぎするのがわかった。かれは目を暗さに慣らそうとしながら、相手の緊張が一息つくのを待った。
「そこにどなたかおいでですか」
 できうるかぎりのんびりとした風情を心がけたつもりだったが、呼びかけられた闇の中の人物はさらに身を硬くした。
 トルードは牢の中を見まわしたが、ぼんやりとしかわからなかった。それにひどい臭いには閉口した。鼻をつくというより、身体を侵してゆくような臭いだ。
「まいったな。こんなところにいたら、喉がいかれちまう。ああ、わたしはこれでも歌を生業としているんですよ」
 隅にうずくまっている人影に説明しながら、歌びとは牢の中をゆっくりと歩きはじめた。
 床はきっちりと切られた石で敷きつめられていたが、長年の間にかなりの凹凸ができており、足をとられそうになった。
 それでトルードはさらに慎重になって足を前に出していたが、爪先でなにかを蹴とばしたときにはおどろいて滑りそうになり、石が湿っていることに気づいた。ここは地面に近いところらしい。
 トルードはハミングをして喉の調子をととのえながら、壁づたいに人影に近づいていった。
 足にあたる障害物はどんどん増えていった。大きさも形もまちまちだったが、ひどく硬いものだった。踏んづけて転がりそうになった。棒状のものらしい。
 そこまで考えてトルードは臭いと障害物を関連づけてみた。
 背筋の凍るような結論がでて、かれはしばらく息ができなくなった。
 あの呪術師は、いったいここでなにをしているというのだ?
 歌びとはようやく慣れてきた目をこらして、暗がりの中を見つめた。牢屋の隅に怯えた獣のようにかれを見あげているちいさな少年がいた。


   しなやかに舞う荒れた瞳の女がいる
   夜ごとの涙をだれが知ろう


 トルードは少年にむかってささやくように歌いかけた。


   かわいた瞳のあでやかな女の
   黒髪はなびく 夜の宴に
   赤い衣を身にまといつつ
   心に悲しみの刃を受けながら
   女は嗤う
   だれも女を救えるものはいない
   わたしの愛はかどわかされた
   つめたい波にさらわれた


 歌びとの声は恐怖と不安と痛みに凍りついた牢の中で、小さくはあったがまっすぐに通った。
 声は慎重に織りあげられた韻律をもって力を得、残響がその効果を増幅した。


   返しておくれ わたしの息子を
   わたしの命 わたしの太陽
   女の叫びに胸をひきさかれ
   歌びとの魂は誓いに縛られる


 トルードは歌いながら涙がにじんでくるのをほうっておいた。
 シャインサの残した感情とその印象は強烈で、彼女を歌いながら自分がひきずられそうになった。その瞬間、かれは吟遊詩人のトルードであり、踊り子シャインサであり、その両方になっていた。
 歌い終えて少年を見ると、泣いていた。トルードは近づいてかたわらにひざまづいた。
 肩を抱いてやると、小さくて華奢なからだは震えていた。
「だいじょうぶだよ、きっとここから出られるから。じきに救けがくる」
 しゃくりあげる少年はしきりに首をふった。
「つらかっただろう。できるだけはやく、母さんのところに帰ろうな」
「ちがう」
 少年は鼻をすすりながらよわよわしく否定した。
「母ちゃんは死んだよ。おいらはサーリじゃない……サーリは死んだんだ。友達になってくれたのに」
 トルードは少年のことばに北の訛りを聞き取った。
「きみはシャインサの息子のサーリじゃないのか」
 少年のおびえを見て、思わずきつく問いかけてしまったことに気づき、トルードは肩に置く手にそっと力をこめた。少年はとうとう声をあげて泣きだした。
「殺されたんだよ、みんな殺されたんだ。おいらも殺される」



 少年が落ち着くのを待って、トルードはゆっくりと訊ねていった。
 少年はコリンと名のり、家族四人でウェレーズの西の村から逃げてきたのだと吟遊詩人にこたえた。
 ウェレーズはギスケル侯の支配する街の中で、唯一独立を宣言し、第一王子に敵対していた数少ない勢力のひとつだった。ツェリング伯の軍隊によって、完膚なきまでに蹂躙されるまでは。
 コリンが住んでいた村はウェレーズの領主に帰属していたが、この敗戦によってすべては失われた。父母はコリンと兄をともなって命からがら、逃げのびた。なにもかもを残して、文字通り身ひとつで死線をぬけたのだ。
 それから生きてゆけるところを求めて南へ下った。かれらを恐怖に陥れた勢力は北部の大半を支配下にしていたから、進路は南にしか残っていなかった。家族は身を寄せあいながら苦しいみちのりを歩き通し、ようやくゆたかな土地にゆきついたとほっとした。
 南は豊かな土地。戦は遠く、家を焼かれる心配はない。けれど、あくまでも人間の土地であって楽園ではないのだ。そのことに気づくのが遅すぎた。
 北から逃げてきたみすぼらしい人びとに、親切に家を貸してくれた人がいた。畑を手伝ってくれれば、住み込みで雇ってもいいという。
 父母は喜んで、どれほど感謝をしたか。そのひとのために氏族の神モリンイェルディーの加護を願ったくらいだったのに、翌日、かれらは手枷足枷をはめられて奴隷になっていたのだ。
 追い立てられるように船に乗せられ、気が遠くなるほどの船酔いのあと、わけのわからぬままにここに放りこまれた。
 かれらの他にも大勢が暗闇の中にうずくまっていた。その中には北からきた人びとがずいぶんいた。みんな怯えて、口もきけなかった。じぶんたちがなんのために連れてこられたのかを理解してからは、絶望が口を閉ざさせた。
 脱出の望みはなかった。鍵は呪術師と傭兵が持っていた。どちらも疲れはてた難民のかなう相手ではない。
 なにより、かれらには絶望以外の感情が残っていなかった。
「サーリは違った。サーリが連れてこられたのは、おいらよりもさきだった。なのにサーリは絶対そとに出られるって、信じてた。おいらたちは友達になった。
 サーリはいろんなことを話してくれたよ。海のこと、船のこと。みんな夢みたいなことばかり。サーリの母ちゃんはすごい美人なんだぞって、踊りがうまくて、港の男たちがサーリの母ちゃんをとりあってるんだって、自慢してた。にいちゃんがやられて、とうちゃんもかあちゃんも殺されて、泣いてたおいらをなぐさめてくれた。
 でも、黒いやつがおいらたちのなかから、サーリを選んで連れてった。サーリの声が聞こえたよ。おいら、サーリは助かるって、サーリだけはって、思ってた」
 話しているうちに、コリンはまたこらえきれずに泣きだした。
 トルードは少年のあじわってきた恐怖をすこしでもやわらげようと、やせた小さなからだをだきしめてやった。
 かれはコリンの言ったこととみずからの体験を重ねあわせて、黒い衣の人物が呪術師であることにまちがいはないと思った。
 このように血生臭い儀式を好むのは、呪術師が召喚する悪霊にちがいない。
 かれの呪歌がきかなかったことを考えあわせると、相手は辻占い師のように無害な輩でもないらしい。
 トルードはコリンが泣きやんでからしばらくして、ここの他に牢はないのかと訊ねた。
 コリンは歌びとにしがみつき、しばらく考えていたが、「あるよ。でも、どうして」と聞き返してきた。
 恐怖の中にあってもまだ好奇心を失っていない少年に勇気づけられて、トルードはにっこりと笑った。
「きみより少しばかり年上の女の子だけど、やっぱり行方不明の人を捜してここにきてるんだよ。ここにはきみしかいないけど、もうひとつの牢にはまだ人がいるかも知れない」
 少年はそれがなんの役に立つのかといぶかしんでいるようだった。
 無理もない。
 コリンはまだ絶望と無力感の中にいる。トルードがいくら楽天的でも、ここからぬけだせるとはまったく思っていないのだ。
「たぶん…そうだね」
 おそるおそるコリンはうなずいた。
「そこの場所がわかるかい」
「この上だよ。黒いやつや、ごついのがときどきあがってくの、知ってるんだ」
「よし。これからそこに行ってみよう」
 コリンはトルードの言う意味がわからず、歌びとが立ちあがって扉に近づくのをぼんやりと見まもっていた。
 トルードは扉にふれると鍵を探り、ひくく慎重な声で歌った。繊細な旋律が鍵にしみこんでゆき、かれはしばらくして大きく息をついた。
 扉は、かるく押されると音もなく開いていった。
「すごい。どうやったの」
 コリンが感嘆の声をあげると、吟遊詩人は「ちょっとしたコツがあるんだよ」と得意げに微笑んだ。
「さ、行こう」
 外に出るとそこは松明のおかげで牢内より明るかった。コリンが言ったとおり石段があり、螺旋状になって上へつづいている。
 トルードは足をかけるまえに後にくっついてきたコリンに言った。
「きみはうしろに気を配っていてくれよ」
 コリンは真剣な顔でうなずいた。
 階段は延々と、それこそ果てがないのではないかと思われるほどつづいた。
 トルードはともかく、牢屋住まいが長いコリンにはかなりきつい仕事だった。
 息があがり、足があがらなくなりそうになると、トルードは意識してコリンにうしろの状況を訊ねた。コリンの報告はいつも異常なしだったが、少年は休息をとっていることまでは気づかなかった。
 階段は狭く、じとじと湿っていた。
 壁面に間遠に設置されている松明がなければ、足元はおぼつかなかっただろう。
 二度三度とすべって転がり落ちそうにもなった。
 唯一の救いは、死体の山から次第に遠ざかっていることと、そのおかげで悪臭がわずかずつではあるが弱まりつつあることだった。
 コリンの足どりがおそくなり、もう限界かとトルードが思いはじめたとき、階段がとぎれた。
 目の前にはさっき出てきたものとおなじ造りの堅牢な扉があり、行く手をふさいでいる。
 トルードはふりかえって少年にうなずくと、扉をまるで尊い人の居室への入り口かなにかのように優雅に叩いた。
「どなたかいらっしゃいますか」


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