prev 海人の都[Chapter 6-2] next

 吟遊詩人と少年が近づいてくる足音は、上階の牢にいるエスカたちにも聞こえていた。
 エイメルは警戒に身をすくめ、扉とエスカを交互に見ていた。
 エスカは海人の巫のかたわれを落ち着かせようとしたが、すっかり神経質になっているかれ(あるいは彼女)は、すみっこにひきこもったまま、ささくれだった視線を投げてくるだけだ。
 エスカはいまでは扉のすぐそばまでやってきている気配に、意識を集中した。
 ある程度成熟した若者の気配と、それよりもだいぶ若い、というより幼いものの気配が、慎重にしのびよってくる。
 なにものだろう。
 呪術師と傭兵だと思っていたので、予想外の人物の出現にとまどった。しかも、この気配には館の隅々にしみついている悪寒のもとが感じられない。
 エスカはふりむいて海人の巫を見た。
 エイメルはいまだいぶかしげな表情をくずしてはいなかったが、今度の訪問者がいつもとは違うことには気づいているようだった。
 そのとき、訪問者が声をかけてきた。
「どなたかいらっしゃいますか」
 あきれるほど明るい問いかけが暗がりに響いて、牢の中のふたりはたがいの身体がびくんとはねるのがわかるくらい驚いた。
「ぼくはこの下の牢からやってきたんですが、おいでなら返事をしていただけませんか」
 エスカはエイメルを見て、どうしようかと考えた。
 かれはまだエイメルに信頼されていない。
 タデュアからあずかった腕環を盗られたことが悔やまれたが、人間に捕らえられ、おそらくは幾晩も恐怖を味わってきたエイメルは、かれを捕らえられた仲間とみなしてはいても、自分の運命を預けるほどに気を許してはいなかった。
 だが、扉のむこう側の気配に邪悪はない。
「あなたはなにものですか」
 エスカは慎重に相手を探りながらこたえた。
「ぼくは吟遊詩人です」
 返答のあとで若者は朗々とした声を披露してみせた。
 美しくゆたかな声が、塔をかたちづくる石に反響した。
 それはまさしく、エスカが油断し、捉えられる隙をつくってしまうきっかけとなった歌びとの声だった。
 歌びとは音階を確かめるようにあげてゆき、それはいつのまにか、聴いたことのある旋律をつむぎだそうとしていた。
 ほうっておけば、いにしえの英雄の冒険譚が館じゅうに響きわたることになり、人びとの目をさまさせてしまっただろう。
 エスカは歌びとが古謡を歌いだそうとするまえに、あわてて質問をした。
「どうしてこんなところにいるんです」
 歌びとは少し残念そうに歌いやめた。
「宴で歌を披露したあとで、手荒い礼をもらいましてね。ちょっと相棒とわかれたとたんに、ちょっととっつかまって、あっというまに牢屋にほうりこまれたというわけですよ」
「どうしてです」
 まさか冗談を言っているわけではないだろうに、歌びとの言葉からはどこまでも深刻さが抜け落ちている。
「なぜでしょうね。ぼくはあなたにこそ尋ねたいですね。どうしてこんなところにいるんです」
 エスカは質問をはぐらかされたことに気づいた。
 相手はエスカが黙ってしまったことで、すこし考えているようだったが、しばらくしてすこし声を落とした、おだやかな調子で話しかけてきた。
「きみはやはり、ルディシニスらしいね。とても繊細で敏感だ」
 驚いたエスカは、相手をもっとよく視ようとして扉に手をかけた。
 扉は、かれの手がふれるかふれないかのうちにうごいて、ゆっくりと開いていった。
 明滅するわずかな神秘の気配とともにトルードとむかいあったエスカには、かれがオーレリスに祝福された歌びとであることがわかった。
 最高の歌びとたちの中にも数少ない、呪歌うたい。ことばにかつての力を甦らせることのできる希少な人びとの、そのひとりと会っているのだということが。
 それにしては威厳を欠いた風情ではあるが、歌びとの真の価値は浮薄な上っ面にあるのではなかった。男の中には、金色に輝く魂がある。
「どうして…知ってるんです」
 当惑してまごついている少年、といってもコリンより十は年上の、じきに大人の仲間入りをしようという年ごろに見えるかれに、トルードはにっこりとほほえんだ。
「きみの連れに見せてもらったんだよ。神聖銀の耳飾りをね」
「シアに会ったんですか」
「うん、ついさっき。ぼくの相棒と一緒にいるよ。ぼくらは人捜しをしにここにやってきたんだけど、彼女もそうだと言うんで、協力することにしたんだよ。それで、きみの捜していた人は見つかったの」
 エスカは反射的にエイメルがいる方向に神経を集中した。エイメルは獣のように全身はりつめている。
 ここでエイメルのことをうちあけてよいものかどうか、エスカには判断がつかなかった。
 エイメルはただでさえかれに気を許していないのに、このうえほかの人間にうちとけてくれるだろうか。逃げだすのに人数が多いから有利とは限らないし、かといって、今夜中にエイメルを説得することができなくては、クウェル・シルアーリンは戻ってこない。
 あの腕環があれば。
 そのとき階下で音がして、その場の全員が緊張に包まれた。
 吟遊詩人の後に隠れるようにしていたコリンが恐怖の声をあげた。
「だれかくる」
 小さなかすれ声が、さきほどのトルードの声よりも大きくひびいた。歌びとは少年にだいじょうぶと言いきかせて、とりあえず牢の中に入り扉をしめた。
 エスカの感覚のなかに黒い影が映り、近づいてきた。
 悪臭にまみれたけがらわしい影。
「呪術師だ」
 エスカがつぶやくと、吟遊詩人が「隙をみて逃げよう」と言った。
「どうやって」
 思わず聞きかえす。
「言うなりになってると、生け贄にされてしまうからね。それもあまりありがたくないやり方で。下にいるのは、穢れた儀式の犠牲者たちだよ」
 吟遊詩人は思い出したことに対する嫌悪を、押し殺した声にまで反映させた。
 エスカはうすうす感じてはいた臭気の正体をさとって、喉にこみあげてくる苦いものを懸命に堪えた。
「けがらわしい」
 とつぜん部屋の隅にいたエイメルが声を出し、緊張のなかにある三人を驚かした。
「この塔の下から、毎晩、悲鳴が聞こえた。痛みと恐怖がいっぱいの、胸の痛い声がする。はじめは、耳に突きささるようなのに、だんだんちいさくなっていって、さいごには聞こえなくなる。でも、とほうも長くつづくの。タデュアの言ったとおりだった。人間なんて…」
「エイメル」
 エスカが近づこうとすると、エイメルはそれを嫌って身をひるがえした。
 そのとき、扉が開いた。


PREV [Chapter 6-1] Next [Chaper 6-3]

海人の都[HOME]

HOME Original Stories MENU BBS
Copyright © 2000- yumenominato. All Rights Reserved.