prev 海人の都[Chapter 6-3] next

 松明が照らしだす呪術師の姿は、見るものに嫌悪と畏怖を呼びさまし、背筋を凍らせた。
 汚れきった黒い衣を身にまとった男の中身は、残虐さと血と闇を愛し求める陰惨な堕ちた魂だった。
 呪術師は骸骨のように痩せていたがその目は手燭の光に炯々とし、あたかもかれが喚びだそうとしていた悪霊そのもののように不吉なまがまがしいまなざしで、牢の中を見わたした。
「おぬし、なにゆえここにいる」
 見とがめられた吟遊詩人は、悪臭に顔をしかめながらもほがらかにこたえた。
「歌びとは聴衆を求めるものです。死者よりも生きているもののほうが、わたしとしてはありがたいですね」
「どうやって鍵を開けたのかを聞いておるのじゃ」
 呪術師はいらだたしげに問いただしたが、トルードは答えなかった。
 黒衣の老人は美貌の若者をきつく睨んで、宣言した。
「ならば答えずともよい。おぬしらはこれから名を口にすることもできぬ御方のところへゆくのだ。そこで嘘をつけば、相応の報いを受けることとなろう」
 脅しのことばを吐きながら、老人は腕を高くふりあげた。
 老人が口のなかですばやくつぶやいたことばが、エスカの耳に焼けつくような痛みを起こさせた。エスカはとっさに頭のなかに浮かんだ呪文を唱えた。
 邪悪な呪文が力を発揮する一瞬のうちに消滅したことに、呪術師は顔色を変えた。
「邪魔をするのはだれじゃ」
 トルードはこのときとばかりにコリンの背を押し出した。
「走るんだ」
 呪術師の脇をすりぬけてゆく少年を守るために、トルードは老人に体あたりをかけた。老人がよろめいている隙に、かれはたたみかけるように叫ぶ。
「逃げろ」
 エスカはトルードの後を追って牢の外に出た。
 呪術師が背後でなにやらわめいていた。口汚い罵声と呪いの文句が、不気味な松明の光に照らされた階段を追いかけてくる。
 日焼けと打撲で痛むからだに鞭うって駆けおりようとしたときに、もうひとりつづいてくるはずの足音がしないことに気づいて、エスカは後をふり返った。
 同時にかんだかい悲鳴が、塔のすべてに共鳴するような鋭さでひびきわたった。
 耳から頭を引き裂かれたような衝撃と、それにつづく空白ののちに、エスカは階段を駆けあがった。
 呪術師はエイメルの長い髪をつかんでひきずりまわしているところだった。
 苦痛と嫌悪の表情で海人の巫は鋭い悲鳴をあげつづけていた。人間にはとても発することのできないきんきんとつきぬける声は、呪術師にさえ不快のしわを刻ませている。
 苛立った呪術師はますます乱暴に金の髪をひきつかむ。
「だまらんか、この魚もどきめ」
「やめろ」
 エスカが割って入ろうとすると、エイメルは老人に対するのとおなじくらい険悪なまなざしでかれを睨み、悲鳴をあげた。
 ひるんだエスカに、呪術師はあらんかぎりの力をそそぎこんで呪文を唱えた。
 呪文を返すことができなかったエスカは、突然のしかかってきた疲労感に膝をついた。気力が萎え、いままで忘れていた痛みが、日焼けや打撲傷の痛みが何倍にもなって甦ってきたのだ。
 呪術師がエイメルをひきずって牢を出てゆこうとしている姿を目で追いながら、エスカはどうにかして綿のようになったからだをうごかそうとした。
 だが、頭までもがはたらくのを嫌がって、この状態を脱するために有効と思われる呪文を思いつくこともできない。
「待って…」
 必死に右腕をのばしてエイメルの足首をとらえようとしたが、目の前でするりとぬけていってしまった。おかげでかれの脱力感はいっそうひどくなった。
 あの腕環をなくしさえしなければ。
 エイメルがかれを信用して、逃げだすことにすぐに従ってくれていたら。
 エスカは一瞬のうちによくもこれほどと思われるくらいに後悔の種を見つけた。
 嵐のまえに精霊から目を離してしまったこと。海人に捕まったこと。クウェル・シルアーリンをタデュアに盗られたこと。修業の途中で塔を離れなければならなかったこと。兄弟子を失ったこと。いまだに魔法をうまく使いこなせないこと。シアをひとりにしたこと。
 無力感が絶望へと変わろうとしていたそのとき、にわかに背後が騒がしくなった。
「エスカ!」
 名を呼ばれてかれはハッとなった。
 階段をおりはじめていたはずの呪術師が、あわててひき返してくる。
 その後を追って駆けあがってくるのはだれだろう。
 呪術師はもう、エイメルをひきずってはいなかった。あせりと苛立ちが老人の醜い顔にうきあがり、エスカはとっさに身をひるがえし、からだに力が戻っていることに気づいた。
 呪術師は海人の代わりになるものを手にしようとして、エスカに手をのばした。
「闇に棲まうものよ、その身に多くの血をまといしものよ。われの望みを叶えよ」
 いんいんと響く黒い呪文。
 骨だけのような掌がエスカの顔をつつみこもうとする。
 しかし、エスカもすでに呪文を唱えはじめていた。完結した魔法のことばが紡ぐ光の織物が、老人の穢れた眼を、からだをつらぬいて、牢全体をみたしてゆく。
 一瞬のことだったが、眼も眩むような光の爆発に、その場にいたものはみな顔をそむけた。
 エスカは暗闇の戻った牢にへたりこみ、夢を見たかのようなぼんやりとした顔つきで、膝をついて意味のとれないことばをつぶやきつづけている呪術師をながめていた。
 自分がしたことが信じられなかった。
 いまの光はどこからきたのか。ほんとうに自分の呪文から導きだされたものだったのだろうか。
 だが、ぽっかりと身体に風穴があいたような喪失感が、確かに身のうちからひきだされた力であったことを示していた。
 いったいなんの呪文を唱えたのか、それすら記憶にとどまらず、拡散する光とともに飛び去ってしまっていた。。
 ぼうぜんとしている魔法使いを現実にひきもどしたのは、呪術師を追ってきた若い男の後からはずむように走りよってきた、やせっぽちの少女の平手うちだった。
 派手な音ととうとつな痛みに眼を見ひらいたエスカに、シアは、ほとんどどなりつけるような怒りのことばを浴びせかけた。
「はやく起きて、ここから逃げるんだよ。まったく、どこででも寝るんだから。ぼんやりしてるとおいてくよっ」
 アンガスが脇からエスカをかかえ起こしてくれた。
 シアは、戦士らしい大柄な男を見たエスカが、なにか言いたげにしているのに気づいたが、まだそれを説明しているときではなかった。
 アンガスは、少女の小さな手がしっかりと魔法使いの服を握っているのを見て、苦笑に似た表情を浮かべる。
 エスカは、服を脇からひきしぼられて窮屈な思いをしながらシアを見た。
 視線に気づいたシアは魔法使いの疲れた顔を見あげて言った。
「よかった、ちゃんと生きてて」
 かれらは塔の階段をできうるかぎりのはやさでおりていった。
 鉄製の扉の外に待ちうけていた大勢の人びとは魔法使いを驚かせた。
 その中には、あきらかに平民ではありえない威厳をそなえた人物もおり、あとでそれがローダの領主だと聞かされて、エスカはとまどうばかりだった。


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