prev 海人の都[Chapter 6-4] next

 夜は明けかけていた。
 白い月は空にかたむき、ほとんど沈みかけている。
 トルードとコリンは、ひとあし先に館の外で待っていた。
 あとからたどりついた三人は、月あかりの中で手をふる吟遊詩人の姿をみつけて、ようやくひといきついた。
「捜し物は見つかったようだね」
 トルードに声をかけられて、シアはうなずいた。かれはエスカを見て、かすかにほほえんだが、すぐに真顔になった。
「きみといっしょにいた、あの人物は」
 吟遊詩人はもの問いたげに視線をうつした。エスカはそのさきに、おびえたように身をすくめている海人の姿をみつけた。
 シアはエスカにほとんどしがみつくようにして、エイメルを見つめた。
 うすむらさきの朝もやの中にうかびあがったエイメルの姿は、闇のなかでエスカがみとめたとおり、タデュアに生きうつしだった。
 ほっそりときゃしゃなからだにふりかかる、暗めの金の髪。ととのいすぎるほどにととのった、それゆえに人ではないことがあきらかな容貌が、消えゆく炎の断末魔の輝きのように見えるということも。
 トルードも、アンガスも、一糸まとわぬしろい裸身に畏怖すらおぼえ、コリンにいたっては、眼が潰れるといわんばかりにトルードの後に隠れて見ようとすらしない。
「エイメル」
 シアは、かすれ声でささやいた。
「あんたがエイメルなの」
 海人はかすかに首をかしげ、自分の名を呼んだ少女を澄んだ瞳で見かえした。
 いぶかしげなまなざしに、シアは自分の腕を突きだしてみせた。
 とたんに、海人の眼は吸いよせられる。
 エスカはシアの腕にはめられている腕環に眼を見はった。それはタデュアからあずかってきてかれが捕われたときに奪われた腕環だった。
「これはね、タデュアからあずかってきたもの。あんたを連れかえってくれって、タデュアに言われたの」
「本当にタデュアを知ってるの」
 エイメルは半信半疑のまま今度はエスカを見た。
 エスカはうなずいて、シアのことばに足りない部分をつけたした。
「タデュアはあなたのことをとても心配している。それに、儀式に間にあわないのじゃないかとも」
 それは、牢のなかでもくりかえし話したことだったが、エイメルはようやくかれらの話を信じはじめたようだった。
「まにあわないって、きょうは」
「あすの…」
 そこでエスカは、白みはじめた空を見て訂正した。
「もう、きょうだ。あなたがたの儀式は今夜、夕刻からはじめられると聞きました」
 エイメルは腕環とシア、そしてエスカを交互に見、しばらく考えていた。
 シアは緊張したまま、透明な瞳のさぐりに耐えた。
 タデュアによく似た青い瞳だ。だが、エイメルの話しかた、声音、その存在をとりまく雰囲気は、タデュアの怜悧なよそよそしさとは対照的にやわらかで親しみを感じさせるものだった。
 あるいは、そのためにこの海人の巫は捕らえられることになったのかもしれない。だとしたら、なんという不幸で、哀しいことなのだろう。こんなふうに純粋でうつくしい存在に、人間の汚い愚かな面を見てほしくはなかった。
「それが本当だとしたら、わたしはすぐにタデュアのもとにかえらなくては。あなたがたのすべてを信じられるわけではないけれど、あの呪術師たちとは違うということだけはわかる」
 シアは腕環をはずして、さしだした。
 エイメルは腕環を受けとると、おごそかに左腕に身につけた。腕環はエイメルにしっくり馴染み、エイメルの一部になった。
 祈るような気持ちで見つめていたシアは、エイメルがためらいがちに、だが、はっきりとうなずくのを見て、ほっとした。
「それじゃ、すぐに」
「いや、少し休んだほうがいいよ」
 吟遊詩人のことばに、エイメルがはっとなってみがまえた。
「もう、朝の市が開く時間だ。ひとが出てくる。逃げだすにしても、もうすこし、やりかたを考えたほうがいいんじゃないかな」
 エスカの視線を受けて、シアは居心地が悪かった。
 吟遊詩人と戦士がなにものなのか、じつのところは彼女にもわかっていないかった。
 エスカが説明を求めているのはよくわかったが、そういうわけで答えることは不可能なのだ。
「いったん、宿に行きませんか。部屋をとってあるから、そこで相談しましょう」
 トルードはシアとエスカ、それにエイメルには笑いかけただけで、コリンにむかって返事を求めた。もちろん、少年は即座にうなずいた。
 シアが答えようとしないので、エスカはふりかえってもうひとりの男を探した。
 アンガスという名の男は、周囲を気にしながらトルードにむかってしきりに合図をしている。はやく行くようにとせきたてているのだ。
 エスカの神経は一瞬にしてはりつめ、アンガスがなにを恐れているのかを事実として読みとった。かれらはつけられていたのだ。
 視線を戻すとトルードが目でうなずいてみせた。エイメルもかれの表情に気づいていた。ひと呼吸遅れてシアが気づき、かれらは吟遊詩人の案内にしたがって歩きはじめた。
「あれはゴンダリオだ」
 ひくい声で、アンガスが事実を述べる。
「それに、兵士たち。エイデール殿も、案外なことをするな」
 領主がかれらを捕らえる命令を出したのはあきらかだった。
 エスカは左からエイメルをささえ、右からささえている吟遊詩人の端麗な横顔がひきしまっていることに気づいた。アンガスの声があまりに淡々としていることに、トルードはかえって心配しているらしい。
 ローダの街中に入るとトルードの言ったとおり、すでに人びとは起きだして、日々の営みをはじめていた。夜のしずけさは去り、竈からは煙りがたちのぼっている。
 空には鳥たちがさえずり、太陽の光が石造りの建物をくっきりとぬりわけていた。
 かれらは狭い小路をぬけ、角を曲がり、坂をくだった。
 シアには、ローダのどこを歩いているのか、さっぱりわからなくなった。
 吟遊詩人は一心不乱に先を急ぎ、エスカはかれと一緒にエイメルをささえているので、歩調をあわせるのに四苦八苦している。
 コリンはトルードの横を小走りでついてゆき、シアがいるのはそのすこしうしろだった。
 シアはエイメルのよわよわしい両足が、傷だらけになって地面を蹴っているのを見ながら、しんがりのアンガスが油断なくあたりに気を配っているのを感じた。
 街はざわめきはじめている。
 胸がどきどきして、息が苦しい。あとを付けてくる男たちも、緊張している。コリンもエイメルも、トルードもエスカも、アンガスでさえも。
 疲労が足どりを重くした。
 無理もない。おぼえているかぎり、嵐で浜にうちあげられてから、シアはぐっすりと眠ったことがなかった。
 吟遊詩人がうしろをふり返ると、アンガスがうなずいた。
 とつぜんひとり別の方向に走りだしたアンガスにおどろいて、立ちどまってしまったシアに、鋭い命令がとんだ。
「とまるな」
 腕をつかまれて、ひきずられるようにしてしばらく走ったのち、たどりついたのは彼女がぬけだしてきた宿屋の裏庭だった。
 ちょうど、昨夜の窓が真上に見え、着地したところにエイメルがすわりこんで、肩を上下させて苦しそうに呼吸をしていた。
 月あかりのもとで幻想的と思えた海人のからだは、情け容赦のないメルカナンの光のもとでは奇怪で恐ろしげに見えた。
 エイメルの足がとても小さいこと、歩きかたのぎこちなさを見て、シアは、顔かたちはひとのように見えても、やはりかれらはひとではないのだということをあらためて悟った。
 かつてはクウェント・ローダ、高貴な民と讃えられた人びとの裔は、いまでは海人と呼ばれている。姿かたちは変化して、立って歩くことさえ困難になった。いにしえの美しさをとどめていると思われるエイメルですら、そうなのだ。
 タデュアの嘆きが少しわかったような気がした。
 今夜の儀式が、どれほどたいせつなものであるのかも。
 それに、このまま街を通りぬけるのは危険だというトルードの意見は正しい。いまはまださほどではないが、港に近づくにつれ、人の目はふえるだろう。
 エイメルの姿にひとびとが示す反応は、容易に想像できた。
「だいじょうぶ」
 声をかけるとエイメルは首をふった。本当に苦しそうだった。
「ゆっくりやるんだ。あせらないで、ゆっくり」
 エスカが背中をさすりながらはげますと、エイメルは咳きこみそうになりながら、吸って吐いてを繰りかえした。
 きっと、とシアは思う。水の中のほうが楽なのだ。息をするのも、歩くのも。
 エイメルの呼吸がようやく落ち着いてきたころ、姿の見えなかった吟遊詩人とコリンが戻ってきて、宿屋の裏口から手招きした。
「しずかに、ついておいで」
 エスカと一緒にエイメルを立ちあがらせ、両側からささえながら、先導するコリンのあとをついていった。
 宿のなかで目をさましているのは厨房だけだった。かれらはトルードの命令にしたがってそろそろと歩いた。コリンが目的地としていたのは、二階のドアのひとつだった。
 なかに入ると、トルードはよろけるシアにかわってエイメルをささえ、寝台によこたわらせた。
「きみたちは、ここですこし休んでいてくれないかな」
 トルードが言うとエスカは不安そうに年上の男を見た。
「そんなことをしているひまは、ありません。一刻もはやく、エイメルを送りとどけなければ、ぼくは…」
「そうだよ。はやくしないと、儀式の時間にまにあわないよ」
 やはり落ちつかなげなシアとエイメルのまなざしをうけて、吟遊詩人はうなずいた。
「でも、きみたちだけではとてもたどりつけないでしょう。わたしを信用して。けっして悪いようにはしないから」
「でも」
 トルードはエスカのためらいに琥珀色の瞳をまっすぐつきとおした。
「きみがルディシニスなら、わたしの言うことが真実かどうか、わかるはずだ。緑の森の御方々は、このようなことでいたずらに時を費やすようなまねはしないだろうな」
 エスカは吟遊詩人を焼けつくような眼で見すえた。
 シアは、一瞬、魔法使いが吟遊詩人に殴りかかるのではないかと思った。それほど、トルードのことばはエスカにとって意味のあるものだったらしい。
 シアには、なんのことだかさっぱりわからなかったが。
「わかりました」
 燃えあがりそうになった炎をかろうじておさえながらエスカがこたえると、トルードはもう一度うなずいて、コリンをつれて部屋を出ていった。
「ねえ、ルディシニスって、なに」
 吟遊詩人の言ったとおり、いまは休んでおこうということになって、残ったひとつの寝台に横になったシアは、床にうわがけだけをもって座っていたエスカにたずねた。
 エスカはシアの問いにゆっくりと顔をあげた。
「タデュアが言ってただろう。クウェント・ローダとクウェント・ルディス。それにクウェント・フェルネ。いにしえの尊き民の三部族。ルディシニスは、クウェント・ルディスのいまの呼び名だよ」
「それじゃ、緑の森の…」
 質問は途中でさえぎられた。
「もう、寝なよ。疲れてるだろ」
 エスカはくぐもった声でそう言うと、うわがけをかぶって背を向けた。
 きゅうに不機嫌になった少年に、シアはふいをつかれて無言のかたまりをまじまじとみつめた。
 なにが気に障ったのだろう。わけがわからないながら、とても不当な扱いをされた気分になって、おもいきりのしかめつらをしてやった。
 するとエイメルがじっと見ているのに気がついた。
 海人の巫は寝台の上で居心地悪げによこたわっていたが、そのまなざしに非難の色は見えない。シアの視線と出会っても、そらそうとはしなかった。
「あの…」
 声をかけるとエイメルは首をふった。
 会話はしたくない、ということなのだろうか。シアは、きまりの悪さとともに横になった。
 しばらくしてもう一度見ると、エイメルは静かに目を閉じていた。


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