街は祭りに耽っていた。
大祓の大祭はゆうべからはじまっていた。ローダの中心である港から市場の立つ広場までの通りは、華やかさときらびやかさにみちていた。
色とりどりの花と飾りが窓や戸口を飾っている。
さまざまなものを売る屋台と芸を見せて拍手を浴びる人びと。その間をうごめいている、大勢の人間たち。
かれらはそれぞれに趣向を凝らした衣装を身につけ、浮かれ騒いでは嬌声をあげた。
娘が身につけた香の匂い。花の香り、ひとの体臭、酒の匂い。そんなものが街路に充満していた。食物の匂いに、排泄物の臭い、潮のかおり。
そして、豊かさの影に隠れたまずしさの、餓えと病と死、それらすべてを忘れてしまおうとする狂気のかおり。
領主の館でなにが行なわれていたのかを、人は知らないはずだった。
だが、風が血なまぐささを運んでくるのだろうか。人びとは怯え、得体の知れぬものへの恐怖に名をつけようとした。
海人のしわざ。
海の神の怒り。
女神の祟り。
北からの難民がもたらす、戦の悪夢のせいなのか。人びとは、畏れおおくも神にまで罪を押しつけた。そのような行為こそが、神の怒りをまねくのではないかと、かれらは考えないのだろうか。
通りをねりあるく山車を見物する輿の中から、シアは身をのりだして落ちそうになった。
服をつかんでひっぱりこんでもらわなかったら、石畳の通りの上か、ひとの頭の上にころがり落ちていただろう。
安堵のため息をもらしていると、エスカが恐い顔でにらんでいた。
「ごめん」
華やかな祭りがめずらしくて、ついつい乗り出してしまう。
輿の中に隠れているように言いわたされているのに、じっとしていないシアに不安そうなのは、魔法使いだけではなかった。
エイメルはあざやかな翡翠の緑色をした貴婦人の服をまとって、きゅうくつそうに輿の中央におさまっていた。うすいヴェールを頭から被っているため顔つきはよくわからないが、周囲で歓声やどよめきがおこるたびに体を緊張させている。
エスカは海人の巫を気づかいながら、少年のなりをしたシアにふたたびの注意をした。
「舟に移るまで、じっとしてろ。つかまったら切り刻まれるぞ」
不機嫌なせいか、言葉遣いまでが乱暴になってきているエスカに、従者の姿で輿の側についている吟遊詩人が注意した。
「あなたも、ご婦人ならもうすこし上品なことばを使ってくださいね」
エスカははねあげていたヴェールをさげて、顔を隠した。
そうすると、エイメルとふたり、どこから見ても祭り見物の婦人にしか見えない。
シャインサは見られたくない姿をつつむためにおあつらえむきと、きゃしゃなかれらを貴婦人に見せることにした。
シアはふたりに従う小姓で、トルードは従者。シャインサは侍女、ということになっている。
すべて祭り用の仮装で、身につけたものは安物でも問題はない。シャインサがいるので、彼女の知り合いであろうと思われ、疑われる気配もなかった。
これまでのところは。
問題は、山車が港へ近づくのについて一緒に移動しているいまではなく、きらびやかな山車が海へ流される、それと同時に舟に乗り移るときだ。
トルードは黒く染めるはずだったものが、なんの因果か、はてしなく汚い緑色になってしまったおのれの前髪をかきあげて、さりげなく、周囲に目を走らせた。
追っ手の姿は見えなかった。
だが、エイデールの警備兵の姿は、そこかしこに見られる。人出が多すぎて、身動きがとれないのがさいわいといえた。
かれは、帽子をなおすふりで今度は反対側を見た。
アンガスは、いつものいでたちでひとごみの彼方にいた。こちらを見ているが、合図はしない。
領主の館にのりこんだときには置いていった長剣が、背中にくくりつけられていた。静かに緊張して、戦士はなりゆきをみまもっている。
輿をひいている馬に乗ったコリンは、シャインサの家からまっすぐここまでやってきた。踊り子の息子の服を着せられた少年は、トルードの顔を見るとまじめな顔でうなずいた。
山車はそろそろと海に近づいてゆく。
太陽は、沈みかけている。
メルカナンの夕刻の赤い衣が地上に映り、すべてが朱に染まりつつあった。
エイメルは、胸の前でくみあわせたしろい手に力をこめ、口の中でなにかをしきりにつぶやきはじめた。
シアは海人の巫をみつめ、はりつめた姿のむこうにもうひとりの巫を見た。
タデュアは、胸のはりさけそうな思いで待っている。
赦しの日がきているのに。
神への赦しを請う、それがゆるされる日が、ようやくやってきたというのに。
巫がいない。導くものが。
ふたりだけ。ふたりしかいない。
ふたりでようやくひとりの力しかもたないのに。その、ふたりのうちのひとりが、もどってこない。
エスカは、トルードに尋ねた。なぜ、たすけてくれるのかと。
身も知らぬ他人、会ったばかりで、たがいによく知りもしない自分たちを、なぜ。
エイメルは歌っていた。
銀の鈴のような声が、かすかに、ほんとうにかすかに聞こえてくる。
「さあ、もうすぐだよ」
シャインサのささやきが、群衆のどよめきにかき消される。
陽が落ちる瞬間、たいまつに火がつけられた。どよめきが怒号に変わる。
山車のまわりに群がる人波に、輿がまきこまれて、もみくちゃにされそうになる。
シャインサとトルードが神経質になった馬をなだめすかして、方向を転じようとしている。
シアは、嵐を思い出して身震いした。肌がそそけだつ。輿が激しくゆれるのも、まわりじゅうからひびいてくるたたきつけるような声も、荒れ狂う海のようだった。
山車は人びとに押されるように、埠頭へと流されてゆく。
輿はその後を追おうとしたが、まわりの騒ぎに怯えて、とうとう馬が動かなくなった。
「おりなさい」
トルードが観念して合図をする。
シアとエスカは輿から飛び降りた。
エイメルは、ヴェールをもたつかせながらよろよろとうごきだす。それをささえて地面に下ろしたのは、シャインサだった。
エイメルの服の裾が地面につく前に、シアは走りだしていた。めざすのは、いちばん端にある船着場だ。
あとにエスカが、うしろを気にしながらつづく。トルードとシャインサが、両側からエイメルをかかえて走ってくるのと、コリンが馬を反転させ、山車のほうへと走らせてゆくのが見えた。
祭りは、突如暴走をはじめた馬のために、大混乱に陥った。
少年ははねまわる馬の背にしがみつきながら、ふりおとされまいと必死だった。
逃げまわるローダの人びとは、馬に蹴られまいと懸命だ。
警備兵が武器をふりたててとり押さえようとしたが、馬はかれらを踏みつぶさんばかりにとびはねた。
騒ぎのなかで、山車は先導者も舵取り役も失って、無軌道に転がりはじめた。
シアが埠頭を走りぬけ、舟のつないであるところにたどりついたとき、山車は大きな音とともに海面にすべり落ちてゆくところだった。
しぶきが高々とあがり、一瞬、山車の姿が見えなくなり、つぎの瞬間には斜めにかしいで沈みはじめる。
しだいに波に洗われ、のみこまれてゆく山車とうちよせる波のしぶきとが、赤い炎の色に染めあげられた。
メルカナンの最後の光が、そこで消えた。
「シア」
我にかえったシアは、エスカが横づけされた舟の上から呼んでいたことを知った。
「はやく。エイメルもくる」
ふり返ると必死に駆けてくる三人の姿が見えた。そして、その後から迫ってくるものがいる。
「追いかけられてる」
シアの叫びに、エスカは顔を凍りつかせた。
かれはゆれる舟の上を舳先にむかい、風の中で視界をひろげた。
トルードとシャインサがエイメルをひきずるようにしてこちらにむかっている。そのすぐ後に、がっしりした体格の男がぴたりとくいついてくるのが見えた。
あの傭兵だ。
エスカは、男に腕をねじられたときの痛みの記憶を甦らせた。
怒りが胸にわきあがり、自然に、口が呪文を唱えだしていた。
同時に、かれのまわりの空気が色をかえた。
シアは魔法使いの音楽のような声にあわせて、風が踊るのを見た。
ゴンダリオは、エイメルのヴェールに手をかけた。かれはその武骨な手で、薄ものをつかみ、ぐいとひきつけた。
かんだかい海人の悲鳴が、夜の帳の下りはじめた港にひびきわたる。
とつぜん、風が襲いかかった。
ゴンダリオはヴェールをつかんだまま、体をもっていかれた。足が地からはなれ、体が浮き、後に流される。
正面からふきつけてくる風に呼吸もできず、ゴンダリオは恐怖を味わった。
なにが起こったのか、とっさにはわからなかった。
じぶんがぶざまな格好であおむけに転がっていることに気づいたとき、かれの頭上には長剣の切っ先が突きつけられていた。