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 風に長い金の髪をなびかせたエイメルを乗せると、舟は見送るシャインサをのこして港を離れた。
「方向は」
 櫂をうごかしながら尋ねる吟遊詩人に、エスカは答えがわりにべつの人物を見やった。
 エイメルは艫にすわり、その澄んだ瞳でひたすら海面と空とをみつめていた。
 空にはメルカナンの妹であり、妻であるイリアの姿が見えはじめている。
 月影が照らしだす海人の姿には、息すらもひそめさせるおごそかなものがあった。大事な儀式に臨み、タデュアがのりうつったかのように、エイメルのしぐさには威厳がそなわっていた。
 かすかな調べが、静寂にみちた海面に漂っていた。
 エイメルの喉は、歌を紡いでいた。
 ときおり、海人はほそい両の腕を天空へとさしあげた。なにかを請い願うように。
 ふしぎな響きをもつ歌声は、次第に大きくなっていった。
 耳につたわる大気のふるえが、感覚を刺激する。戦慄に、シアはからだじゅうをふるわせながら海人の姿をみつめた。
 ふいに舟がもちあがり、ゆっくりとしずんだ。
 トルードはかつてないほど澄んだ響きの声に聞き入っていたが、この異変に櫂をとりおとしそうになった。
 海面がもりあがり、白い泡の中からたくさんのなにものかがうかびあがってくる。
 そのたびに、舟はゆれ、乗っているものたちは投げだされまいとしてしがみついた。
 いつのまにか、舟はおおぜいの鱗で覆われたひとがたのものたちにとり囲まれていた。
 かれらはあがめるようにエイメルを見あげ、歌声に導かれるように舟を運びはじめた。
 海人たちはいちようにしずけさをたもっていた。エイメルの歌がどんなに小さくとも、けして聞きのがしはしないというように。
 波のくずれる音以外に、エイメルを妨げるものはなにもない。
 昼のぬくもりを残した潮風が、なでるようにやんわりと吹きすぎてゆく。
 舟は海人たちによって夜の闇色に染まりはじめた海をよこぎっていった。
 黒々とした島影が、近づいては遠ざかる。そのあいだもエイメルは歌いつづけた。
 意味はわからない。
 歌のことばは、シアの理解を許さなかった。
 おそらくははるかな遠い昔に、クウェンティスたちの口にしていたものなのだろう。
 複雑で優雅な響きに、なにか神秘的な力を秘めたものであることだけが、感じられた。
 そして、とてもせつない思いをこめたものであるということだけが。
 もうひとつの歌声が聞こえてくるようになったのは、ひときわ大きな島影をすぎて、ふたたび視界がひらけてきたときだった。
 驚いたことに、ひろがった海面をうめつくすようしてそこにも海人たちがいた。
 舟のまわりにいる海人たちの数は、ふえてゆくばかりだった。
 月の光をうけて、銀色に輝く海人たち。そのすがたは異形ではあっても、美しかった。
 かれらは順に舟を待ちうけ、うやうやしげに押し出した。
 エイメルの歌は、潮のようによどみなく流れてゆく。
 遠くから聞こえてくる歌声が、エイメルのものにかさなりあい、ひびきあった。
 タデュアが歌っているのだ。
 ふたつの声はからまりあい、共鳴して、さらに複雑な旋律をかたちづくってゆく。背筋の凍るようなつよい想いを編みあげながら、天にのぼってゆく。
 それは、海人たちのすべての想い。
 エイメルだけのものではなく、エイメルとタデュアだけのものでもない。
 近づいてくる島影は、海底より浮かびあがったいにしえの都。
 かつてのクウェント・ローダ。わたつみよりあたえられし、幸福の都。
 光り輝くような栄華をきわめ、しろがねの騎士ファリアートを生んだ、クウェンティスの誇り。その、荒廃した姿。
 舟が浜につくと、そのさきにはタデュアがいた。
 海人たちにかこまれて、金色の髪を風になぶられながら、こちらを見おろしている。その後には篝火の炎のゆらめきがあった。
 海人たちはエイメルをかつぎあげ、高くさしあげてすすみはじめた。その先にはもうひとりの巫がいる。
 エイメルは海人たちの上でひざをつき、天にむかってのびあがった。
 そのゆびさきには藍色の虚空が、そしてイリアの姿があった。ひときわ輝く蒼白い星とともに。
 エスカはハッとして北の空をふり返った。
 北を動かぬオルデーウスの柄石に、みどりがかった群星が近づいていた。
 エイメルはタデュアのかたわらに降りたち、ふたりはむかいあった。
 たがいに腕をさしのべ、掌をあまさずかさねあう。
 巫たちの姿は鏡像のようによく似ていた。
 歌声はとてつもなく高くなり、なのに力は弱まるどころか増していた。かれらは共鳴板のように声を発するだけの存在になろうとしていた。
 かれらが声だった。そして、歌そのものだった。
 想い、そのものだった。


 神よ、われらの想いをうけとめたまえ
 たとえなき罪とかぎりなき責め苦の果ての
 われらの悔恨をうけいれたまえ


 あふれる哀しみと苦しみが、祈りが、歌となってあたりをつつみこんだ。
 シアは、胸をつく想いに耐えきれずに涙を流した。
 海人たちの連綿とつづいてきた償いは、あまりにも苛酷だった。
 クウェンティスの誇りを失い、獣に墜ちることがどれほどの苦痛と屈辱をもたらしたかは、シアの想像もつかないことだ。
 だが、この想いはべつだった。赦しを請い願い、命のすべてを燃やしつくして歌いあげる、この歌だけは。
 シアは泣きながら、篝火が大きくのびてゆき、ついには火柱になって屹立するのを見た。
 上へむかってのびてゆく炎の柱は、天をつらぬき、消えた。
 かと思うと、目も眩むつよい光が爆発し、雷鳴がとどろいた。
 空に雲はひとつもなかった。なのに、天地をゆるがす大音響はしばらくつづいた。
 稲光としか思えない閃光が闇を切り裂き、先端が大地に突きささった。
 海人たちのどよめきは、ゆれうごく大地の悲鳴にかき消された。
 舟が波にさらわれて、すこしずつうごきはじめていたが、だれもそんなことには気づかなかった。
 廃墟は光につつまれていた。稲妻が原因だったのかどうかはわからない。
 風がびょうびょうと吹きわたり、ふたりの巫たちはひざまずいて、光の中からあらわれるはずのものを神妙に待ちうけていた。
 いつのまにか歌はやんでいた。不安と緊張が、しずけさを重苦しいものにしていた。期待に満ちているのに、同時に恐れにも支配されている。
 巫たちにならって鱗を身にまとうものたちも地面に這いつくばりはじめた。銀の波のように、それはひろがってゆく。
 見わたすかぎりを埋めつくしている海人たちのうごきがとまったとき、光の中に変化があらわれた。
 シアは目を凝らし、ひとのかたちをした光をみつめた。
 巫の前にやってきたまばゆいばかりの光は、やがてうすれていった。見るだけで体が浄められてゆくような光がきえたとき、そこにあったのはひとりの男の姿だった。
 かれは、エイメルやタデュアをはるかに凌ぐ美しさをその身にそなえていた。
 威厳のある高貴なまなざしでふたりの巫を見おろしている。身ごなしは優雅で、しなやかだった。かれは若かった。歳をとることはないのだと、なぜだかシアにはわかった。
 なぜだろう。
 消えた光のなごりのような髪の毛にふちどられた顔に、見覚えがあるような気がする。
 そんなことはありえない。
 海人の祈りに応えてあらわれた神にもひとしい存在を、知っているはずがないのに。
 あのまなざしを見たことがあるような気がする。
 説明のつかない感覚に、シアは混乱した。
 篝火は遠い。エイメルの顔も、タデュアのうしろ姿も、おぼろにしか見えない。
 光の中からあらわれた男のすがたを見わけたと、一瞬思った自分が不思議で、それでも、まだどこかで見覚えがあるような気がしているのだった。
 やがて男はふたりの巫を立たせ、導くように前方をさししめした。
 海人たちの声がさざなみのように耳をうつ。
 廃墟の方向にゆきかけて、エイメルがふりかえった。
 タデュアも、長い髪のむこうからかれらを見ていた。かれらの顔には、感謝に似た表情が浮かんでいた。そして、巫よりもはるかに背の高い男がふりかえる。
 かれは舟の中の三人から、とくにシアだけをみつめてきた。理由がわからず、シアは涙のあふれつづける両目をこすった。
 無表情と見えたまなざしが、ふとゆるんで、微笑みをつくったように見えた。
 深い慈しみと叡知を秘めた、穏やかなまなざしだった。
 混乱のさなかにあるシアの意識は、そこでふつりととだえた。
 星の爆発のような、なにものをも消さずにはおかない白い光が、海上を覆いつくした。
 目もあけていられないほどの強い光がようやくうすれてゆき、地上がふたたび夜の帳のもとにはいったとき、島にはだれもいなかった。
 篝火の残りと、海藻に覆われた廃墟のほかには、なにも。
 流されはじめた舟から飛び降りたエスカが、くすぶる薪のもとで見つけたのは、ひっそりと置かれたクウェル・シルアーリン。そして精霊の指環だけだ。
 タデュアもエイメルも、大勢の海人たちの姿も、あとかたもなかった。


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