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4 水晶球の見せる夢


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 硬質でいてかろやかな金属の音が、すぐそばから聞こえる。
 周囲は暗い。ほのかに見える光はランプのものだろう。狭い天幕のなかをぼんやりと照らしている。
 かれは光に背を向けていた。まだはっきりとしない意識が、外のにぎわいと隔絶した奇妙な静けさを不思議なものとして感じとっていた。
 ひんやりと冷たいものが肩に押しあてられた。身体がびくりと反応する。同時に鞭打ちの痛みがよみがえり、痛みが意識を呼び戻した。
 顔をゆがめるかれの前では、遊牧民の娘が眼をみはっていた。
 光で瞳の青が見えたのだろう。娘は、しかし逃げもせず、悲鳴をあげもしなかった。娘の瞳の色はたしかに黒。だが、そこに敵意はない。ただかれを見つめているだけだ。
「うごかないで。熱が高いのよ」
 娘はかれをそっと横たわらせると、中断を余儀なくさせられていた作業を再開した。
 かれの傷跡の縦横無尽に走った身体は、沙漠をよこぎったせいで挨にまみれていた。娘は傷を刺激せぬように気を配りながら、湿らせた布でそっと埃と砂をぬぐいとってゆく。熱をもった身体にその感触は心地よかった。かれは娘のうごきをじっと見まもった。
 娘の褐色の肌にかかるさまざまな装飾品が、小柄な身体のうごきにあわせて音をたてた。夢うつつの狭間で聞いた音に違いない。祭りでもあったのか、服はひとめでそれとわかる晴れ着だ。
 娘は視線を意識しており、ときどきかれの方をすばやく盗み見た。なにかを思いつめたような表情は、そのあいだずっと変わらなかった。
 娘の手が胸から顔に移ってくると、黒い瞳はかれの眼を避けるようになった。
 頬にこびりついている血痕をぬぐおうとする娘に、かれは尋ねた。
「ここは何処だ」
 渇ききった喉からもれた声は、かすれているうえに舌がもつれていたが、意味は通じたようだ。
 手をとめて娘は顔をあげた。黒い瞳がためらいながら見かえしてくる。
「ここはフェズか。ここは――ティルミサーウの天幕なのか」
 かれは身を乗りだすようにした後、すこし咳こんだ。背中をさすろうと手を伸ばしかけた娘は、腫れあがった傷に怯んだ。そして静かにささやくように、ほとんど告白のように答えた。
「――そうです。ここはティルミサーウの天幕」
 そう言った娘の顔からかれは眼をそらし、ついでまぶたを閉じると息をついた。
 めざすものはここにある。
 頼に冷たい布をあてられてかれは身をひいた。見あげるとてぬぐいを手にした娘が心配そうにようすをうかがっている。
「――顔を…ごめんなさい、あたし、傷に」
 娘はいまにも泣きだしそうに見えた。かれは身をひいたために起こった身体中の痛みに耐えながら言った。
「いや――」
「大丈夫、ですか」
 娘はなおもかれから眼をそらさない。かれがうなずくとようやく安堵したのか肩の力を抜いた。
「あんたが拾ってくれたのか」
 尋ねると娘は口をひらきかけ、途中でなにかに気づいてつぐみ、うなずいた。彼女は血痕をやさしくふきとってゆき、おそるおそるつけくわえた。
「――もう、休んでください。眠ったほうがいいわ」
 娘が手ぬぐいを洗い、絞りおえるあいだ、かれはじっと彼女を眺めていた。華奢なつくりの骨格をもった少女といってもとおるほどに若い身体。身ごなしには品があり、大切に育てられてきたことがわかる。
「あんた、ティルミサーウの者だろう。名は」
 布を広げようとしていた手がとまる。かれは娘が息を止めたのを感じた。手はゆっくりと膝の上におろされた。ためらいが伝わってくる。思い惑うやわらかな魂。やがてゆっくりと口がひらかれる。柘榴のごとき赤い唇。
「…アーミナ」
 かれは眼を細めてその名をうけとった。彼女の魂を、彼女そのものである名を。そして記憶の中のある名が、目の前の娘にむすびつけられた。
「アーミナ……アーミナ・ビント・ウスマーンか」
 娘は明らかに驚いていた。かすれた声は彼女の名乗った名だけではなく、父親の名をもつげたのだ。
 理由を求める視線を、かれは無視した。かわりにかれは礼を言った。
「ありがとう、アーミナ」
 この笑顔は武器となる。そんな確信がかれの中にとうとつに生まれていた。
 果たしてアーミナはかれの笑顔に逆らうことができなかった。

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