アーミナという名の遊牧民の娘が天幕から出てゆくと、シャリフは独り静寂のなかにとり残された。
緊張がとけると疲労だけが残る。身体中が熱く、芯から燃えているようだ。言われたとおり、かなり高い熱が出ているのに違いない。
鞭打ちの傷は痛いというよりは熱かった。刑執行人は黒く太いよくしなる鞭でさんざんに打擲してくれた。気絶するまで打つとわざわざ水をかけて正気づかせてくれる。日中のぎらぎらする太陽の下、水は蒸発し、身体のまわりにはゆらゆらど陽炎がたち昇っていた。
まわりのすべてを幻のように変えて。
沙漠の上で暑さのあまり朦朧としていたときも、地平線のむこうに幻が見えた。
タヌーハの沙漠はラムマーアの沙漠。迷い入れば命を失う。
目の前に突然うかびあがるありもしない蜃気楼のオアシス。その緑の木陰。喉の渇きも癒せぬ幻にさえ影がある。その滑稽さにシャリフは声をあげて嗤った。
熱せられた大地は鍋のようだった。空に輝く太陽はその光で身体を刺しつらぬいていった。血が流れないのが不思議なほどに痛めつけられて、それでもまだ生きていた。眼球を失った盲目の竜が、沙漠で生きのびたのだ。
愛しているよ。
亡霊の語ることばのようにあやふやで、記憶の端からすりぬけていってしまうのに、確かに聞こえる声がある。
それは囁き。熱いため息。
いにしえの声。あるいは、べつの生を生きた男に語りかける声なのか。
高慢で、それゆえになおも一途な女の睦言。
そしてそれに応えるみずからの――聞き慣れぬ、けれど確かに自分のものとわかる声。
女は微笑み、赤い唇を近づける。
おまえは私のもの。おまえのすべては私のもの。
四肢をがんじがらめに縛りつける魔性のまなざしに吸いよせられる。
逆らえない。女には逆らえない。言うなりになるしかなかった。呪縛がからだにくいこんで、痛みすらもよおさせる。乳房にくちづけ、肩を抱きよせた。愛を囁き、想いを訴えた。気紛れで残酷でしなやかで非情な、美しい魔物――
シャリフは女の顔から眼をそらした。
魂の深みを凝視める瞳は、昏い情熱と愛と憎しみのすべてをたたえながら黙している。女はかれに促す。すべてを思い出せ。そして贖うのだ。おまえの行なったことを身をもって償え。おまえの吐きかけた唾を私はけして忘れない。
幻覚だ。
女を見まいとしてシャリフは身体をねじった。
これは幻覚なのだ。
いつもの夢だ。高い熱が見せる幻だ。
身体のなかで炎が燃えさかっていた。炎の生み出す熱が、傷つけられた皮膚から少しずつ吹き出てくる。傷はおしだされる熱のためにひび割れ、裂目となり、その隙間からゆらめく炎がしみだしはじめる。身体の芯から高熱の球が膨れあがり、灼熱の焔となり、破裂した。
衝撃に、シャリフは自分が幻覚からふたたび醒めたことを知った。
熱も痛みも治まってはいなかった。が、天幕の下、ランプの薄暗さが現実的で安心させられた。額は汗をかいていたことの証拠にひんやりと冷たくなっていた。頭痛が始まっている。
幻覚はますます鮮明さを増していた。それにも増して幻覚がもたらす感情は複雑になっていた。
女の体臭を嗅ぐように、かれはみずからの内に確かな恐怖と憎しみを感じている。現実とはかけ離れた感情であると、理解してはいる。憎しみの対象である女を、かれは生まれてから一度も目にしたことがなかった。女は存在しない。憎むべき女は。
なのに何故、いもしない女を憎むことができる。これも幻覚なのだ。感情は錯覚だ。ただの思いすごしに違いない。
しかし自分への声は次第に小さくなりつつあった。
いまではかれは女にえぐりとられた眼球を取り戻そうと決意している。女はいる。何処かにいる。この瞬間も何処からかこちらをうかがっているのだ。憎しみと怒りで顔を朱に染め、凄惨な美しさにさらに厳しさをまとう女の顔が、幻のなかに見えたような気がした。