かれらは楽器の音がたえまなく流れてくる宴の席を離れた。
天幕の中は静かで沈んでいた。空気の流れがとまってしまっている。よどんだ空気には、香の薫りが濃く残っており、鼻にかすかな刺激をあたえた。
フサインは思いつめてこわばった顔を、できるかぎり穏やかなものにしようと努力していた。アーミナが腰をおろすとかれは気遣わしげな目で見おろしてきた。
フサインの勇気がすでに使い果されたことを、アーミナは知っていた。だが、それは事実だろうか。彼女の読みは、いままでにはずれたことはない。けれど、かれの不満は行動を抑えきれなくなるほどにつのっているだろうか。
アーミナは静かに微笑んでみせた。
「ありがとう」
拒絶するためには、踊り子の嘲笑を払いのけることが必要だったが、できなかった。すこしずついざりながらからだを逃がしているのを、みすかされたくなかった。アーミナはとどまろうとしてフサインを正面から見すえた。かれはじっと彼女だけを見つめているようだった。
「アーミナ」
視線がぶつかった。ふたりは一瞬、たがいの瞳のなかにおのれを見て、目をそらした。
ため息が聞こえる。
アーミナは待った。
フサインのことばを、あるいは、行為を。
うけいれられるものであろうと、なかろうと、とにかく、待ちうけた。
暗い天幕の中でまぶたを閉じた。一瞬、一瞬がひどく永いものに思われた。目の前の男の存在が、空間のすべてを埋めつくしてゆく。息苦しかった。
沈黙の後に、ようやくフサインが口を開きかけた。そのとき、サガーリードがふたたび大きく響きわたった。
天幕をもってしても、宴にでている女たちすべての声をさえぎることはできなかった。夜の沙漠をつきぬけてゆく声に、フサインの声はとぎれた。
アーミナは次第に近づいてくる声に目をみひらき、あたりを見まわした。フサインは落ちつきを失っていた。
外から聞こえてくるサガーリードには、からかいの響きがあった。近づいてくるように思われたかんだかい声は、方向を転じて闇へ消えた。小さくなってゆくサガーリードの中で、アーミナは隣の天幕に物音を聞いた。
フサインはあきらかに動揺していた。
サガーリードはハルクのハリムをはやしたてるものだった。
なんとか威厳を保とうと非常な努力をした後、アーミナにゆっくり休むように言いおいて、フサインは天幕から去った。
出入口の布がゆれるのを眺めるうちに、アーミナはからだじゅうがこわばっていることにはじめて気づき、緊張を解いた。ころがっていたクッションをひきよせて身を沈めると、思わずため息が漏れた。
悲壮な決意は肩すかしを食った。
フサインはつねに自分の望みどおりに強気になれたためしがない。肩をつかんだ手も、手をつつんだ動作も、ふるえてどこかぎこちない。
始末の悪いことに、アーミナ自身が似たようなものだった。彼女はフサインの腕の中で悲鳴をあげそうになった。自分に対する嫌悪は踊り子の嘲笑を思い出させ、不愉快だった。
姉は――ルカイヤは、どのようにしてこの恐怖を克服したのだろう。彼女はいま、隣の天幕にいる。ハリムとともに。
アーミナは暗闇の中でみじろぎをした。顔にふりかかる髪をはらいのける。目を閉じて闇を凝視める。呼吸をころして静けさが周囲を支配するのを待つと、ほんのかすかな物音でさえはっきりと聞きとれるようになる。
「……」
声が聞こえる。女のうわずった声だ。
アーミナは初夜の褥に背をむけた。ひそやかにささやく声が、男女交互にきれぎれに聞こえてくる。腕をのばしてあたりを探ると、ランプのつめたく硬い感触がゆびにふれた。アーミナはそれをひっつかんで火をつけた。
「……あ」
しゃくりあげるような声が、アーミナの息をとめる。ランプの炎は絨毯の紋様を照らしだす。彼女は手をおろし、ゆびさきを凝視めた。
この手に、この肩に、フサインの大きな手を感じた。大きくて熱い、興奮と怯えにふるえる手――ためらいがちにそっとふれてくる、崇拝者の手。それがフサインの手だ。
アーミナは胸にひきよせられながら密かな満足感を味わった。だから、不足があるわけではない。
かれはアーミナを愛してくれている。ことばにするまでには、きっと幾年もの月日がかかるのだろうけれど、しかし、それを疑ったことはなかった。口にせずともまなざしが、態度が想いを語っていた。
かれはアーミナを大切にしてくれるだろう。ウサイダとティルミサーウの結びつき以上にかれの誠実さは頼りになる。
なにが不満というわけではなかった。彼女はいまのままで充分に幸せだ。これからもきっと、幸せでいることができる。できるはずだ。
「ああ…っ」
悲鳴に近い叫びがアーミナの全身を走りぬけた。
彼女は目をつむり、じぶんの肩を抱いた。
からみあうふたりの人間の肉体が、香の見せる幻覚のように脳裏をよぎった。
男と女。
ルカイヤとハリムではなかった。隣の天幕の姉たちではない。見たこともない顔をしていた。
女の髪は金色で、長く長く蛇のようにのび、男は女のやわらかいからだをくみしいて、ふたりのからだを女の髪が衣がわりに覆っていた。
苦悶の表情から歓喜の叫びをあげる女は、勝ち誇ったようにアーミナを見ていた。蔑みのまなざしに耐えきれず、彼女は身を翻す。
鋭い叫び声が頭のなかで響きわたり、アーミナは我にかえった。
薄暗い天幕は静けさにつつまれていた。では、さっきのは幻だったのだろうか。
アーミナはいまも残る憎悪ごと、じぶんを抱きしめた。
幻であろうとなかろうと、女に対して抱いた感情は鮮烈で、いまも手で触れることができそうだ。この感情は、踊り子に対して抱いたものとおなじだった。驚くほどつよく激しい想い――過去のじぶんを焼きつくした炎を、アーミナはみずからのなかに感じていた。
聞きたいのはかれの声、触れたいのはかれの体だった。フサインのものではなく、ハリムのものでもなく、もちろん、ほかの男のものでもない。
触れてほしいのはかれの手だった。髪を撫でながら熱っぽい瞳で語りかけてほしかった。かつてかれがそうしたように、彼女が覚えているように。
アーミナは想いを必死でふりはらおうとした。
ばかげている。
会ったこともない男を恋するなんて。
目の前にはフサインがいる。現実に存在する男が、じぶんを崇拝している男がいる。それなのに、水面に映る幻影を求めるなんて。
いつのまにか、アーミナは身体を起こしてぼんやりと座っていた。
天幕のなかに満ちている香に毒されたのだ。アーミナは無理にそう考えた。
彼女はランプの火をふき消すとゆっくり立ちあがった。天幕の中は闇に沈んでいった。
帳をめくって外に出ると、祝宴はまだつづいていた。楽器にあわせて詩を誦する声が風に運ばれてきた。艶めいていながら冷たい、それはあの踊り子の声だった。
女はかぞえる水晶の玉を
むらさきみどりばら色の
竜の流す血は紅
顔には目玉の黒い穴
詩の不気味さは声の美しさにかき消され、人びとは禍々しい歌を咎めようともしなかった。酒で顔を赤く染めた男たちは上機嫌だ。ことばの意味に気づくこともなく、美女の声に聴き惚れるのみ。
踊り子の姿を見てアーミナは眉をしかめた。歌を聴いていると胸が悪くなった。
彼女は父親ウスマーンを眼で探した。かれの機嫌はくずれてはいない。歌詞のもつことばの威力よりも踊り子の声の魅力のほうが勝っている。不吉さは耳を素通りしてゆき、美しいひびきの余韻だけが残った。酒の酔いよりも甘美で陶酔的な夢をもたらして。
アーミナは宴席から遠ざかるように歩いた。
人びとから背を向けると彼女をとりまくものは無数の星々、そして無数の砂をかかえた空と大地だった。日中とは比べものにならないほどに冷えた大気が、微かにうごいてゆくのがわかる。
細かい砂のまじった弱い風はアーミナを吹きすぎ、置き去りにする。楽器の音も歌声も、遥か彼方に吹きとばし、不吉な予感や終わりのないように思える不安さえも、一瞬かき消されたような気がした。
足どりはけして速くはなかった。そんなに長い間歩いたつもりもなかったのに、気がつくと彼女は天幕からずいぶん離れてしまっていた。
来た道をふりかえると、闇の中で宴の中心が別世界のもののように浮かんでいた。歓声はすでにさざめきとしか聞きようがない。だれも彼女が此処にいることに気づいていない。
アーミナは静かに息を吐いて、身体のむきを変えた。今度は天幕から離れないように気をつけた。
かわいた地面を踏みしめながら空を見上げる。満天の星はいまにもいくつか落ちてきそうに見えた。昼間の灼けつくような熱さがほんのりと残っていた大地からも、すでにあたたかみは失われ、サンダルばきの素足にひいやりとした感触をつたえてくる。
北へむかって歩いているうちに、天幕が次第に大きく見えるようになってきた。荒涼とした沙漠に点々と散らばるオアシスの村のひとつがそこにある。人びとの営みの温かさに、アーミナは足をとめた。
踊り子の歌は終わっていた。
物哀しげなウードはバンディーラの威勢のよい拍子にかわっている。宴は今が最高潮だ。
燃えさかる炎のむこうでフサインがこちらを見ていた。アーミナは視線を黙って受けとめた。しかし、今夜はもう、かれの相手をしたいとは思わなかった。
だが、フサインはすでにこちらに近づきつつあった。アーミナは人の輪から離れてやりすごそうとしたが、捕まってしまった。
フサインの顔にはある種の決意が浮かんでいた。かれは父親に話したのだ。ティルミサーウのアーミナが欲しいと、彼女を手に入れたいのだとうちあけたのに違いない。
彼女はフサインを見ず、天幕を一心に見つめた。
「アーミナ、気分はどう」
フサインの声がはずんでいる。
アーミナはできるだけ愛想よく見えることを願って微笑んだ。それでもフサインを見ようとはしなかった。彼女の視線の延長にあるのは、ただ星空と沙漠とそのふたつを分かつ地平線のみだった。
そこでアーミナはうごく黒い影を目に留めた。
「アーミナ、聞いてくれないか。おれ、さっき言ったんだ――親父に」
アーミナは、ええとうなずいた。
黒い影はすこしずつ、本当にすこしずつ大きくなっていった。それが人の姿であると断じるまでには、じれったいくらいの長い時が費やされた。うごきが止まることはなかった。すくなくとも、完全には。
人影がめざしているのがどこであるのかは、考えるまでもなかった。宴の灯をめざして、懸命に前進を続けているのだ。
「――きみに嫁にきてほしい」
沈黙が訪れた。
フサインは娘の顔色をうかがうように、おそるおそる身をかがめてのぞきこんできた。かれはアーミナの表情が自分の予想したどの感情をもあらわしてはいないことに困惑した。沈黙は求婚者に対する当惑でも驚きでも、歓喜でもなかった。彼女の意識はかれにではなく、その視線の先にあるものに注がれていた。
フサインがアーミナの視線を追って天幕の向うに人影を認めたとき、それはばたりと倒れた。
アーミナは求婚者の横をすりぬけて走り出した。
一呼吸遅れて、フサインが後を追う。
天幕の裾にしがみつくようにして倒れふしている男の姿に、アーミナは足をとめた。体にまといついているぼろぼろの黒い布らしきものは、かつては服のかたちをしていたのだろう。埃と砂にまみれた体はぐったりとしてうごく気配もなかった。倒れたところを目撃していなければ、ずっとここに横たわっていた死体だと思うだろう。
いつのまにか追いついていたフサインがアーミナをそっと横へおしやり、ひざをついて倒れている人物を調べた。
「――見たところ、聖者ではないな。アーミナ、だれか人を…」
「死んでるの」
アーミナの問いは不自然なほどに神経質だった。
「いや、生きてるよ。だれでもいいから人を連れてきてくれないか。ひとりじゃ――」
「だめ」
フサインはふりかえってアーミナを見た。困惑と不審と疑問が眉をひそめた顔に浮かんでいた。
アーミナはもう一度くりかえした。
「だめ」
立ちあがるフサインに、アーミナは一歩後退した。
「どういうことだ」
アーミナは懇願した。
「フサイン――お願い、人は呼ばないで」
フサインの黒い瞳はいぶかしげに彼女を見ていた。
なぜ。
口に出されぬ問いにアーミナは首をふった。
「お願い、人には報せないで。だれにも――言わないで」
「アーミナ、きみは――」
「お願いよフサイン。わたしが欲しいのなら、このことを口外しないで」
フサインはアーミナの瞳を凝視した――月明かりにきらめく黒曜石の瞳を――それはいままでかれが娘に見た、もっとも真摯で厳しいまなざしだった。かれは吟味するように彼女を見ていた。
いま彼女が口にし、自分が耳にした言葉の真実を確かめようとするように。
アーミナは眼をそらさなかった。
肩の力をぬいて、フサインはあきらめたように表情をゆるめる。
「それじゃあ――どうしたいんだ」
「この天幕のなかへ、運んで」
フサインが男の体を天幕へ運び入れるのを、アーミナは周囲のようすに神経をとがらせながら見まもった。
男は意識を失っている。フサインがどんなに乱暴にあつかおうと、目を覚ます気配はなかった。フサインは絨毯の上に男をころがしてしまうまで、無言で作業をつづけた。
宴とは別の次元にあるかのような、異様な静けさの中に男は身をよこたえた。
天幕から出てゆこうとする前に、フサインはアーミナをじっとみつめてから抱きしめた。さらにアーミナは額へのくちづけを許した。かれはもう一度、つよくアーミナを抱きしめたあとで天幕を去っていった。
フサインが去った後に、アーミナはランプに灯をともした。
小さな灯は天幕の内側の闇をほんのりと照らしだした。
物音は止んでいた。隣からルカイヤとハリムの寝息すら聞こえてきそうなほどに静かだった。
アーミナはランプをかざして男の体に近づけた。
無数の赤い傷跡。身体中に走る醜いみみずばれがアーミナに息を呑ませた。もしもかれに意識があるなら、叫び声をあげているだろう。これは鞭の痕なのだろうか。だとすれば、何十回もふりおろされたのに違いない。
痛々しい体を見つめた後、アーミナはさらに努力してランプの灯をうごかしていった。
光がゆっくりと男の上を這ってゆき、顔をとらえたとき、ランプは下に置かれた。ふるえるゆびでかわいた血が黒くこびりついた髪の毛をかきあげる。アーミナのものよりずっと明るい色をした髪。
その下に隠されていた疲れた顔を見て、アーミナは胸に熱い想いがこみあげてくるのを感じた。
水面に映る姿そのままに、かれはそこにいた。
アーミナのゆびは、いま、かれに触れているのだった。