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 婚礼の宴は終わりに近づいていた。
 酒気をおびた人々はすでに正気を失い、眠りの淵へと沈んだものもいる。焚火はひとつまたひとつと姿を消し、沙漠の闇がすぐそこまで迫っていた。
 ティルミサーウのウスマーンは上機嫌だった。長らく旅に出ていた弟のマスウーディーが一刻ほど前に訪ねてきたためだ。ハルクとウサイダの族長を交えての歓談の席は、一見なごやかな時をかさねていた。
 ウサイダのフサインは父親の笑顔にけちをつけまいとかれなりに懸命だった。
 アーミナの了承を得たとうちあけると、ウスマーンは陽に焼けた鞣革のような顔をしわくちゃにして「よくやった」とひとこと言った。
 高齢になってからようやく得たひとり息子を溺愛しているウスマーンにとって、フサインが堅実で立派な男に育ったことは自慢であり、誇りであった。どこの娘だろうとフサインを気に入らぬはずはないのだから、この縁談がうまくゆかぬ道理はないのだ。かれの息子は成功して当然なのである。
 だが当のフサインは浮かぬげだった。
 杯を幾度もあおり、無理に心を落ち着かせようとするかのように踊り子の舞に気をとられているふりをした。同席している者たちはかれの様子に気づくこともなかった。常日頃から無口な人間がいつものとおりにふるまっているだけなのだと、そのように受けとめていたのだ。
 かれにとってもその父親にとっても、これは多分、よいことであったろう。
 フサインはときおり、人の目を盗んではティルミサーウの天幕をうかがった。
 昨日までの幼なじみのアーミナは、今宵からは許婚者となった。フサインは初めて彼女の華奢な身体を腕に抱きしめた。やわらかな感触とほのかな芳香が、頭の芯を痺れさせた。
 あのことばがなかったなら、フサインは幸福の絶頂にあったであろう。かれが想うほどにアーミナの心がかれを欲しているわけではないことは、とうに承知のことだった。
 それでも――。
 フサインは何杯めかの杯を空にした。
「ここに座ってもよろしい?」
 つい先程まで宴の中心で艶やかな舞を披露していた踊り子が、かれを見おろして微笑んでいた。
 族長たちは大喜びで美女のために席を空けた。踊り子は艶やかな笑みを唇にのせて礼とともに腰をおろした。
 女と目があい、その美貌に少なからず驚いたフサインは視線をそらそうとした。
 女はそんなかれを見ながら微笑んだ。婿然と。けして親しみや善良さを感じさせない、背筋の凍るような笑みだった。
 空恐ろしさに身すらかわしたフサインの背に、踊り子の媚をふくんだ甘い声が聞こえてくる。
 宴に呼ばれたことへの型通りの礼ですら、魅力的な声と姿のためにそれだけはとらせない。族長たちは率いる部族に有意義な取り決めを終えたばかりで非常に機嫌がよい。美しい踊り子をかたわらに侍らせて、酒焼けした年季の入った顔をだらしなくゆるめている。
 踊り子はティルミサーウの族長とマスウーディーの間に、薄い面衣を被ってしどけなく横ずわりをしていた。豊かな肢体を薄ものの下に隠してはいたものの、身じろぎするたびにうごく優雅な布の皺があらわにする曲線と匂いたつ薫りは女のものにまぎれもない。
 舞うことにより男たちの目を釘づけにした女は、わざと欲望を煽るかのように笑い、唇を酒で湿らせ、肩にすりよった。
 陶然としながら酔いつづける席にあって、フサインだけが華やかで冷たい女から距離を置いていた。視界から踊り子を切り離す。それには背を向けていればよい。
 けれど声を追うことは止められぬ。
「私、街で聞いてきたんですよ。旦那さまは大変なものをお持ちだってね」
 ねっとりとからみつくように、女は意味ありげに言う。新しい話題にウスマーンはおもしろそうに訊ねかえす。
「たいそうなものとは、どんなものかね」
「人づてにね。伝説の竜の目玉、それをティルミサーウのウスマーンが後生大事に抱えていると、そう聞きましたわ」
 伝説の竜とはここよりはるか北の山脈にかつて存在したという竜王のこと。その眼窩よりえぐりだされた眼球は結晶して水晶の珠となり、その内には不思議で強大な力を秘めているという。それは古い言い伝えだ。
「わしもおなじことを聞いたぞ、兄者」
 マスウーディーがうっそりと横から口をはさんだ。
「だが、それほどのものとは思わなかったが」
 ことここまでうながされて無視をきめこむこともできなくなったのか、ウスマーンは重い口をひらいた。
「確かにわしは水晶球をひとつ、持ってはいる。だがそれは伝説などと関係はないし、竜の目玉なんぞでもない」
 ウスマーンは何気ないふうを装って、顎髭をしごいた。踊り子は落ちつかぬげな男のまなざしに妖しげな一瞥をおくると目を伏せた。
「街ではそりゃあ噂になっておりましたのよ。〈竜の瞳〉といえばそれひとつあればなんでもできるお宝とか。望んだところで手に入るようなものじゃございませんもの。ひとめなりとも拝ませていただけるのではと期待しておりましたのに」
 がっかりしたようすは踊り子の美しい身体全体にあらわされており、その場の空気さえもが影響を受けていた。
 フサインは踊り子の〈竜の瞳〉とよばれる水晶球への執着をはっきりと感じとり、おなじ感触を婚約者からもうけたことを思い出した。
 ウスマーンは苦笑しながら杯をかたむけ、唇を湿らせた。マスウーディーは兄のもったいぶった態度になにかを嗅ぎつけて追求する。
「その水晶球とやらの来歴をお聞かせ願いたいものだな」
 弟の関心にウスマーンはかすかに迷惑そうな笑みを浮かべた。
「…来歴というほどのものはない」
「またまた、そうやってごまかさんでくれよ」
 にやにや笑いつづけるウスマーンはいっこうに水晶球について話しだそうとはしなかった。口の端にのせることでだいじな宝物を失うまいとしているかのようだ。あたかも、それが苦労の末に手に入れた情婦であるかのように。その頑なさは、けして他人に触れさせないと思いさだめているかのようだった。
 フサインは、ウスマーンが水晶球を先日の掠奪行で手に入れたことを知っていた。みずからの武勇を得意げに話していたウスマーンが、水晶球のこととなると魂を吸いこまれたもののようになるのを、驚きとともにながめていたのだ。あれほど熱心に水晶球の魅力について語ろうとしたのは、おそらくフサインが興味を示さずに聞き流していたからであったのだろう。
 〈竜の瞳〉がどれほど美しいものであるにせよ、フサインにとってはただの石だった。それで腹がふくれるわけでもなく、のどの渇きを癒すわけでもない。
 かれはアーミナがさまようように天幕から歩み出て、酒樽のほうに進んでゆく姿を闇の中で認め、胸の痛みを覚えた。
 彼女がいま、なにを思っていようとそれはかれのことではない。アーミナの心はいつもフサインを素通りしてしまう。
 水汲み場で会えば桶にはられた水面に、宴で会えばウスマーンの水晶球へ、夜空の下では星々や月の影に、アーミナは注意をかたむけている。
 それでも時にはまっすぐにかれを見かえしてくることもある。そんなときには黒い瞳のなかにかれへの期待が見えるような気がすることもあった。今晩はまさに、そういうときだった。たしかに途中までは、そうだったのだ。
 アーミナの瞳に自分の姿が映り、かれの心は舞いあがった。アーミナはとうとうかれを注視するに値する人物として認めてくれたのだ。そう思い、心は踊った。事実、アーミナはそうしたがっていた。フサインを凝視めようと努力していたのだ。
 ふたたび天幕へと戻るアーミナのうしろ姿から無理に視線をそらしたフサインは、踊り子がおなじものをじっと見つめていることに気づいた。めつきは厳しく、ほとんど睨みつけているように見えた。瞳がたたえる感情にフサインは寒気を感じた。
 憎悪。
 そこには憎しみしかなかった。


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