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 ちりちりと灯芯の燃えている側で、シャリフは痛みをこらえながら辺りをうかがっていた。
 婚礼の宴に酔うティルミサーウの人々。族長のウスマーンのもつ水晶球。それらの存在が痛みに磨ぎすまされた感覚に、たしかに捉えられる。
 もはや迷うべきときではない。
 機会はすぐ隣にあった。失ったものをとりもどすべきだ。
 頭痛は眼の奥から血流のなみうつがごとくに響いている。体内で燃えさかる炎が欲している。
 穿たれた穴が欠けた眼球を望んでいる。
 生命の根源が叫んでいるのだ。狂おしい声で、竜が叫んでいる。
 この声の前ではなにもかもが色を失う。
 眼を失った衝撃は、憎しみとなってすべてのものを焼きつくした。ありとあらゆる形あるものを舐めつくしてゆく赤い焔のなかで、ひとり女が笑っていた。
 かつて愛を捧げた女。かれを嗤って踏みにじり、傷つけてなお、愛されていると疑わなかった、裏切りを知って逆上した女が、ゆらゆらとゆらめく焔の中で勝利に酔いながら笑っていた。あおのいて倒れた若い娘の喉笛にとどめの剣を突き立てて。
 シャリフはランプの明かりにうかびあがるアーミナの姿をそっとながめた。
 遊牧民の娘はまるで置物のように身動きひとつせず、かれから眼をそらして坐っている。宴の席から果実酒をくすねてきて、喉にうるおいをあたえてくれたのは先程のことだった。
 それからは天幕のなかには自分ひとりと思い込もうとしているのか、かれの存在を無視したように黙りこくっている。平然としているように見えるが、細い肩や背中がかすかにふるえていた。アーミナはシャリフに全身の神経を集中させていたのだ。
「アーミナ」
 シャリフの声はアーミナを飛びあがらせた。彼女はふりむいて、瞳でものを尋ねた。黒い瞳があらわしているのは、かれの口にすることばをひとことだろうと聞き漏らすまいという決意。それはまるで、昔かれが腕に抱き、守ってやりたいと思った娘の瞳のようだった。
「宴は終わったのか」
「……ええ」
 ためらいがちの声よりも、頷きのほうがはやかった。
「ウスマーンの持っている宝物は、どこにある」
 シャリフは上体を起こそうとした。胸を冷やしていた布がずり落ち、アーミナのしなやかな手が拾う。顔をあげると男の顔がすぐ側にあった。
「ウスマーンはあんたの親父だろう」
 アーミナは返事をしなかった。黒い眼を見ひらいて、ただシャリフを見つめている。
「宝物はどこだ」
 押し殺された声が訊ねる。手を娘のくびにかけてひきよせる。やわらかい喉は小刻みにふるえていた。シャリフは知っていた。アーミナは怯えているのではなかった。
 身体からたちのぼる芳しい香気が、ふたたびの幻覚を呼び起こそうとする。
 真っすぐに凝視める瞳に感じる強さ――信じられないほどの熱さ。すこしもゆるがずかれの邪眼を見つめている。触れずともわかる。かれはかつてもこの瞳に凝視められたことがあった。おそらく、忘れ去られた記憶の彼方で。
 アーミナはみずからのくびにかけられた手に、ほっそりとしたじぶんのそれを重ねた。喉を押し潰そうとするゆびをとりのぞこうとするのではなく、そっといたわるように触れてきた。
 シャリフのゆびの腹に娘の喉のうごきが伝わる。ひきつれた筋肉のうごき。震動は声に変化する。
「水晶球は」
 あかい唇がわずかにひらかれる。
「水晶球は父の天幕よ」
 シャリフはアーミナをつよく凝視めた。彼女は繰り返した。
「〈竜の瞳〉は父が持っているわ」
 こめかみがびくんとふるえた、
 息をすることもできず、シャリフは手に力をこめた。アーミナの顔が苦悶にゆがむ。はっとなって、かれは手をはなした。
「その天幕はどこだ」
 アーミナは一度も視線をそらさずにいた。かれの心の奥底を見透そうと、かれの望みを知ろうとして、じっとかれを見つめていた。ランプの光が反射して黒い瞳は神秘的に輝いていた。
 そうしているあいだにも痛みが波のように頭によせてきた。鈍痛は次第に刃で切られるような痛みに変化して、さらにつよく激しくなっていく。
 シャリフは歯をくいしばって耐えた。この痛みはあの時の痛みなのだと、わけもなく考える。
 生命の次に大切な、魂とさえ言いかえられる眼を奪われたときの、これは痛みなのだ。
 追体験する痛みに、二度目の慣れなどというものはなかった。かれは痛みがひいてゆくのをただひたすらに待った。
 気がつくと、シャリフは先程とおなじ姿勢のまま、アーミナとむかいあっていた。
 眼窩の痛みが消えてみると、身体の痛みが甦った。顔をしかめたままあげると、身をのりだした娘が気配をうかがっていた。
「――大丈夫?」
 おそるおそるの気遣わしげなことばが神経を逆撫でる。
「あんたになにがわかる」
 この身をなにが蝕んでいるのか、痛みにがんじがらめにされてのたうつことがどれほど辛いものなのか。
 怒りにまかせて吐き捨てると、アーミナは唇を噛んですまなさそうに身をひいた。シャリフはこめかみを押さえたまま背をむけた。
 後悔している自分さえもがいらだたしい。この期に及んでこんな感情をもてることが奇妙だった。こんな痛みを理解できるものがいるはずがないのだ。かれは正しい。アーミナはかれの心に踏み込みすぎる。わずらわしいことだ。なのになぜ、こんな思いを抱かねばならない。
 理不尽なふるまいに文句ひとつ言わないその態度が、さらなる違和感をもたらした。なにゆえ、彼女は狙いが水晶球だと見抜いたのだろう。
「――わたし…」
 重苦しい沈黙の後でアーミナがなにかを言いかけたとき、天幕に近づいてくる音が聞こえた。
 シャリフはアーミナを制した。
 足音はやはり近づいてくる。砂を踏みしめる規則正しい音。アーミナも意味がのみこめたらしく身体を硬くして音が近づいてくるのを待ちうけた。
「アーミナ」
 天幕のすぐ側までやってきてとまった足音の主は、辺りをはばかる低い声で呼びかけてきた。
 声音に心当たりがあったらしい。呼ばれた娘はすぐに立ちあがるとシャリフを見た。黒い瞳は懇願するように、つよくかれの青い瞳を見つめた。
「アーミナ」
 一途な視線でさらにかれを見つめ、娘はそれから一瞬ののちには背を向けていた。かれの脳裏には焼きつけられたようにアーミナの瞳が残った。
「待って。なかへ入らないで」
 垂れ幕のむこう側にぬけたアーミナの声が、幾分くぐもって遠くなる。めくれあがった布の隙間から垣間見えたものは、浅黒い顔をした遊牧民の若者の姿だった。
 シャリフは顔をそむけた。青い瞳を見られなかったことは確かだ。若者の顔にはシャリフを見た瞬間にもなんの表情も浮かんではいなかった。すくなくとも恐怖や驚きといったような感情は。
「フサイン――お願いよ――」
 会話はきれぎれに聞こえてくる。
 お願いよ。ここからうごかないで。
 金縛りにあったかのようにこわばる身体を、シャリフはゆっくりとうごかした。ゆるやかになりつつあった頭痛が、血の流れとともにどくどくとひどくなる。
 ここからうごかないで。
 立ちあがる。
 筋肉がつっぱり、膝ががくがくとふるえた。からだのバランスをとるのがひどく難しかった。それでもかれは立ちあがろうとした。
 ようやくひとりで立っていられると感じられるときがやってきて、かれはあたりを見渡した。
 天幕は女の住居でかれの役に立ちそうなものはほとんどなかった。装身具のおさめられた宝石箱も、高価な香の入った透かし彫の香炉も、いまは用がない。
 シャリフはクッションの影に立てかけてある細長い影に目をとめた。近づいて手にとってみると護身用の剣だった。こまやかな細工のほどこされた鞘から刃をぬき放つと、ランプの光を反射して硬質な輝きが眼をうった。
 シャリフは刃の具合を確かめるとすばやく鞘に収めた。手応えはかるいが切れ味は鋭そうな剣だ。
 踵を返そうとして、一瞬、空を睨む。
 黒い瞳にこめられた願いが意外な強さでかれをひきとめた。娘はなにも言いはしなかった。口にだしては。だが、シャリフはうごきをとめた。
 お願い。
 アーミナのものであってアーミナのものではない声が、シャリフであってシャリフではないものへと訴える。
 過去の一瞬。甦るのは苦痛と屈辱と憎悪だけ。他の一切は無意味だった。すべて捨ててしまえる。この灼けつく痛み以外は。
 シャリフは天幕から音もたてずにしのび出た。
 水晶球のあるというウスマーンの天幕を求めて、かれは慎重に歩みはじめた。体内を流れる血液のようにひろがってゆく、燠にも似た熱い痛みを堪えながら。


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