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天幕のなかには香がうっすらと漂っていた。
昼間の太陽にくらべればささやかすぎるランプの光が、女のゆたかな肢体を闇からうかびあがらせていた。褐色の肌に漆黒の髪がまといつく。女体のほんのわずかな身じろぎさえもが、頭の芯が痺れるような感覚を喚びおこした。
わずかな衣のみを身につけた妖艶な踊り子は、濡れた赤い唇に男には理解しようのない微笑をのせている。
マスウーディーは踊り子の足指の先から顔までをゆっくりと這うようにながめていった。旅まわりの芸人とは思えないほどの洗練された艶やかさは、踊り子自身の女の匂いによって消し去られてしまう。男の性をもつものの眼には踊り子は女としか映らぬだろう。腕を捕え、組みしいて乱暴に縛りあげる自分の姿が、脳裏から離れなくなる。踊り子の悲鳴と涙が渇きを癒してくれるだろう。そんな妄想がしらぬうちにかれらを支配してしまう。欲望を刺激する挑発的な存在――マスウーディーは女に顔だけの笑みを見せ、側にくるように促した。
踊り子は爪先立ちで近寄り、マスウーディーのかたわらで腰をおろした。衣の下から甘い香りが立ち昇る。女は男に身体をすりつけた。肉付きのよいやわらかな肢体が小刻みにふるえる感触。
「……旦那さま」
踊り子は鼻にかかった甘え声をだした。マスウーディーは彼女のほそい肩をつかんでひきよせる。
「ウスマーン様のお手元の水晶球が、まこと〈竜の瞳〉であるのなら――」
「〈竜の瞳〉であっなたら?」
マスウーディーは踊り子の身体のまるみに大きく武骨な手をすべらせながら聞きかえした。女は小さなうめき声をあげて男の腕にしがみついてきた。
「もしそうなら…すぐに手放されるようにご忠告なさったほうが――あのかたの御為――」
なめらかな肌に触れたまま、マスウーディーは手をとめた。踊り子は愛撫が気のないものになったことに気づき、顔をあおむけた。かすかにひらいた唇から、赤い舌がちらりとのぞく。
「なぜだ」
すでに知っていることを訊ねる低く太い声に、隠された動揺を嗅ぎとり、女はかすかに笑みをうかべ、ほそいゆびを男の厚い胸板に這わせた。
「竜は魔に属する生きものですわ――あれは悪霊(ジン)とおなじものでできているのです。悪霊憑き(マジュヌーン)の眼を見たことがありまして?」
女の手は男の肩から首筋をたどり、両側から顎をはさんだ。マスウーディーは真正面から黒い瞳を見据えた。欲望に潤む瞳を凝視しながら、その顔は忌まわしい記憶を思い出してしまった者の苦々しさにこわばっていた。
「〈竜の瞳〉は悪霊憑き(マジュヌーン)の眼とおなじ」
踊り子は男の顔にみずからの顔を近づけた。
「あれは恐ろしい邪視。禍をもたらす凶眼。ウスマーン様を――」
マスウーディーは踊り子のからだをまさぐりながら、兄のことを思った。
かれは後悔していた。無理を言って兄の機嫌を損ねたからではない。兄の瞳のなかに狂気の昏い炎をたしかに見てしまったためだった。
それがあの水晶球に因のあることであるのかどうかはわからない。だがウスマーンの狂気は、街で出会ったあの若い盗賊の邪眼のなかにひらめいた危険な輝きに酷似していた。
「〈竜の瞳〉は危険なもの――あれを手元に置くことは、邪視に凝視められるのとおなじ」
そうだ。凝視められると背筋の凍る思いがする。
「お願い――ウスマーン様におっしゃって――だんなさま」
「人の言うことなど、聞いたためしがないのだ」
マスウーディーは荒い息の下で声をしぼりだした。踊り子はがっしりと掴まれた腰を支点に身をくねらせながらのけぞった。白い喉がひきっれ、汗が首筋をつたい落ちる。
男の顎髭にくちづけながら、女は囁いた。
「そんなこと――生命を失うことにくらべれば、なんでもありませんわ」
熱い息とともにつたわる瞬きに、肌がそそけだった。女の匂いはかすかな香の薫りと混ざりあい、不安に微妙に男の肉体にからみついた。ゆっくりと。ゆっくりと。
女は――いまは踊り子である女は、肉厚の唇にあわせていた自身の唇を離して目をひらいた。
マスウーディーはおのれの上に凍りついた女の顔を見いだした。踊り子の媚態を捨て去ったひややかな美貌を。見たとたんに絶命した。
みずからの怒りに歪んだ顔を両手で覆い、踊り子は身体をふるわせた。
この男を選んだのは間違いだった。他に選択の余地がなかったとはいえ。
ころがっている男の骸は確実に女よりもふたまわりは大きかったが、すでに醜悪な塊でしかない。不様な、なんという不様な存在。
二度目の悲鳴を聞いて女は立ちあがり、絨毯の上にちらばった衣を身につけた。
声は水晶球のもとからやってきた。彼女の竜が、すぐそばにいる。
女は天幕から飛び出し、族長の天幕へ行く途中でもう一度、叫び声を聞いた。