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 ひと突きめは頸。
 身体をねじってよけられたせいで、首筋を剣の先がかすった。
 傷は深くはなかったが、血管を傷つけた。赤い血が勢いよく噴きでて、飛沫が天幕の一面を朱に染めた。
 ふた突きめは胸。
 身体のバランスをくずしてはいたが、ティルミサーウの族長は無抵抗ではなかった。幾度かの反撃を試み、かれに多少の打撃をあたえることにすら成功した。剣は男の胸を突き刺した。それでもそれは急所ではなかった。刺さったのは心の臓のある左ではなかった。手応えはあったものの抵抗はさらに激しさを増した。
 み突きめは左胸。
 シャリフは肩で息をしながら傷だらけで血まみれの死体の前で膝をついていた。心臓に剣を突き立てられたウスマーンのまわりでは、さまざまなものが散乱し、所有者の返り血を浴びていた。
 ランプが凄惨な殺人をあばきたてていた。シャリフはぬるぬるとする両手を明かりにかざしていた。ウスマーンの血がかれを冒していた。


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 闇のなかにうかびあがった天幕のなかへ痛みに導かれるままに踏み込んだとき、ふりかえったのは恰幅のよい中年の遊牧民だった。驚愕と恐怖にこわばったその男がウスマーンであるとわかったのは、太いゆびでしっかりと水晶球を抱いていたからだった。
 ひとめでわかった。それが眼だということは。
 ウスマーンはシャリフを拒否した。シャリフはつめ寄り、要求したが、ウスマーンは拒絶した。
 ウスマーンの眼には狂気が宿っていた。水晶球を抱えたまま、偃月刀を鷲掴みにして斬りつけてきた。鋭い刃はシャリフの頬の皮を裂き、血液が流れた。ランプの割れる音が響く。水晶球に巣食われた者の血走った眼が、憎しみとともにかれを睨む。
 シャリフはその瞳に、燃えひろがる炎を見ていた。男に刃物を突き立てている間にも炎は視界を侵していった。血液とともに炎がかれの脳裏を赤く染める。これは狂気なのか。幻覚なのか。
 気がつくと水晶球はたおれた男の手からこぼれおちて、火の燃えうつったクッションの横に転がっていた。
 唾をのみこみ、肺から息を吐きだす。透明な球面にゆらめく炎を映して、かれの望みはそこにあった。
 シャリフは左手を前についた。
 身体をのばし、少しずついざりながら近づいた。
 すべての物音が消失し、息を殺してかれを見守っていた。血にまみれたふるえる手をのばし、球の硬くなめらかな表面にようやく触れたとき、至福の満足感がシャリフの胸をみたした。
 たしかにこれはかれのものだった。
 失って長い歳月が過ぎたが、身体はまだ覚えている。
 シャリフは眼を閉じ、息を吐きながらまたひらいた。
 瞬間。目の前の炎が膨れあがった。
 命を得たかのように燃えさかる炎。
 そのむこうにアーミナを見て、シャリフは炎を抑えこんだ。周囲の火の勢いは弱まった。焦げた絨毯の上に惨状があらわれる。
 アーミナは踊る火のなかで立ちあがるシャリフを無表情のまま凝視めていた。
「アーミナ、これは――」
 アーミナの後にいた遊牧民の青年がおし殺した声でつぶやき、シャリフを見て絶句した。
 その後のことばを待たずにシャリフは天幕をぬけ出した。
 とたんに抑えられていた火勢が増した。炎は人の背をしのぎ、渦を巻いた。アーミナはフサインに腕を掴まれて無理やりひきずりだされた。
 ティルミサーウの族長の天幕をつつみこんだ炎は、近くにたてられていた他の天幕に移りはじめ、宴の疲れにまどろんでいた人々を恐慌に陥れた。かれらは突然の災難に混乱して右往左往した。
 焼けくずれる天幕をぬけ出したアーミナは、逃げまわる人々のなかに踊り子の姿の見えないことに気づいて、フサインにしがみついた。
「あの女は。踊り子はどこ」
「踊り子がどうしたって?」
 わけがわからずにいるフサインは、気を落ち着かせようとアーミナの肩を抱いた。とりみだし、焦ったようにあたりを見わたすアーミナは、火事と父親のことで動転しているのに違いない。
 アーミナは自由を阻害されたことにいらだって顔をゆがめ、フサインをふり払った。燃えあがる炎に赤く照らされた沙漠のむこうに、駆けてゆく人影を見て走りだそうとする。
「どこへいく」
 フサインはアーミナの腕をとらえて引き戻した。逃れようとしたが、今度は若者に隙はない。
 あらがうアーミナにフサインは怒ったようにもう一度訊ねた。
「ウスマーンが死んだっていうのに、どこへ行くんだ」
「はなしてよ。だめなの。いま行かせたら、死んでしまう」
「アーミナ!」
「殺されるのよ。あれを、水晶球を持っていかせたら、あの人は殺される」
 アーミナはフサインの胸を押しやろうとし、拳で叩きつづけた。ぶつけられる拳に閉口してフサインは細い手首をつかみ、娘のうごきを封じた。華奢な身体を抱きすくめようとして、そこではじめて、かれは許婚者が涙を流していることに気づいた。
 炎の紅に照らしだされる思いつめた顔は、かれの知っているアーミナのものではなかった。
「お願い、フサイン」
 声のせつない響きが、フサインの胸をえぐる。
「……あれは邪視だぞ」
 アーミナはかぶりをふった。
「離して」
 フサインは娘の肩をつかんでゆさぶりたかった。気でも違ってしまったのか、おまえは夢を見ているのだと、宣告してやりたかった。黒い瞳の真摯な輝きは、だが、それを許さなかった。かれはアーミナを睨んだ。
「おれが行く」
「フサイン!?」
 娘の身体をつよく反対方向へ押しやって、フサインは駆け出した。
 かわいた風に煽られてさらに膨れあがる炎が、闇に沈んでいたはずの大地をうかびあがらせている。
 遠くに見えた人影との距離は少しずつではあるものの縮まってきた。そして死にものぐるいで駆けているうちに、フサインは男のものであるうしろ姿をはっきりととらえた。
 シャリフはただやみくもに前へ進もうとしてもがいていた。
 一歩踏みだすたびに地面に倒れこみそうになりながら、それでも必死で手足をうごかしつづける。
 掌のなかのずっしりとした手応えがかれに勇気をあたえていた。
 炎のなかで見たアーミナの黒い瞳に感じたどうしようもない喪失感ですら、仕方のないことと思えた。この水晶球を取り戻すためならば。
 眼球を失った竜は炎をあつかえぬ。
 だが、とうとう取り戻したのだ。魂たる眼球。不当に奪われたかれ自身の一部。
 灼けつくような渇望は癒された。竜はいにしえにありし全き姿を取り戻したのだ。
――それはどうだろう
 頭のなかで聞き覚えのある声がはじけた。
 と同時に、背後からなにががぶつかってきた。
 全身に衝撃を受けて、シャリフは大地に叩きつけられた。痛む身体を半回転させて立ちあがろうとする間もなく、拳を胸に受けた。かれは咳き込み、よろめいた。
 かれを殴ったのは遊牧民の青年、アーミナの後に立っていたあの男だった。
「悪霊憑き(マジュヌーン)め、盗んだものをかえせ」
 言いおわらぬうちに拳がシャリフの左頬に入った。顔がねじまがったかのような痛みとともに足から力がぬけて、立っていられなくなった。
 くずれ落ちるシャリフの掌から水晶球がこぼれる。
 視界のなかで球は地面をころがり、フサインの方へと遠ざかった。すかさず受けとろうとする相手をとどめようと、シャリフは必死に叫んだ。
「触るな!」
 のばされた腕の先で水晶球は七色に輝いた。
 フサインは手のなかの球体から発せられる光の炎を見た。
 一瞬にして眼球を焼かれたフサインは、驚愕と痛みに声もあげられずに倒れた。
 シャリフは立ちあがれぬまま、這いずりながら正体を失った男に近づいた。
 身体中に忘れていた痛みが戻っており、呼吸が苦しかった。掌が地面につかれるたびにくいこんでくる細かい石が、あたかも裸の肉に突き刺さった鋭い刃のようだ。
 水晶球はもう光ってはいなかった。それはかれとフサインのちょうど中間の砂の台座にうやうやしく置かれていた。シャリフはできうるかぎりに腕をのばして触れようとしたが、あと少しのところでゆびさきは空を掻いた。
 シャリフはため息をついた。腕をつき、潭身の力をこめて身体をひきよせる。わきあがる痛みは歯をくいしばって耐えた。そうしてようやく硬い球に触れることができた。シャリフはつつみこむようにゆびを曲げ、水晶球をつかんだ。
 視線は不様に這いつくばった男の姿に冷ややかにそそがれていた。
 シャリフは眼球を手にするとゆっくりと身体を起こして、後をふりかえった。
「ようやく見つけたのだね」
 黒髪の女は挑みかかるように言った。
「それをおよこし。シャリフ」
 その声は夢のなかのものとおなじだった。高慢で尊大なうえに限りなく魅力的な妖女の艶かしい声だ。男に愛を錯覚させる――だが、かれは拒絶した。
「これはおれのものだ。もう、二度と――」
「それは私のものだ。おまえのものではない」
 女は怒りをあらわにしてつめよった。まなじりをひきつらせ、男の主張を愚かなものときめつける。
「これはおれの眼だ。おまえにえぐりとられた」
「おだまり」
 痛みがシャリフの頭をつきぬけた。
 顔をゆがめ、身体をおりまげて痛みに耐えるシャリフの頭のなかで、痛みのことばが響く。
――おまえは私に愛を誓ったその舌で、べつの女に愛を囁いた
 ひとことひとことが針に刺されるような鋭い痛みをともない、脳裏で残響する。
――おまえは私を裏切った。おまえは私を踏みにじり、私の顔に泥をぬった
――贖え
――贖うのだ
――おまえの魂で
 声は幾千もの針と化し、激痛となって襲いかかった。
 痛みがふつりととぎれた後、シャリフはぐったりと横たわったまま、荒い息を吐きだした。
 踊り子の衣装をまとった女が近づくと、かれは瞼を半分ひらいて誇り高き妖女をあおぎ見た。
 女はシャリフの視線を受けて優雅にひざまずき、ふと表情をゆるめた。
「さあ、お渡し」
 美しい手が傷だらけの頬を撫ぜる。やわらかな肌の感触に埋もれた、いにしえの快楽の記憶が疼く。あたたかな女の手。そして熱い女の身体。甘美なくちづけとため息。過ぎる時すらわからぬ、麻薬のような夜。
 シャリフは女の手をはらいのけた。
「嫌だ」
 女のくちもとがこわばり、眼がつりあがった。
 邪険にあつかわれた手がきつくにぎりしめられたかと思うと、空を切った。シャリフが受けた衝撃はそれまでとはけたはずれに大きく強かった。
 女の手があたった瞬間、かれは水晶球をかかえて身体を縮めた。
 憎悪の攻撃は情け容赦がなく、あらんかぎりの力がこもっていた。顔の傷がひらき血が滲みだしても女は鞭のように腕をしならせ、シャリフをうちつづけた。
 痛みは刑執行人のふりおろす黒く太い鞭をはるかに凌駕していた。シャリフは気を失うまいとして両手に力をこめた。
 永遠につづくかと思われた破裂音が唐突にやんだ。
 シャリフから踊り子をひき剥がしたのはアーミナだった。走ってきたのか息がひどくあがっている。シャリフと踊り子の間に割って入った娘は、怒りと恐怖に身体をふるわせていた。
「おどき」
 静寂のなかで女の声が低く響いた。アーミナは怯えを見せまいと精一杯の努力をしていた。威厳にみちた命令に無言で抵抗を示し、瞳は無謀にも戦いを挑んでさえいた。
 踊り子は目を細め、いまいましげにつぶやく。
「邪魔をおしでない。もう、おまえの顔など見たくもなかったものを」
「触れさせないから。ゆび一本だろうと、かれはあなたのものじゃない」
 アーミナは勇敢にも一歩も退かずに宣言する。けれど娘の声がふるえているのを聞き逃す女ではなかった。
 アーミナ自身、身体のふるえをおさえられず、気持ちは少しずつ後退しているのを感じていた。
 勝ち誇り、くちびるに余裕の笑みを刷いて押しよせる女という存在に、圧迫され、負けてしまいそうだ。
 現に彼女は一度敗けている。
 遠い昔のことではあれ、アーミナではなかった過去で、女にかれを奪われているのだ。
 屈辱は刻印だった。魂に焼饅で刻みつけられた、痛みをともなう傷痕だった。
「だめ。今度は殺させない」
 アーミナが喉をふりしぼるように叫んだとき、とつぜん、周囲は光につつまれた。
 水晶球が光を放っている。
 女の驚愕した顔に気づいてふりかえったアーミナは、なかば放心状態の男の手のなかで水晶球がまばゆい光の中心にあるの目撃した。
 光は次第に、そして急激に強まり、水晶球は白熱した球体に変化していった。同時に男の輪郭が溶けはじめた。熱のせいなのか人間の姿がどろどろと溶け崩れはじめたのだ。
 アーミナは声にならない悲鳴をあげた。
 大地の上は名状しがたい熱さになっていた。すべての存在がいましも燃えだそうとしていた。
 アーミナの身につけていた衣は竜の瞳の発する白い光をうけて燃えあがった。一瞬のうちに炎は娘をも呑み込み、焼きつくした。
 踊り子は持てる魔力のすべてを身を守るためにもちいたが、灼熱の輝く焔から逃れるすべはなく、ついには娘とおなじ運命をたどった。
 抵抗虚しく火につつまれた最期の瞬間、女は渦巻く焔のゆらぎのなかにうごめく巨大な生きものを見た。
 人の殻を脱ぎ捨てみずからのエナジイを身にまとう、かつての愛人が大地の上でのたうっていた。
 朱の沙漠を空へと躍りあがり、闇を引き裂く、魔性の獣の大いなる姿。
 その身体には無数の傷跡と無数の血のすじが刻まれていた。眼窩に球はなく、赤いほむらが竜をとらえて離さない。
 五体を炎に舐めつくされながら嗤う女のかんだかい声が、大気にひきつれを残しながら夜の沙漠をわたっていった。

fine



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