首領ウマルは手下を集め、それぞれに命令を伝えた。
すでに太陽は地平へと没している。夜の帳は完全に下り、かれらを見守るのは、月と星ばかりになった。
出発前の慌ただしさの中で、シャリフはウマルの視線に神経質になっていた。
都市の中の様子は、仔細もらさず伝えてある。かれの言葉はすべてハサンが裏書きした。嘘偽りは、ひとつとして交えていない。だが、ウマルのまなざしの厳しさはシャリフの内の不安を刺激した。
信用されていないのだろうか。
ウマルの冷徹な顔に表情らしきものが浮かぶことは、滅多にない。
シャリフの目の前で老魔術師を殺したときにも、首領は眉ひとつうごかさずにいた。
シャリフ自身は、曲がるはずのない方向へぐにゃりと曲がったくびを、声もなく見つめていた。
こゆるぎもしない黒い瞳に縛られて、身動きがとれなくなっていたのだ。
かれがほんとうに悲しみに身をまかせることができたのは、つねに一緒にいた猫の死骸を見つけたときだった。
シャリフは首領の視線から身をかばうように、からだをそむけた。
疑念は頭から離れたことがない。考えずにいられるのは、忘れていられるほんのわずかの間だけだった。
ウマルは、魔術師の棲み処から拾いあげた邪視の子どもの使い道を、慎重に考えているように見えた。
シャリフは自分の生を確かなものとするために、ウマルの気配をうかがった。かれは盗賊の首領の機嫌を損ねることを恐れて暮らすことに慣れた。いまでは、習慣が生来の気質を殺していることにすら、苦痛を感じない。無論、かれは命が惜しいのだ。
「兄貴」
ハサンが周囲に気をつかいながら、そっと寄ってきた。
顔には、街を出るときから浮かんでいる表情が、消えずに残っていた。
「どうかしたのかよ」
面倒くさげに見返すだけのシャリフに、ハサンは心配そうに尋ねた。
「さっきから変だぜ」
ハサンはシャリフの青い瞳を恐れげもなく見つめている。
悪霊の眼ともいわれる青い瞳をもつシャリフに、盗賊たちの接し方は、やはり冷たかった。首領の手前、あからさまな嫌悪を見せつけることはなかったものの、親しくうちとけようとするものもない。かれを兄貴と呼ぶハサンは、希少な存在だ。
シャリフはすこし表情をゆるめて、くびをふった。
「なんでもねえよ」
ハサンはこの答えに満足しなかった。
無理もない。喫茶店でのとりみだしようを見ているのだ。いつもは冷静で通るシャリフの、蒼ざめた情けない顔を。
だが、問いただすことはせず、ただ不満そうな色が瞳にうかんでいた。
シャリフは、ウマルがこちらを凝視していることに気づいて、ハサンを追っ払った。
沙漠を吹くカラカラの風が砂と埃を運んでくる。
シャリフは目頭を押さえて、眼に入った砂をとるしぐさをした。
かれの瞳は青い。
人びとの瞳は、黒い。
それはたぶん、民族の違いからくるのだろう。
青い瞳は此処では邪視と呼ばれた。見るだけで人を呪い殺すことができる、邪悪な眼。
それが事実であったなら。
現実には、シャリフの瞳に人を呪い殺せるような魔力など、つゆほども存在しなかった。もしあれば、老魔術師が殺される前に首領を殺していただろう。
シャリフの邪視よりも、ウマルのひと睨みのほうが、何十倍もの威力があった。そんな力が実在するというのなら、ウマルの瞳の中にこそあるのに違いない。
城壁をぬけると、盗賊たちは隊商宿へとむかった。
都市は昼間のにぎわいを忘れさったかのように静まっていた。盗賊たちが身にまとう黒い上衣は、街並に溶けこんでおり、夜陰に乗じての移動も、気どられる恐れはない。
男たちの動きはすばやく、無駄がなかった。シャリフの下調べのおかげで、曲がりくねった都市の道にも迷わずに、隊商宿にたどりついた。その間中、口をきくものはだれひとりとしていなかった。
隊商宿の前に来たときに、シャリフは、ウマルがこちらに向かってうなずくのを見た。これでこの場の命の安全は確保できただろう。
ウマルは手下に、隊商宿の門を開けるよう命じた。力まかせに叩きつづけると、門番がのろのろと起きてくる。その後は、いつもの手だ。
「おい、マスウーディー様の残りの荷が到着したぞ」
シャリフが仕入れて来た名のひとつだ。この名が選ばれることは、想像できた。隊商宿に泊まっている商人の中に入っていたのだ。高価な服を身につけた、恰幅のよい男。おそらくよいものを食べつけているに違いない。
だが、マスウーディーの名を聞いたとき、シャリフは悪寒を感じ、身ぶるいした。
その名が呼び起こすものは、鋭く油断のならぬ目つきと、胸のわるくなるような幻覚だった。
「そんな話は聞いておりませんよ」
門番を照らすのは、彼自身の持つランプだけ。困惑したように、小男は目をしばたたいてみせた。
「聞いてないだと、このじじい。俺たちゃ、えらい思いをして、ようやくここまでやってきたんだぜ。それをずっと立たせとくってのかよ、え?」
「そ、それじゃ、マスウーディー様に確認をとってから……」
「そんな必要はねえって。はやいとこ、ここの鍵をあけろってば」
場数を踏んだ盗賊に凄まれて気の弱くなった初老の門番は、ためらいながら腰から鍵束をとりはずすと、鍵穴に差し込んだ。
かちり、と錠のはずれる音がした。
盗賊たちはなだれうって門の中に飛び込んだ。門番は押さえこまれ、荒くれ者の一団は、さらにその向こうへと殺到する。
闇の中、月影にうかびあがる建物は、獲物を求める男たちの前に無防備な姿をさらしていた。
黒装東の曲者の侵入になすすべもなく、宿の中は、突然の災難に驚きあわてる人びとの悲鳴や怒鳴り声で騒然となった。
ガラスや陶器の砕ける音のする中で、シャリフはハサンを従え、宿の中でももっとも大きな建物の中に飛び込んでいた。
ウマルの命令は、いちばんの豪商を人質に捕ること。身代金をいくらでもとれる、大人物を獲ってくることだった。
「できるな」
ウマルはひくい声で確認するように言った。
シャリフは唾をのみこんで首領を見かえした。まなざしの威圧感は、さらに増した。できないとは言えないのだ。かすかにうなずいた。
首領はなにを考えているのだろうか。
呼吸を制御しながら、暗い回廊を駆けぬけてゆく。
捕われてからの厳しい生活のおかげで、からだは楽にうごいた。身のこなしのすばやさではかれに勝るものは他にはいない。
ハサンのはねあがる呼吸音が、はりつめた神経を刺激する。
女奴隷のかんだかい声が、暗闇を切り裂いて駆けぬける。
大きな扉の前にやってきたシャリフは、周囲がにわかに騒がしくなってゆくのを、肌で感じとった。逃げだすことに成功した何人かが、助けを求めて大声を出したのだ。
隊商宿のまわりに人が集まりはじめると、逃亡の機会を逸することになる。
「あにき」
ハサンの声に、シャリフはふり返った。
十四の少年は、退路を断たれる恐ろしさに蒼冷め、決断を求めていた。
行くのか、それとも退くのか。
せわしない呼吸音と、間近にせまる扉が、シャリフをせきたてる。仲間の運びだすおびただしい金貨銀貨が、首領の眼とともにかれを責める。
息が苦しかった。
ハサンの視線が、喉を絞めている。
シャリフは考えようとした。
退路を断たれての死と、首領の怒りにふれての死とでは、どちらがましだろうか。
思考は背後の扉によって中断された。耳ざわりなきしり音が、沈黙をきわだたせ、緊張をたかめた。
シャリフはふり向いて、反射的に体を落とし、みがまえた。
半開きになった扉から、声が聞こえた。
「お気をつけください。いま、ようすを見てきます」
出てきた男は、黒装束の族ふたりの前でうごきをとめた。暗間に馴れた眼に、ランプの光が突き刺さる。シャリフは明るさから逃れようとして、一歩退いた。
「うわあああっ」
恐怖にかられた叫び声があがった。
「やめろっ」
ハサンの耳に制止の声は届かなかった。まぶしさをこらえて見ひらいた眼に、三日月刀をふりかざしながらとびかかってゆくうしろ姿がうつる。
刃はランプの光を受けて冷酷にきらめき、弧を描く。
中空を切ってふりかかる武器を、男はわずかなうごきでかわしきった。落ちかかる三日月刀を腕をとらえて返し、奪いとる。
剣は、もとの主人の上で反転した。
「ぐっ」
赤い液体が口からあふれた。剣を背中に突き立てられたにもかかわらず、ハサンはまだ絶命していない。膝を折り、両腕をなにかを求めるようにのばしてさまよわせ、言葉にならない声をあげた。そして、それが最期だった。
ハサンだったものは、すでに立ちつづける意志をなくし、前にのめって倒れた。
骸は、三人の男に見つめられていた。
シャリフが顔をあげると、扉ごしに部屋のなかの男が見えた。ランプの光がその顔を横から照らしだしている。深く年輪の刻みこまれた厳しい顔が、シャリフをじっと見すえている。
昼間、喫茶店で会った男は、シャリフの顔を覚えていた。マスウーディーはひくい声に憎悪をこめてつぶやいた。
「悪霊憑き(マジュヌーン)が」
シャリフは、無意識のうちに一歩、踏みだした。
ハサンを殺した男は、盗賊のうごきにあわせるかのように、一歩、退いた。
シャリフは青い眼を怒りでほそめ、歯を噛みしめた。逃げまどう人びとの声が、耳のなかでこだまする。ハサンのからだから流れでる血液は、老魔術師のからだを染めたものとおなじだった。
マスウーディーの手にあるランプのなかの炎が、街を舐めつくした、かつての大きな津波となって視界に押しよせる。
ここは、隊商宿の中だ。
足場を失うまいとして、シャリフはマスウーディーをつよく睨みつけた。
過去のどこでもない、ここは、いま、だ。
従者が身を沈めて、シャリフの懐に拳を入れようとした。
拳は、身を退いたシャリフの顎を、わずかにかすめた。
平衡を失いながらもかろうじて踏みとどまったかれは、腰のサッシュから剣をひき抜いた。
襲いかかる敵の剣をうけとめる。
金属のぶつかる音が、シャリフのぶれかかった現実をまともにした。
「だんなさま。はやく、お逃げください」
叫ぶ従者の胸に、剣が突き刺さる。心臓を突き破って、背中へ、いきおいが剣をすべらせる。
盗賊をするうちに身につけた残酷さで、シャリフはとどめを刺さなかった。四肢に斬りつけられてうごけなくなった男の身体は、ひくひくとひきつって、よじれてゆく。
シャリフは剣をひき抜いて、血まみれの切っ先をマスウーディーに向けた。
マスウーディーは、怯えも見せず、シャリフの前に立ちはだかっていた。ふたりの男の骸をまたぎこえてくる盗賊を目にしながら、表情にわずかな変化も見えない。
マスウーディーが手にしているものは、ただひとつ、ランプだけだった。
しかし、シャリフはこの男にいいしれぬ恐怖をいだかされていた。そのわけは、だれにも、当のシャリフにもわからない。
その一方で、血のついた剣は、マスウーディーのなかにいかなる感情も呼び覚まさない。すくなくとも、シャリフには感情のきざしすらうかがえない。
手のなかに、小さくはあるが絶対的な力をそなえて立つマスウーディー。獣にたちむかう人間のように、火をもって盗賊に対する男の姿に、シャリフは芯から恐怖を覚えた。
油を呑みつくし、燃えあがる炎。
男の侮蔑をふくんだ言葉は、まだよかった。
いくら罵倒されようが、悪口を浴びせかけられようが、かまわない。
それは生きることに対して払わされる、代償のようなものだ。感覚は麻痺していた。傷はついても、もう、痛まない。
「悪霊憑き(マジュヌーン)……いや、おまえは悪魔(シャイターン)か」
だから、マスウーディーの言葉で、シャリフは現実をとり戻しかけたのだ。
声にふくまれる憎しみと恐怖と怒りとが、目の前の男を人間と認識させて。
シャリフは炎から意識をそらそうとした。
炎の海――母親が溺れた熱い波間。あのとき聞こえた女の声は、いったい、なんだったのだろう。
剣を握る手に、力をこめる。
現実はこっちだ。いいか――こっちだ。
海辺の街は焼け落ちた。あの街は燃えつきた。炎は消えた、煙は立ちつくした。いまは燃えてはいない。もう、燃えてはいないのだ。
言いきかせながら、現実を歩く。
現実は隊商宿の屋根の下にあった。
現実はマスウーディーであり、ころがったふたつの死体だった。
シャリフは片方の骸を知っていた。イスファ近くの村で人質代わりに差し出された、羊飼いの息子ハサン。かれを兄と慕い、盗賊仲間の中で唯一、気軽に話しかけられる存在だった少年。
邪視の厄介者と行動をともにしたばかりに、短い生涯を終えることになった少年。
そして、現実は、盗賊の首領の命令に象徴されていた。
首領の圧力がかれを生かしていた。かれに生を実感させていた。いつ命を奪われるかもしれない恐怖を感じることは、すなわち、いま生きていることだった。
シャリフはそうして現実を生きてきた。ウマルの命令に応えることによって――かれは生きていたかった。剣は、マスウーディーを捕えようとした。
男の表情が、目に見えるほど変化した。シャリフは勝利を確信した。
ふりかざした剣の下で、マスウーディーは最後の抵抗を試みた。武骨な手が、大きく反動をつけてランプを振った。勢いが風をおこし、炎を急に大きくした。ランプはマスウーディーの手を離れ、投げ出される、
一瞬。シャリフの見る世界は、炎にみたされた。
ガラスの砕ける音とともに床に叩きつけられた炎は、瞬時にふくれあがり、寝台へと燃えうつった。布はみるまに赤い火につつまれ、マスウーディーとシャリフの間にうごめく帳をおろした。かわいた空気は火のいきおいをたすけ、ランプから生まれた炎は部屋中へと広がってゆく。
マスウーディーの意図を悟ったシャリフは、ランプの直撃からはまぬがれた。だが、炎は上衣にとびかかり、かれを薪にしてしまおうとした。
物の燃える音、ぱちぱちという破裂音が、耳元でうるさく鳴りつづけた。高く低く、姿勢をかえて。
踊る赤いはなびらの幻覚。頬にあたる熱さ。
火種の燃えうつった上衣を脱ぎすてる。布が床に舞い、わきあがる熱風。
この悪霊憑き(マジュヌーン)め!
むこうにいるはずのマスウーディーがどこにも見えない。
声だけがシャリフの耳の中で、くりかえしくりかえし、うちよせる。
炎の踊るなか、さまざまの赤がせめぎあうなかで、もうひとつの赤が視界をよぎる。
剣の柄で殴られる老魔術師のしわだらけの顔。
つぶれた果実のように、踏みにじられた死体。
柱の下で焼け焦げた女の躯。
肉の焦げるにおい。鼻をつき刺す煙。
悪夢にはとめどがなかった。
シャリフはいくつもの傷跡のために訪れる痛みに、顔をゆがめた。
生まれてこのかたに受けた傷が、いっせいに口をひらきだした。流れる血の一滴一滴には、炎の刻印が刻まれていた――災いの象徴として。
眼のない竜には、あつかえぬ。
シャリフは、どこかで老魔術師の声に耳をかたむけていた。
眼球のない竜は、炎をあつかえぬ。
それは竜にとって、命の源をあつかえぬのとおなじこと。
炎をあつかえぬ竜は、炎で滅ぶだろう。
みずからの炎でその身を焼き焦がす、あわれな不具の生きものよ――