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 けっきょく、シャリフはその場を切りぬけることができなかった。
 かれはマスウーディーの手に落ち、自由を奪われた。老魔術師の洞窟からひきだされたときのように、なすすべもなく、ぶざまな姿で、否応なしに。
 意識を失ったシャリフがほうりこまれたのは、どう見ても牢屋としか呼べない、薄汚い部屋だった。空気穴が穿たれているだけの窓がない、暗い部屋だ。
 目覚めたとき、シャリフはひどい頭痛でしばらく動けなかった。
 幻覚を見るといつもこうだった。
 頭が痛むか、胸がむかつくか――いずれにしろ、ろくなことにはならない。
 それでも意識を失うほど強烈な幻に襲われたのは、これがはじめてのことだった。そのぶん、頭痛も増しているのかもしれない。
 牢番らしき男がランプを手にやってきたときも、気分はいっこうに良くなっていなかった。後手に縛られていると気づいたのは、立て、と命令されたあとだ。シャリフはおもわず、笑みを浮かべた。生気のない、なげやりなあきらめの微笑みは、かれの顔にあらわれてから一瞬ののちに消え失せた。
 捕えられたのは、ひとり、シャリフのみだった。ハサンの死体をのぞいては。
 牢番の後について階段を上りながら――ここは地下だった。どうりで窓がないはずだ――首領の顔を思いかえしていた。もしかすると……いや、たぶん、そうなのだろう。
 地上へ出ると、いきなりの太陽が眼を眩ませた。
 空気はいつものようにかわいて、埃っぽく、そして昼の活気があった。
 シャリフは自分がひどく場違いなところにいるような気がした。それは、かれに向けられる視線のつめたさのせいばかりではなく、異端者として生きてきた年月の長さによるのかもしれなかった。
 くびに縄をかけられてひかれるという姿で、シャリフは人びとの間を通り抜けた。
「おい、見てみろよ。ほんとうに青い眼をしてやがる」
「神に誓って! はじめて見たぜ、あんなやつ」
「やめろよ。呪い殺されるぞ」
「悪霊憑き(マジュヌーン)!?」
「ほんものの悪霊(ジン)かもしれない」
 恐怖と憎悪と好奇の入りまじった、ひとびとのいやらしい視線は、はらいのけることのできないシャリフを執拗に追いつづけた。
 昨晩、隊商宿を襲った盗賊のひとりが、逃げ遅れて捕えられたこと、その男が邪視であることは、大商人マスウーディーの武勇伝とともに街中に広まっていた。
 シャリフが縄でひかれながら進む通りには、極悪人の処刑を見物しにやってきた野次馬で、黒山の人だかりができていた。なかには、恐いもの見たさか、走りよってきて本当に青い眼をしているのか確かめようとするものもいた。
 かれを人間ではないものとして見る目は、無神経でぶしつけで、そのくせ、シャリフが伏せていた眼をあげると、命を奪われかけたといわんばかりの大げさな悲鳴をあげながら逃げ去ってゆく。
 シャリフは心をうごかされた様子もなく、黙々と歩きつづけた。
 この先には広場がある。
 公開処刑と、その見物に集まる人びとのために、ちょうどいい大きさの空間が。
 そこでかれを待っているのは、法官、刑執行人、その徒弟たちだ。かれらは罪人がやってくるのを待っている。うなだれて、犯した罪に怯え、自分の死にがたつく不様な男に、刑の言い渡しをする自分を想像しながら。
 太陽がつよく照りつけ、足元に黒い影が落ちる。
 サンダルに包まれた足を交互に前へ出す。ほこりにまみれた汚い足が、一歩一歩、大地を踏みしめる。うしろにまわされた腕の痛み、肩のこわばりが、永遠につづくかと思われる。
 体重の移動につれて、からだがゆれる。からだのゆれと、視界のゆれは、同時に起こった。するどい痛みが、あたまに走る。
 悪夢はまだ、去ってはいない。
 正面に女の姿があった。夢のなかの女。
 シャリフは足をとめかけて、女の向こうに番人がいるはずなのを思い出した。同時に、女の昏い感情に触れた。
 そこにいるはずがなかった。
 人びとは遠巻きに眺めており、番人は縄をゆるめてはいない。ついさきほどまで、かれと番人の間には、何人も存在していなかった。
 足をおろしたとき、消えるかと思われた女は、まだそこにいた。
 シャリフは、自分はまだ夢を見ているのかと思った。
 番人がいて、腕を縛られて、首に縄をかけられて、これほど現実味のある現実はないだろうと思っていたのに。これも幻なのだろうか。
 頭痛は思考の邪魔になった。女の姿は近づいていた。一秒ごとに、確実にせまってくる、かれを見つめるまなざし。
 あの目は、なぜこちらを見るのだろう。女はなぜ、じっとこちらを見ているのだろう。
 昏い表情は胸騒ぎをおこさせた。
 消えてくれ。
 シャリフは、間近にせまってきても動こうとしない女に、焦りと、理由のない恐怖を感じた。
 幻なら、消えろ。
 そんな目でおれを見るな。
 思わず目をつぶった。ところが、まぶたの裏では見知らぬ女が、やはりかれを見ていた。金髪の、それでも、ひらいた目で見たのとおなじ、まったくおなじ存在であるとわかる、不吉な女。
 悪寒がはしり、肌がそそけだった。女の昏い情熱が嗅ぎわけられるほど近くを、女の魂のなかをかれは通りぬけた。
 愛しているよ。
 ひくく、不吉な、甘い声が、耳元をかすめて消えた。
 シャリフは、みずからの魂の奥底に沈んだ忌まわしい記憶が、古い傷のように疼くのを感じた。
 女の気配は後へと遠退き、それでも、まだ、消えてはいない。
 ふり返れば、見ることができたろう。
 黒い髪を白いターバンで隠し、静かに見つめる美しい顔が。
 静けさのなかにひそむ、恐ろしいまでの魔性が。
 女の瞳は語っていた。
 シャリフはその言葉を読みとるまいとした。
 読みとり、理解してしまえば、それがまたはじまりとなるのだと、無意識のうちに恐れていたのだろう。理由など、わからなかった。わかっていれば、どうしただろう。おなじことをしたのに違いない。
 シャリフはいにしえの記憶を、かれを愛する女を恐れていた。だが、それもここまでのことになるだろう。
 斬首で終わるかと思われたかれの一生は、邪視をおそれた法官によって意外にも死ぬほどの痛みとひきかえにひきのばされた。
 肉体の痛みが、かれの決心を変えた。背中をみみずばれが覆って真っ赤に腫れあがるまでの鞭うちの後、沙漠へほうりだされてシャリフはこう思ったのだ。
 自分の眼を、水晶球をとり戻すことだと。


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 目の前にまだ見えている幻をかき消そうとして、シャリフは右手を伸ばした。
 掌の下の熱い砂の感触が、悪夢の連続とさほど変わらない現実へ、ゆっくりと意識の焦点を移してゆく。
 いま太陽は坂を上っているのだろうか、下っているのだろうか。太陽が沈めば、すこしはしのぎやすくなるだろうか。体中いたるところにあてられた鞭の跡は、熱を持って刃傷のように痛んだ。
 マスウーディーの眉ひとつうごかさぬ顔は、ウマルの厳しい顔を連想させた。
 ふりおろされる鞭に耐える罪人の前に立つマスウーディーは、法官や民衆のように青い瞳を恐れてはいなかった。
 ウマルもそうだった。けっきょく、シャリフは首領の手駒のひとつにすぎなかったのだ。
 どれだけ尽くし、認められたと思っても、実際にはそれはかれの期待でしかなかった。ウマルは、いずれかれを切り捨てることを決めていたのだ。おそらくはかれを拾いあげたそもそもの始めから。この襲撃がいい機会だと考えたのに違いない。
 そして、ハサンは巻き添えになった。盗賊たちはまんまと逃げおおせ、シャリフはひとりで敵陣に置き去られた。
 炎のなかで。
 シャリフは、マスウーディーの手のなかの炎を思いだし、気分が悪くなった。
 なぜ、自分にばかりこんなことがおこるのだろう。
 激しい痛みと熱さのなか身を横たえていると、かつては信じようにも信じられなかった老魔術師のことばが執拗に浮かんできて、しまいには、夢と幻のなかで意識は混濁していった。
 薄暗く妙なにおいのする魔術師の部屋と、金色の眼をした猫との暮らし。それ以前の断片的な母親の記憶。存在のみえない父親。潰れた死体。うずまく炎。女。
 魔術師がくりかえす。
 目玉を失った竜は、魂たる炎を御すことができぬ。
 災いはふりかかるだろう。
 永遠に。
 炎は自身を焼き焦がす。
 水晶球をとり戻せば、ほんとうにこの身にふりかかる厄災はなくなるのだろうか。それが事実であるというのなら、そうだ、真実であるというのなら、これ以上なにを耐える必要がある。
 ふと、まぶたのなかの視界が暗くなった。
 顔にかかる影が、つよい陽射しをやわらげた。人の気配だ。
 シャリフは顔をあげながら目を開いた。なぜこんなに近くにやってくるまで気づかなかったのか、という思いは、影の持ち主を見たときの驚きに吹き飛ばされた。
 太陽を背にして立っていたのは、あのときすれ違った女だった。
 頭から爪先までをヴェールで覆い隠してはいる。だが、かれにはわかった。と同時に、現実的なかれは否定する。
 だから、どうしてこの女に逢ったことがあるとなどと思うのだ。
 処刑場への途中で女の魂をすりぬけたことはない。あの幻の女に逢ったこともない、一度も、だ。あれは幻覚だ。
 女は膝まずいてシャリフの顔をのぞきこんだ、熟れた果実のような顔が、ころがっているものが死体であるのか生者であるのかを確かめるように近づいてくる。
 女はシャリフの青い眼を見ると、つぶやいた。
「これは邪視だね」
 口調に嫌悪の情はなかった。シャリフは、喉からやっと声をふりしぼった。
「――みず」
 かすれた声は、途中でひび割れて老人のもののように聞こえた。女は顎に手をあてて、すこしだけ身をひいた。
「貴重品だな」
 シャリフは女を睨み、もう一度、水を要求した。が、それは声にならなかった。
 女はシャリフの様子をじっとみつめ、やがておもむろに水袋をさしだした。シャリフはひったくるようにして水袋を奪うと、口をゆるめて喉を鳴らしはじめた。
 ひんやりとした水がもたらす心地よさに、夢中になった。袋のなかのすべての水を飲みほして、かれはようやくわれにかえった。ぺしゃんこになった皮袋を見て視線を女に移すと、かの女はうすい笑みを唇の端にのぼらせてすこし離れたところに立っていた。
 悪寒を感じたシャリフは心の中であとずさった。
「ここから二ファルサフでフェズのティルミサーウの天幕に着く。今宵、そこで宴が催される」
 かわいた黄色い大地の上に、女は黒々とした影を落としている。ふりかえるようにしている瞳のなかに、かれの姿はなんとよわよわしげに映っていることか。
「生き延びたければ、這ってでもフェズにたどり着くのだね。シャリフ」
 声だけ残して、砂の舞う地上に女の姿はなかった。
 まぼろしだったのだろうか。これもまた、幻覚のひとつだったのだろうか。
 シャリフは駱駝の内臓でつくられた袋を投げ捨てた。
 フェズのティルミサーウ。
 胸の中で言葉を反芻しながら立ちあがると、よろよろしながらどうにか歩きだした。
 ティルミサーウのウスマーン。
 ウスマーンの宝物。
 喫茶店での瞬間が、シャリフの歩む方向を決定した。
 そしてようやく太陽は傾きはじめた。延々とつらなる沙漠には、足跡が残された。やがては大地をなでる風に掃ききよめられる、はかないしるし。
 暑さとそれのもたらす痛みも、すこしだけやわらぎはじめていた。


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