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3 香の匂う夢


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 水面に映る像は、夢なのだろうか。
 風が吹くたび、水鏡のかれはゆれてみだれた。
 彼女は、波紋が消えて水面がふたたび穏やかさをとり戻すまで、じっと待ちつづける。
 水面が完全な鏡となるまでに、どれだけの時間が要るのだろう。水が静止してゆがみのないかれの姿を映しだすまでに、彼女の忍耐がつき果てそうになり、あるいは邪魔が入るかして、それまでの苦労が無駄になることも多かった。
 しかし、きょうは大丈夫なようだ。
 彼女は水面にあらわれた若い男の姿を、息をころして見つめる。
 陽に焼けたせいだけとはいえぬあかるい色の髪をもつその男は、苦しげな顔をして横たわっていた。まわりは沙漠だ。なにひとつ見えない。空と大地だけの空間の広がりが、かれを圧倒している。
 かれの片腕が前へとのばされ、むなしく空をつかんだ。
 緩慢なのに妙に緊張をはらんでいるそのうごきが、彼女に唇をかみしめさせた。かれのゆびさきが震える。
 水が欲しいのだ。
 彼女はおもわず水桶に手をかけた。
 鏡は桶がゆれた拍子に破壊された。
 じぶんのしたことに愕然となって、彼女は肩を落とした。水はその波で円をえがき、縁へむかって輪を拡大していった。
 鼻先をかすめる風にひとの気配を感じとり、顔をあげた。陽の傾きかけた沙漠の夕焼けの中を近づいてくる。あの人影は、おそらく乳母だろう。
「アーミナ嬢さま」
 名を叫びながら、息をきらして走ってくる。太りすぎてからだが重いのに、すぐ無理をするのだ。
 アーミナは乳母が目の前にたどりつく前に、溜息をついて立ちあがった。


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「さ、ちゃんと鏡を見て。まがってませんね。とめますよ」
 乳母はアーミナの額から黒い髪へとかかる額飾りを、頭の後でとめつけた。
「紅はさしましたね」
 尋ねながらもう一度、髪へ櫛をいれはじめる。アーミナは片手に鏡をもち、片手の紅さしゆびにつけた紅を唇に花びらのように塗っていた。
「なにをむくれてるんです。きょうはおめでたい日なんですから、愛想をよくしなくてはいけませんよ」
「おまえが髪をひっぱるからよ。あっ」
 櫛が長い髪にひっかかり、そのたびにアーミナは顔をしかめる。乳母はおかまいなしに櫛をうごかしつづけた。
「嬢さまがそとをほっつきあるいているのがいけないんです。髪がほら、こんなにもつれて。水汲みにどれだけの時間がかかるっていうんです」
 アーミナが黙りこむと、乳母はこれ幸いと作業を大急ぎで完成させた。彼女はむっつりしたままのアーミナを前後左右から検分し、細部に手なおしをくわえて、祝いの席に出る娘の美しい姿に満足げにうなずいた。
「飾りがいがあるってもんですよ、嬢さまは。ウスマーンさまの娘のなかじゃ、まずいちばんだ。ルカイヤさまだって、足元にもおよばない。きょうの主役はあちらの方だから、これ以上にはできないけどねえ」
 乳母はひとしきり養い子の称賛をつづけたが、アーミナ本人のいまだに浮かぬ顔に気づいて、
「ほら、美人さんがだいなしですよ。きょうはフサインさまもおみえなんですからね」
と立ちあがった。
「あたしは――」
 アーミナはフサインの名にふくまれている意味に反応して赤くなった。乳母はそれを笑いながらほかにも支度があるからと、あわただしく天幕から出ていった、
 アーミナは溜息をつくと、乳母の消えた出入口から天幕の奥へと目を移した。
 乳母は、アーミナの不機嫌の原因が姉にあると思っている。しかし、それは勝手な思いこみというものだった。まったくはずれているとも言いかねたが、百歩ゆずっても遠因のひとつにすぎない。
 アーミナは手桶にはってある水に視線を移した。さっき乳母が手をすすぐのに使ったものだ。井戸から運ぶ間にまじった砂や挨はそれほど多くはなかったが、顔を彩る化粧品を洗い落とした水は、汚れていた。
 水汲みに出て一刻も戻ってこなければ、やはり不審をかうだろう。心配して捜しにきてくれたのはわかっている。乳母は実の息子を病気で失くした。いまではただひとり、じぶんの乳で育てたアーミナだけが生きがいなのだ。それを責めることなどできない。
 けれど、もうすこしほうっておいてくれれば、彼女は自分で部族の天幕に戻っただろう。
 かれの苦しみをやわらげてあげたい、喉の渇きをいやしてあげたいと、いくら思ったところでアーミナの手は届かない。かれは水面に映る幻なのだから。
 唐草文様の絨毯が敷きつめられた天幕にひとり残されて、アーミナは掌で顔を覆った。隅に置かれた香炉から漂う乳香が、広いとはけして言えない空間をみたしていた。そうやって暗闇をみつめていると、もう、ひとつのことしか考えられなくなった。
 かれは大丈夫だろうか。
 沙漠の孤独のなかで、息絶えてしまいはせぬだろうか。
 渇きと痛みにゆがむかれの顔は、水面のみだれのために輪郭すら失った。
 手をさしのべることもできずに――せめて、見まもることだけでもしたいと思ったのに。
 まだ幼かったころに、水の表面に映る影が自分のものではないことに気がついた。
 水面のむこうの世界に存在するのは、黒い髪と黒い瞳の遊牧民の少女ではなく、茶褐色の髪、青い瞳の少年で、はじめて水をのぞきこんでからこの事実にたどりつくまで、アーミナはかれをみずからの姿だと考えていたのだ。
 自分とあいての違いに気づいたのは、いつのことだったか。
 その驚きは、なかば歓喜にちかいものだった。
 それから彼女はひとつずつ歳をかさね、水面のむこうの少年も、おなじように成長していった。
 少女のからだの線はまるみをおびて、成熟した女のからだに近づきはじめ、少年の背は伸び、肩はがっしりと逞しくなっていった。
 かれは生きているのだと、アーミナは悟った。
 否。
 そんなことははじめから承知していたはずだった。記憶をどこかに置き忘れてきただけなのだ。
 そしていま、少女は娘に、水面の少年は若者に変化していた。
 アーミナはみつめる。
 かれの瞳の色、光を映しての輝き。乱暴に腕をふり、肩をすくめるしぐさ。大きな掌、ながくしなやかなゆびのうごき。ひるがえる黒い上衣。
 水汲みに通う井戸の端で、水桶のなかにかれの感じる熱風がふき、ひとから隠れた天幕の水瓶のなかに、見知らぬ土地の風景が広がる。
 風にゆれて壊れるはかない光景に魅せられて、アーミナの黒い瞳はかれを追った。
 おお、アーミナ。
 おまえはなにをしているの。
 だれもいない天幕の中で、ひとり水面をのぞきこみながら自分に尋ねるこの問いに、後ろめたさを覚えつつこたえることはせずにきた。それをしてしまえば至福の時は消え去ってしまうのではと、おそれていたのだ。
 そして今夜、一族すべてを盛大な祝宴にまきこんで、姉が嫁ぐ。
 日没は、彼女の気分を昂揚させるとともに滅入らせもした。飾りたてられた自分の姿が、誇らしいのと同時にいらだたしく思えるのと、おなじ理由だった。

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