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 宵闇とともに、ティルミサーウのウスマーンの天幕にはひとが集まりはじめた。女たちは色とりどりの服と装飾品を思い思いに身にまとい、男たちはしばらくぶりの旧交をあたためあい、口々に祝いのことばを述べあった。
 あちらこちらにできる人の輪に、ランプのほのかな光が闇ににじんだ。
 日没と同時に乾いた大気は冷えはじめる。焚火の煙が、濃紺の空を黒く焦がしてゆく。月の光と星々は、ふたつの部族の結びつきを祝福するようにかろやかに瞬き、沙漠の地を照らしている。
 婚姻の契約をむすび終えて、正面の天幕からあらわれた花嫁の姿は美しかった。すこしばかりの緊張によって青ざめた顔は、むかえる歓喜の声でしだいにほぐれてゆき、いまや頬は嬉しさで薔薇色にそまっていた。彼女のしぐさは上品でういういしく、かたわらの新郎からほこらしげな微笑をさそいだしていた。
 ハリムはウスマーンから要求された莫大な婚資金に気を悪くすることさえ忘れているようだった。かれはルカイヤのあとから新妻の一挙一動をじっとみまもりながらついてきた。そして、ふたりが祝宴の席にたどりつくと同時に、女たちの鳥のさえずりのようなサガーリードがやんだ。
 バンディーラの鈴の音が、どこからともなく響きわたった。
 人びとの注意は、闇の虚空に浮かんだ火にむけられた。景気づけによばれた旅芸人の余興が始まるのだ。
 バンディーラの音にからみあうように、リズムをとる太鼓の音が聞こえてきた。ウードのひびきが、華やかさをそえる。炎の影で、周囲がすっかり暗くなったことさえ、忘れさられているようだった。
 アーミナは、祝宴の席をひとり離れたところから眺めていた。
 姉のつきそいを終えてから、彼女は天幕の影でウサイダの族長の姿をみつけた。今日の婚礼はティルミサーウとハルクのあいだのもので、ウサイダに直接関係はないはずだった。たぶん、フェズの東の勢力ふたつの結びつきを見せつけて、西のウサイダにある決断をせまるのが族長ウスマーンのねらいなのだろう。
 ウスマーンは本心ではハルクよりもウサイダを望んでいた。そしてアーミナは自分の役割をはっきりと認識していた。彼女は姉の果たせなかったことを期待されている。しかも、それは彼女にとって難しいことではなかった。
 じぶん自身の感情を無視することができさえすれば。
 いま、父親のウスマーンはハルクの族長からウサイダのそれへと話の相手をかえていた。夜を迎えしかも遠目ときては、表情を追うことすら難しいが、雰囲気は悪くはない。
 アーミナはウサイダの族長の横にフサインを見た。白い衣装で浅黒い身体をつつみ、手には杯を捧げもっている。酒壺をもって移動する奴隷が赤い液体を器になみなみと注ぎいれた。フサインは液体を口にふくみ、唇をしめらせる。
 かれが顔をあげた拍子にふとこちらを見たような気がして、アーミナは顔をそむけた。
 宴の中心では舞がはじまっていた。
 バンディーラとウードを伴奏に、松明の光のなかに薄ものをまとった女体が浮かびあがる。ゆたかでしなやかな肢体がゆるやかに動き、波間を漂うように舞を舞う。
 アーミナは踊り子の動きにすいよせられて、身動きができなくなるのを感じた。
 踊り子の肉体がふるえるさまを、不安と奇妙な既視感とともにみつめつづけた。
 女が腕で弧をえがき、足で大地を踏み、腰をくねらせて訴えるものはなんなのか。肌がそそけだつのを感じて、アーミナは目をつむった。
 これはなに。彼女はだれ。
 唐突にわきあがる疑問に愕然とする。
 わたしはなにをしているの。
 ふいに肩に加わった重みに、アーミナは目をみひらいた。
 女の姿がぼやけ、色褪せてゆくのとちょうど反対に、後に立つ男の気配が現実になった。
「なにをしているんだ」
 フサインの声は一本調子で抑揚がなかった。それでもかれとしては精一杯優しくふるまおうとした結果なのだ。アーミナはこの男を幼いころから知っている。ふたりとも、水汲みの仕事をわりあてられたときからの、井戸の顔なじみなのだった。
「舞を見ていたの」
 アーミナは井戸で会ったときのあいさつのように返事をした。
 フサインは幼なじみとしかいえないふたりの関係を変化させるために、かれなりに努力をかさねていたが、実りは少なかった。アーミナが長びかせようとしていたからだ。かれはいらだちをほんのすこし顔にあらわした。
 アーミナは、肩のうえに置かれた男の手をはらいのけずにいるという試練に耐えながら考える。
 かれの眼に映る自分は、どんな姿をしているのだろう。
 フサインは頑固で正直で、無愛想だ。まるで荷担ぎ駱駝か、驢馬のように。昔からそうで、成長したいまもほとんど変わらない。
 かれを夫にするという考えは、もうずいぶん前からアーミナの中で浮き沈みしていた。なにしろ、フサインは彼女が征服した最初の男なのだ。
 障害となるようなものは、なにもなかった。部族全体から望まれているといっても過言ではない婚姻だ。ウサイダの族長は、おそかれはやかれ彼女を息子の嫁にと申し込んでくるだろう。
 フサインの手は緊張していた。
 アーミナの気さくな話し方とは反対の態度が、相手にもつたわっていた。かれは肩に置いた手が拒否されなかった意味を理解したのだ。
 アーミナはフサインの顔を見ようともしなかった。
 人びとの話し声と楽器の調べが遠くへ落ちる砂のようにひいてゆき、男の存在が息苦しさのもととなった。
 大きな手が、肩を撫でるようにつかむのに、アーミナはからだをすくめずにいることに意を傾けた。
 これに耐えなければならないのか。
 アーミナは知らぬうちに顔をしかめていた。
 少々の痛みとともにある少々の期待が、逃げるからだをかろうじて抑えている。
「ハルクのハリムは幸せものね。ルカイヤの花嫁姿を見た?」
 叫ぶかわりに、無理やり会話をつづけようとした。フサインの注意をそらすために。
「ルカイヤは綺麗だった……ほんとうに綺麗だったわ」
「ああ、とても綺麗だった」
 フサインの返事はうわの空だった。視線はルカイヤではなく、アーミナのうえに落ちたままだ。
 アーミナは緊張がたかまるのを感じた。相手の息づかいが、これほど近くに聞こえなければいいのに。
「とうさまと、なにを話していたの――さっき」
 喉が渇いて、舌がもつれる。声がかすれていることに、気づかぬことを願う。
「そうだな――」
 男の声が耳にちかく響く。かれはいつのまに移動したのだろう。
「山羊や羊のようすとか、いろいろと」
「いろいろと、なにを」
 闇の帳がおりて、ふたりは人ひとから切り離されたところにいた。実際にはわずか数歩でしかないのに、別の世界のように遠い。
 フサインがこたえを探しているあいだに、宴の中央の踊り子は円を一周まわっていた。
「――そういえば、ウスマーンがめずらしいものを持ってるって、言ってたかな」
 アーミナはうつむけていた顔をあげた。
「竜の眼球だそうだが」
「水晶球ね」
 息をころして訊ねる。
「そうらしいな」
「とうさまに、見せてもらった?」
「いや」
 フサインの無関心はアーミナの心に反発を生んだ。父があれほど熱心に語るもののことを、なぜこのように退屈そうに言い捨てることができるのだろう。
 アーミナも魅せられていた。あれほどうつくしく、あれほど凶凶しく、心騒がせるものはない。
 かれに水晶球のことを話しても、こんなふうにあしらわれてしまうのだろうか。
 アーミナには想像もつかなかった。いま、こうしてフサインを感じているようにかれを感じたことはない。かれの関心を捉えるものはなにか、知りようがなかった。
 ただ彼女には、こんなはずではない、という確信めいたものがあった。
 アーミナはさりげなくフサインの手をふりはらって、背をむけた。
 ふりかえった瞬間に、アーミナは踊り子のまなざしに射すくめられた。
 黒い瞳が告げるものは、まぎれもなく憎しみだった。射殺そうとするかのようにきつくねめつけられて、アーミナはからだの奥で記憶が疼くのを感じた。記憶は傷口で、踊り子はそこにふたたび剣をふりおろそうとしているのだ。
 沈黙のうちに対峙しながら、既視感は彼女を捕えつづけていた。
 踊り子の憎しみには、覚えがなかった。いままでにこの女に会ったことはない。このようにつよい感情を受ける理由が、わからなかった。
 にもかかわらず、アーミナは自分のなかにもおなじ感情があることを知った。彼女も踊り子を憎んでいる。理由もわからないのに、なぜか、感情は存在していた。そして、理解できない想いは、踊り子の挑戦的な態度によってふくれあがっていた。
 暗い空間に炎によってうかびあがる女のからだは、ゆたかで妖しく、艶やかで官能的だった。
 数々の装飾品と紗のみをまとったからだは、うごきにあわせて小刻みにふるえる。紅いくちびるは荒い息を吐き、額には汗が光った。
 舞は、アーミナヘの憎しみを侮蔑にかえてあらわしていた。たったひとりの男ですら満足にあつかえない小娘へのあざけりだった。
「アーミナ?」
 フサインが心配げに話しかけてきた。アーミナはふりかえって男の顔を見た。
「だいじょうぶか。顔が蒼い」
「へいきよ」
 こたえながら彼女はフサインをじっとみつめた。相手のとまどいもかまわずに、そして手をさしのべる。
 アーミナはフサインによりそい、胸に頭をもたせかけた。背中に力強い腕がそろそろとまわされる。両腕でだきしめられると、頬が男の胸に押しつけられた。心臓の音がはやがねのように響いてくる。
 血液が全身をかけめぐっている。
 フサインの緊張がアーミナの緊張を増幅してゆく。もう、心臓の音がどちらのものなのか、区別がつかないほどに。
 だめ。
 アーミナが悲鳴をあげるまえに、フサインは体をはなした。
 かれはあえぎながらようやく言った。
「天幕まで、送っていくよ」


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