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 決意を固めたティストは、ジーナに父親のことを頼んできた。
 これからかれは、島中を敵にまわすことになるかもしれない。ティストは弱った父親を巻き込みたくなかったのだ。そして、意識してのことではなかったのかもしれないが、同時にジーナも自分から遠ざけて、それでいいと思っているようだった。
 作男は、とつとつと話す息子にはなにも尋ねようとせず、ただうなずいた。しばらくうまいものが食べられそうだといって、わずかに微笑んで見せたその顔が、とても誇らしげだった。
 作男を夢見の家に落ちつかせると、ティストはひとりで小屋に戻ってゆこうとした。
 ジーナは、夜道に消えてゆく後ろ姿をしばらく見送っていたが、いまだにおさまらずにいる黒い渦の中にすいこまれてゆこうとする若者を、そのまま行かせてしまうのがひどくたまらなくなった。
 あのとき、渦は女魔法使いを呑み込んで消えた。今回、贄として悪夢の中で息絶えるのがティストになったとしても、おかしくはない。
――なんだろうね、往生際の悪い。焚きつけたのはおまえだろうに
 悪態をつきながらも曾祖母の声がどこか優しいように感じるのは、気のせいだろうか。
――あの男に戻って欲しければ、絆を作るんだよ。切っても切れない、切りたくても切りようのない、しぶとい絆をね
 曾祖母が言っているのがなんのことかは、わかるような気がしていた。
 だが、かれはそれを受け入れてくれるだろうか。
 拒絶されたら、どうしたらいいのだろう。
 しかし、ためらっている暇はなかった。ジーナは闇にまぎれて見えなくなってしまった背中を追いかけた。気が急いているのだろう。若者の足どりは速く、なかなか後ろ姿が見えてこない。
 ようやく追いついたときには、もう、島長の館のすぐそばまでやってきていた。かれの足下に黒い流れがゆっくりと、だがうねるように渦を巻いている。深みにみずから踏み込んでゆこうとするその姿に、ジーナは懸命に呼びかけた。
「……待って、ティスト…!」
 ふりかえった男に驚く間もあたえずに、ジーナは頸にすがりついていた。
 勢いあまってぶつかると、大きな身体が彼女を受けとめるように硬くなり、ゆっくりと弛緩する。
 巻きついてきたほそい腕をほどこうとして、ティストは靄のようにけぶる月明かりに彼女の顔をのぞき込み、ついで胸を衝かれたように顔をこわばらせた。
 それにはかまわず、精一杯背伸びをしてもういちど若者の首をたぐり寄せ、くちびるを重ねた。荒い息のした、呼吸がつづかなくなるまで、幾度も重ねた。胸が破れそうだった。涙があふれてきた。気がつくと、くちびるはむこうから近づいてくるようになっていた。足が宙に浮いていた。
 ジーナはたくましい腕につよく抱きしめられたまま、運ばれていた。
 これは、夢だろうか。
 夢でもかまわないと、彼女は思った。
――ほうけたことをいうでない。夢で絆がつくれるものか!
 曾祖母の叱咤など、耳に入らなかった。いや、頭の中に響く声だから、入っても聞こえなかったというべきか。
 ジーナは炉端に敷かれたやわらかな藁の上に横たえられて、男の体温をあじわう幸せに酔っていた。
 渦にさらわれずにすむように、闇に見失わずにすむように、ジーナは若者のすべてに自分の存在を刻みつけようとする。
 その行為を裏返すように、ティストも触れ得る彼女のすべての場所に、あたたかなくちびるをやさしく押しつけてきた。
 かれの行為は、まるで別れを告げているようだった。
 そんなことはさせない。
 ジーナは必死になって若者にしがみついた。
 なにがあろうと、どんなことになろうと、このひとを失いたくない。
 そのためになら、なにを捨てても惜しくはなかった。



 夜の明ける前に、島長の館からしらせがやってきた。逃げた子どもたちの足跡を見つけたというのだ。
 島じゅうから魔物と決めつけられた女魔法使いの娘は、あやうく殺されかけたところで、どうやら逃げだすことに成功したらしい。島中の悪意がここに集まっているのも偶然ではなかった。〈賢者〉は、少女の母親の時とおなじように黒い渦の焦点を自分の敵にあわせることをためらわなかったのだ。
 ジーナは少女が無事なのを知って安堵したが、状況が悪いことに変わりはなかった。あいかわらず、渦はくろぐろとして動いていたし、その流れの強さに島じゅうがひきずりこまれて、あともどりのできないところまできてしまっているように思える。
 裸の胸に服をおしあてながら、隠れて聞いた言葉は残酷だった。〈賢者〉はティストが少女と親しかったことを利用して、少女を捕まえようとしているらしかった。ティストはすぐに一緒に来るように命じられた。
 険しい表情で身支度をし、そのまま出てゆこうとする若者に、ジーナは声をかけた。
「戻ってきてよ、ティスト。きっと、戻ってきて」
 かれはわずかに振りかえり、朝日の中ですまなさそうな顔をしてみせた。
――まったく、男ってやつは!
 それは、数刻ぶりに聞く曾祖母の声だった。



 ティストが出ていった後、ジーナはいつものように小屋を掃除して、炉にあった鍋を洗い、ありったけの材料をかき集めて、シチューをこしらえた。
 炉に細い枯れ枝をくべながら、以前、ティストがこのシチューは好きだと言っていたと、作男から聞かされてうれしかったことを思い出す。
 しばらく火加減を見ながらぼんやりと過ごしたあとで、やおら立ち上がると、自分の家に戻った。夢見の家では作男が心配して待っていたが、彼女の顔を見てそっとうなずくと、なにも言わずにいてくれた。
――ほんとうに口数の少ない親子だねえ
 それは呆れつづけたその果てに、とうとう賞賛の域にたどりつきかけてしまったような、しかしそれを認めたくないばかりに意地をはっているような、感嘆まじりの文句だった。
 礎石の見せるちからの流れは、いまだに黒い渦をかたちづくっていたが、中心から遠ざかったせいか、彼女自身は圧迫感を感じなくなっていた。
――月が、欠けはじめているからね
 いにしえの力は、月の満ち欠けや潮の満ちひきに呼応している。
 それに曾祖母はもうひとつ、黒い渦とは別のちからが動きはじめたことを指摘した。
――決着は、すぐにつくだろうよ
 曾孫娘のしあわせにどんな影響を及ぼそうとも、曾祖母は結果が出るのを待ち望むのとおなじか、それ以上に、なりゆきを眺めて楽しんでいるようだった。
――あたりまえじゃないかね。こんな余録でもないと、夢見なんぞやっていられるか
 だったら、やっぱり、夢見になるのはごめんだと、ジーナは思う。
 ひとの生き死にを潮の流れのように受け取って、傍観者のように眺めたいとは思わない。
――まるで、おまえの母親みたいなことをいうねえ
 曾祖母は馬鹿にしたように笑ってみせる。
――夢見がいなくなって、この島がどんなところになったのか、おまえさん、その目でようく確かめただろうに。礎石のあるところに夢見は必要だ。それは、ちからのためじゃない。みんながまっとうに生きていくために必要なんだよ。みんなが自分ひとりのために汲々としていては、足元ばかりを見ているだけではダメなんだよ
 そこで曾祖母はため息をついたようだった。
――おまえは、夢見になると幸せが逃げていくとでも思っているらしい。どうやっておまえが生まれてきたと思っているんだい、え?
 曾祖母の言葉に驚かされたのは、これで幾度めだったろうか。
 しかし、今度の驚きはいままででもっとも大きかった。
 では、曾祖母は幸せだったというのだろうか。晩年を他人の悪口を言うことで過ごし、ひとから煙たがられ、陰口をたたかれて、いまでもことあるごとに“夢見の婆”の思い出話があちこちで蒸し返される。そんな人生のどこが幸せだったと言えるのだろう。
――馬鹿におしでない! あたしが言ってるのは悪口じゃあない、真実だよ! それにみんなが覚えていてくれているということは、あたしがまだ生きているってことだ。忘れられたときに人は本当に死ぬんだからね!
 曾祖母はほんとうに悪口を言うのが楽しかったらしい。真実を告げていると思うからこそ、罪悪感からも逃れていたのだろう。言われた方もその気持ちをしらずに受けとめていたようだ。そういえば、最近の夢見の婆の昔話は、笑い話に変化している。きっと、彼女の話は代々受け継がれていくだろう。炉端の語りの中に曾祖母は永遠に生きつづける。
 そんな生き方も、あるのだ。
 ジーナはふいに泣きたくなった。
――そうだよ、あたしは幸せだったよ。足りなかったのは、夢見を受け継いでくれるものがいないってことだけだ
 あたしが夢見になったら、なにができるっていうの。
 いままでしたことのない問いが、くちからこぼれ出ようとしたとき、強大な黒い渦が突然、勢いを失った。
 なにかが起きている。
 礎石が見せてくれるのは、ちからの流れだけだ。
 実際になにがあったのかは、その場にいなければわからない。
 ジーナは立ちあがって、黒い渦を避けるために閉じていた窓をひらいた。
 ひんやりとした夜風が吹き込み、冷たい汗の滲んだ肌を撫でていく。
 背筋をなぞられたような感覚に、おさまりかけていた動悸がふたたび速まった。
 潮騒の聞こえる方向をみつめる。
 煌々とかがやくしろい月が、暗闇に蒼白くうかびあがらせているのは、これまで幾度も通った道だった。
 全身が震えだしそうなのをこらえながら、ジーナはようやく足を踏み出した。
 前へ進むのが恐ろしかった。けれど、このままじっと待ちつづけることにも、耐えられそうにない。
――どんなことになっていようと、自分のまいた種だってことをお忘れでないよ!
 たしかに、そうだった。
 ティストを渦の中に押し出したのは自分だった。かれがどんなことを体験したのか、かれがなにを選んだのかを見ずに済ませることなど、彼女には許されない。
 曾祖母の悪態に勇気づけられる日が来ようとは。
 思わず苦笑してしまった自分に気がついて、ジーナはすこし強くなったような気がしていた。



 はじめは恐怖を押さえつけるように、ゆっくりと歩いて行くつもりだった。
 いつのまにか、そんな気持ちはどこかへ消えて、足どりは次第に速まっていった。
 作男の小屋から、みえない流れの暗い痕跡をたどるようにして、走りつづける。
 砂浜へと下る坂道をころがるように駆けおりて、目の前にひらけた光景は、ジーナが思い描いていたどんなものとも異なっていた。
――おやおやおや、まあまあまあ
 さんざんに踏み荒らされた波打ち際の砂の上、見おぼえのある島の男たちが難破船の残骸のようにごろごろと横たわっていた。かれらをいろどるのが月の光であることが、いっそうその光景にふしぎな神秘をあたえていた。
 足をとめて、ひとりの顔をのぞき込んだ。
――だいじょうぶ、全員生きてるよ。夢でも見てるんじゃ、ないのかい
 曾祖母の言葉どおり、男たちはみないちように規則正しく寝息を立てていた。眉間にしわを刻み、口元を食いしばったようにゆがめ、安らかな寝顔とは言い難かったものの、とりあえず、怪我をしているものもいないようだ。
 黒い渦は、痕跡も残さずに消え失せていた。
 周囲は波に洗われたように静かだった。
 渦の焦点になっていた少女の姿はみえない。
 渦に対抗するように出現した、べつのちからの源もみあたらなかった。
 ただ、黒い渦とはちがう、あわい光をはなって沖へとのびゆく力の軌跡がかすかに見えたが、それもずいぶん薄れており、いまはほとんど消えかけていた。
 いまは、うち寄せる波の音だけがしみいるように響いている。
 ジーナは視線をめぐらせて、ただひとり目覚めている大柄な人影を見つけ、ふるえる手を口元でかさねあわせて安堵のため息をついた。
 砂地のくぼみに力なく座りこんだティストは、近づく気配にも気づかない様子で、黒々とした海を見つめていた。息をつめて、目を凝らし、まばたきもしない。
 その視線の先になにが見えるのかを、問いただしたいとは思わなかった。
 ジーナは無言で隣に腰を下ろした。
 しばらくして、彼女は潮風に吹かれてひいやりとした若者の上腕に、そっと触れた。
「……行ってしまった」
 ぽつりと、しわがれた声が告げる。
 それはひどく疲れて、悲しげで、それでいてどこか辛い労苦から解放されたような、かわいた響きの声だった。
 ジーナはつかんだ上腕をいだくようにして、若者に身を寄せた。
 長い間慈しんできた少女を失ってしまったかれを、なんとかして慰めたいと思い、しかし、それはわがままなのではないかと、ふと彼女は感じた。
 ティストは、もしかすると自分への義務感ゆえに残ってくれたのかもしれない。そうではないと、誰が言える。かれは、ほんとうにあの少女を大切にしていたのだ。朝まではなかった、からだのあちこちについた傷や痣がその証拠のように見えた。そんなにしてまで守りたかった存在を、簡単に手放してしまえるだろうか。かれは、視線の先に――海のむこうに、少女とともに行きたかったのかもしれない。
「……ごめんなさい」
 思わず涙があふれた。もし、自分があんなことをしなければ、かれは今頃、こんな顔をしてはいなかったのではないか。それでも、ジーナにはああするしかなかったのだ。ひとり取り残されることを考えるまでもない。どうしてもこのひとに留まってもらいたかったのだ。そう思うと、涙が止まらなくなった。
 泣きつづける彼女に、ティストはとまどったようにその姿を見ていた。
 それからしばらくして、ジーナはすがりついていた腕をそっとひきぬかれ、泣き濡れた顔をあおのかされた。
 月光に染められ、涙でゆがんだ視界が暗くなる。
 ジーナの頬を流れる涙は、あたたかなひと触れごとに吸いとられていった。いたわるようにふりかかってきたくちびるは、しだいに熱を帯び、陶酔をはこんでくる。いつの間にか、彼女は腕の中に抱き寄せられていた。ジーナの両手がのびて、かれの顔をつつみこむ。
「謝るな」
 褐色の瞳が、初めてまっすぐにジーナの眼をのぞき込んでくる。まなざしは彼女に対する感謝と、もうひとつ、かれの本心を告げていた。
「謝らなくて、いい」
 うなずくかわりに、彼女はふたたびくちびるをかさねた。
――若いってのは、恥ずかしいことだねえ
 どこか満足げにつぶやく、曾祖母の声がさざ波にまじって遠く聞こえた。



 その日、悪夢に頬を撫でられて昏倒した島の男たちは、めざめとともに身体に残っていた毒気を一気に抜かれることになった。
 脱力感とめまいと寒気に襲われながら起きあがったかれらは、ゆうべ魔物狩りの獲物として狩りだし、さんざんに暴力をふるって傷つけたはずの若者の元気な姿に目をみはった。朝日の中で目の覚めるような美女と抱きあい、くちづけを交わしている光景をまざまざと見せつけられたのである。
 睦みあう男女を一同呆然としてながめていると、ようやく視線に気がついたふたりは、悪びれもせずに自然に腕を絡めたままこちらをふりかえった。
 みれば、つややかな黒髪を乱したその女は、かつて夢見と呼ばれていた家系の最後の娘だった。はじめに目に映ったときのこうごうしさは消えうすれ、いまでは普通の島の娘に見えてきたが、それでもため息をつかせるほどにみずみずしい娘だった。
 この時まで、夢見の婆の曾孫娘の美しさに大半のものが気づかずにいた。まだ独り身のものたちは、心中ひそかに若者をうらやまずにはいられなかったろう。
 たしか〈賢者〉が、ヤツは魔物に憑かれたと言っていたはずなのに。
 よほど恐ろしい目にあったのだろうか、当の〈賢者〉は、ひどくゆがんだ顔をさらしながら、まだいびきをかきつづけていた。
 すべてをさらけだす陽光の下で、なにが間違っていたのかを考えあぐねる男たちをよそに、娘は、笑顔で堂々と言ったものだ。
「こんばんは、島長どの。あら、おはようございます、だわ。いつのまに夜が明けたのかしら」
 男たちは顔を見合わせた。
 そんなことにも気づかずに、この娘はなにをしていたのだろう。
 その答は知らないほうがいいような気がした。
「お願いがあるんです」
 やはり砂浜で一晩すっかり寝入っていた島長は、気恥ずかしさに咳払いをした。
「な、なにかね」
「このひと、あたしが引き取ることにしました」
 言いながら娘は愛しそうに若者の腕を撫で、若者はこちらはさすがに正気が戻ってきたのか顔を赤らめてはいたが、つねならず真剣な視線をむけていた。
 島長は、年若い娘に圧倒されてつづけていることが、すこし気に障りだしたらしい。
「そいつは、うちの作男だ。それに、魔物に憑かれているから、危険だ」
「魔物憑きなら、危なくて雇ってなんかいられないでしょう? だから、あたしが連れていきます」
「いや、しかし、連れていってどうする」
「一緒に暮らします」
「どこで」
 愚問だった。娘は夢見の血筋なのだ。古くてボロだが大きな家に住んでいる。島長の館からはかなり離れていて、いまはさびれたところだが、もともとは、そちらが島の中心だったのだ。
 島長は、娘の言い分をくつがえす事柄を探してみたが、なにも見つからないようだった。腕組みをしたまま唸りつづける島長に、娘はそれではと会釈して若者の腕をひいてゆこうとする。
「ま、待て。いまは夢見を継いでいる者はいないんだぞ。あの家は夢見のものだから、そうでないものは出ていってもらうこともありうる」
 娘はかすかに首を傾げて島長の言葉を聞いていたが、そのうちに笑い出した。
「笑うな、娘。どうして笑う」
 島長はくってかかった。きらきらとふりそそぐ陽光の中で、娘の笑顔が輝くのにどきりとさせられたせいだった。
 娘は誇らかに告げた。
「夢見は、います。あなたがたの、目の前に」



 そうして、島にはあらたな礎石の護り手が誕生し、十ヶ月後にはその血筋をうけつぐ最初の女の子が生まれた。
 黒髪の赤子のちいさな口元をながめていると、先代の夢見は、
――この子も、くちが重たそうだねえ。でも、素質はあるか。あたしの見立ても、ちと狂ったようだね
 と呟いた。
 それを最後に、ジーナは曾祖母の声を聞かなくなった。
 礎石がみせる力の流れはおだやかになり、島びとの悪夢もうすれていったが、夢見の婆の笑い話は、まだちゃんと炉端の団らんで語られている。

〈了〉


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