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風鳴る塔 3

 トゥースの巫女の試練を受けると決意したとき、はじめに伝えたのがカドリだったのは、それが礼儀だと思ったからだ。
 かれが提案した未来と、彼女の選ぼうとする未来は、両立することができない。
 声を言葉として操ることのできない彼女にとって、婉曲ないいまわしなどはつかいたくとも使えない。彼女にとって、それはもちいることのできるもっともやんわりとした拒絶のしかただった。
 だが、カドリは決意の裏にある拒絶に気づかなかった。あるいは、故意に無視しようと決めたのだろうか。
 巫女の試練につき添う審判の到着を待たず、いつのまにか彼女はカドリとともに一座を離れて出発することになっていた。
 アルマーダからタトゥースへ、そしてその西へ。
 アルマーダ商人の仕立てた隊商と同行させてもらう代わりに、ふたりは隊商の仕事を手伝った。
 荷下ろしをし、運び、家畜の世話をする。
 移動しながら命を繋ぐ営みをつづける日々は風の民のそれとさほどかわることもなく、異なることといえば格段に人数が多いことと、ときおり彼女の事情を知らないものとの間でいざこざが起こることだった。
 隊商は旅慣れた男たちと、故郷を離れてまだ日の浅い若者たちが大半を占める集団だ。女の姿は多くはない。
 ふたりは夫婦と名乗ったのだが、どうやら雰囲気で偽りを見抜かれてしまったようだ。若い男たちは彼女につきまとい、なれなれしく声をかけた。返事をかえさない彼女にあからさまに嫌な顔を見せるものもいたし、好奇心を丸出しにして日よけの頭布を無理矢理ひき剥がそうとするものもいた。
 どうしてか彼女は一部のものたちの好奇心をそそってしまったらしい。
 なにかというと不快な思いをすることになり、悪質な行為に耐えかねて天幕から離れたいと思ったことも一度や二度ではない。
 そんなとき、彼女はひとりで涙をこらえていた。
 カドリに助けを求めることも考えたが、気がすすまなかった。すでに自分のためにたくさんの犠牲を払っているかれに、これ以上の荷を負わせたくはなかったのだ。
 雑多な人間のあつまりである隊商の中に、軋轢を生むことなく、カドリはすんなりと溶けこんでいた。
 持って生まれた癖のない容姿と、身に備わったあたりのやわらかさがひとに警戒心を起こさせない。トゥースの民としては当然のことなのかもしれないが、ときおりせがまれて笛を吹きもするそのほがらかな姿は、彼女にはひどくまぶしくみえた。
 ひきくらべて、自分のなんと醜く、役に立たない陰気な存在であることか。
 自分が隊商全体の雰囲気を悪くしていることは、彼女もうすうす察していた。カドリがつとめて和らげる空気を、彼女がらみのいざこざがかたはしから尖らせ、壊していくようだった。
 自分から飛び込んだ旅空であるはずなのに、彼女は隊商にとってのただ飯食らいにしかなれず、考えてみればそれは風聞の民として街道をめぐっていたときと何ら変わることのない日々だった。
 なすすべのない無力感にとらわれて、彼女は砂の欠片になって、風とともに消えてしまいたいと願いはじめた。
 このまま塔にたどり着けたとしても、巫女になれると考えたことは一度もない。
 タトゥースの大地にさまよいだして渇いて死ぬのと、試練の果てに巫女になれずに命を落とすのと、どちらがましだというのだろう。
 どうせ同じ末路を迎えるのであれば、すこしでもなにかをやったといえるようになりたい。そう思ったのも、間違いだったというのだろうか。
 夕暮れにふらふらと立ちあがってあてどもなく歩みだそうとしたそのとき、風にのってカドリの笛が聞こえてこなければ、そのまま彼女は沙漠の奥へと迷い出ていたことだろう。
 ふりかえると、野営の支度をするにぎわいの中で、幾人かが手拍子をしながらなにかを求めてあたりを見まわしている。
 かれらの探しているのが自分なのだと気づいたときには、駆けつけてきた男に腕をつかまれて、篝火のほうへとひっぱられていた。
 わけがわからずにいる彼女に、ひとびとは笑顔で声をかけてきた。
「さあ、踊って」
「踊ってくれよ」
 笛の音が、誘うように謡いかけた。
 彼女は気づいた。この旋律はしっている。
 祭などで座が最高潮になったころ、周囲を踊りの輪に巻き込んで祝い気分をもりあげるための、にぎやかで明るい曲だ。
 見れば、炎のまわりに車座になったひとびとが、拍子をとりながら期待を込めて彼女を見まもっている。
 笛を吹きながら微笑みかけてくるカドリのまなざしのうながすまま、彼女は最初のステップをおそるおそる踏みだした。
 一座の花形の、しなうような優雅な踊りを脳裏に思い浮かべながら、幾度も真似た腕の動きをそろりとなぞってみる。
 それまでも一座の皆とともに振りまねをすることはあったが、これほど覚悟を決めて踊るのは初めてだった。一座には華やかな容姿と圧倒的な技量で人を魅了する舞姫がひとりいて、それ以上の舞い手は必要なかったのだ。
 手拍子に後押しされて、不安だった足どりは次第に確かになっていった。
 弾むような律動に身をゆだねているうちに、体の芯から熱が生まれはじめる。
 手拍子をしていた者たちが誘い出されるようにひとり、またひとりと笑顔で踊りに加わった。燃えさかる炎をとりまいて、踊りの輪は大きくなった。
 カドリの笛が、跳ねるような複雑な旋律をこともなげに歌いつづける。
 喜びに満ちた力強い響きが、彼女を鼓舞し、さらに踊らせる。
 体が律動と旋律であふれそうになり、なにも考えられなくなって、くるくると視界がまわるたびにめまいにも似た快感が走り抜けた。
 まわりは彼女の踊りを誉めたたえ、さかんに囃したてた。
 踊って踊って踊りつくしたあとで、炎に照らされたいくつもの笑顔に出会い、彼女は自分がいまだかつてないほどあけひろげに笑っていることに気がついた。
 生きている。
 自分は生きているのだと彼女は感じた。
 胸に訪れたのは、いままで感じたことのない強い喜びだった。



 それから、隊商が一日の行程を終えて天幕を張りつめると、炎をかこんでたびたび宵闇の饗宴がひらかれるようになった。
 はじめに若者たちがカドリに笛をねだり、陽気な旋律にあわせて踊り始めると、くるくると花のように長い裾をひるがえして数少ない女たちが立ち混じりはじめる。
 彼女はたいてい座の興がのってきたところでひきずりこまれたが、輪の中ではじめからステップを踏むこともあった。
 いまではみなが彼女を旅の一員として認めていた。声こそ出せなかったものの、舞が充分に名乗りの役割を果たしたのだ。
 あいかわらずひかえめな彼女ではあったものの、いまでは嫌がらせを受けると庇ってくれる者が大勢いた。それは彼女にとっては新たな世界との出会いのように思えた。
 自分を気にかけてくれる者がいる。そう感じると、役に立たないと思っていた自分自身にもすこしはいいところがあるのだろうかと思えてくる。
 自然と表情がやわらかくなり、それまで避けていたひととの交わりがそれほど苦にならなくなってきた。
 それでもカドリに頼ることはまだ多く、それは彼女にとっては負担だったが、カドリはそのことをむしろ喜んでいた。なによりも、かれは彼女の踊りにあわせて笛を吹くのをとても楽しみにしてくれているようだった。
「あんたたち。マグファールの街に行くんだってな」
 星降る夜。小さな碗から褐色の熱い液体を啜りながら炎をかこんで休らうひとときに、驢馬係のひとりが尋ねてきた。
「マグファールに、いったい何の用だい」
 タトゥースの砂に埋もれかけた道を幾度も往復している年かさの男たちが、若いふたりの男女の目的地を耳にして疑問を呈したのは当然の成りゆきだった。
 マグファールは、隊商の落としてゆく路銀を目当てにほそぼそとつづいている、とりたてて大きくも素晴らしくもない街だ。若い男女がわざわざ出かけていくような場所ではけしてない。
 彼女はあいまいに笑んでみせた。
 声を使えたとしても、この問いには答えられない。
 マグファールはたんなる中継地点にすぎず、そこからかれらはタトゥースの風鳴る塔に行くのだ。しかしそう告げたところで誰も本気にはしないだろうし、トゥースの民の聖なる秘密に関わることがらを口に出すことは禁じられている。ならば、声の出せない彼女の状況は、好奇心をかわすのに好都合というものだ。
「あそこは、なんにもないところだよ」
 男たちは口々に言ってひきとめた。
 あんたたちには隊商の暮らしが合っている。このまま、一緒に旅仲間として過ごそうじゃないか。そして沙漠の宵の慰みに歌い踊ろう。偉大な女神の夢がいつまでも平安であることを願いながら。
 彼女の身体を、笛の奏でる風の旋律が通り抜けた。
 手拍子が差し招く。
 足はひとりでにステップを踏み、腕は大気を抱いて、遠くへとほうりなげる。
 このちからはどこから生まれてくるのだろう。
 踊り始めると律動と旋回が生み出す風とに翻弄されて、思考が翼を持つかのように飛んでゆく。
 カドリの笛が彼女を煽り、彼女の舞がカドリを煽る。
 熱情が生まれ、渦を巻いた。
 あふれでる精気に息もつかせぬ動きで反応する。
 つきあげる衝動がすべてを支配する炎となって大きく膨れあがってゆく。
 ――……!
 ふいに耳元で何かを叫ばれたような気がした彼女はめまいを覚え、せき止められたように突然動きをとめた。
 闇の中で、ゆらめく炎に照り映える饗宴に恍惚としたひとびとの顔がきれぎれに脳裏に焼きつけられ、やがてそれは激しい熱さをともなって彼女の世界を焼き焦がしはじめた。
 やがて、いつも彼女に嫌がらせをしていたひとりの男が、悪意にゆがんだ顔でのぞきこみながら高温の痛みを自分に押しつけていることに気づいたときにも、彼女の中には笛の音が風とともにつよく鳴り響いていた。
 歓声は、いまや悲鳴に変化していた。
 燃えあがり、視界を赤く舐めつくした炎は彼女の体内の風をあおり、さらに膨張させ、渦巻かせた。
 それと呼応するかのように、彼女の脳裏にはある記憶がよみがえってきた。
 まるで、ふくれあがった風が霧を吹きはらい、いままで押し込められていた過去を解き放とうとしているようだった。
 炎のあがる服を叩きながら女のあげる恐怖の声が、どこか遠くへと消え飛んでゆく。
 ものの焼け焦げる苦いにおいが、彼女の中のおぼろだったなにかに輪郭をあたえはじめる。
 さかまく炎と耳を聾する轟音の荒れ狂う世界が目の前に、ほんのすこし手を伸ばせば届くところまで迫ってくる。
 まるで彼女をとりこもうとするかのように、その世界は膨張をつづけた。
 押し寄せる気配が足もとから駆けあがって、いまにも心臓を鷲づかみにされそうになる。
 そのとき。
 彼女は空の穀物袋を被せられて横倒しになり、気がつくと上から乱暴に何度も叩かれていた。
 地面にうち倒された衝撃と体の痛みに閉口して見あげると、カドリが、こわばった真剣な顔にひりひりとした不安をうかべて彼女を見おろしていた。
 幸い、焼けたのは髪と服だけで火傷は軽く済んだ。
 そのことを確かめて、カドリは大きく息をついた。
「よかった」
 大きな手が彼女に触れ、乱れた髪を梳きあげる。
 男の愛情とやさしさを麻の向こうにある体温とともに感じながら、だがそのとき、彼女は胸のうちでなにかをみつけたこと、心臓がふるえているのはそのためなのだということを、ぼんやりと意識していたのだった。
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