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第一章



 娘は褐色の髪をていねいに梳き、つややかな束を背中でひとつに編んだ。
 ふるぼけた窓から射しこむ陽光が、娘のまろやかなからだをつつみ、愛撫する。
 そのようすを若者はほれぼれとながめていた。乱れた寝台の上の半裸の男の眼には、みたされたばかりの欲望が首をもたげる、かすかなきらめきがあった。
 娘は髪をととのえると椅子から立ちあがり、眉をしかめた。
「ジァル。あんたもはやく支度をするのよ」
「なあ、あとすこし、ここにいられねえか」
 ジァルと呼ばれた若者は、娘の手をとろうとしてかるくふりはらわれた。
「ドゥアラスさまからのお召しなのよ。遅れたくないの」
 娘のたしなめにジァルはため息をついた。上体を起こし、かるくのびをする。
 陽に焼けて浅黒い、ひきしまったからだだ。すんなりとのびた手足、小柄だが、芯が通っている。なによりも彼女をみつめる黒曜石の瞳を、彼女は好きだった。
「おれがわるかったんだ」
 めだたぬ質素な服を身につけながらジァルは言う。
「おれがお館さまの影でなけりゃ、おまえにめをつけられることもなかったのにな」
 娘はくちびるに笑みをのせた。
「あたしは感謝してるのに、あんたはあやまるのね」
「おまえを危険なことにかかわらせたくない」
「覚悟のうえよ」
「おまえはここで、しあわせに暮らしていてほしいんだよ」
「あたしは、しあわせじゃないわ」
 娘はしずかな、けれど断固とした口調で言いかえした。ジァルは娘の肩をつかむと小さなからだを抱きしめる。
 男の吐息が首筋にかかり、娘はふるえた。
「あたしはしあわせじゃないの」
「おれがいてもか」
 娘は答えなかった。ジァルはからだを離し、ととのってはいるがどこか昏い印象を与える娘の面を見た。まなざしに答があった。かれは肩を落とした。
「ジァル」
 娘は男の名を呼び、肩に置かれた手をとった。
「あんたを愛してるわ」
 ふたりは唇をかさねた。




 イニス・グレーネは河畔の地。
 マルフェリエとアンフリエ、ふたつの河が潤す、実りゆたかな土地だった。
 女王ダルウラとお館さまと呼ばれるその夫は、長年の敵イニス・ファールとの関係をつねに優位にたもってきた。イニス・ファールの統治者レーヴェンイェルムはここ数年病の床にあり、途切れなくつづいている戦も、しばらくは小競り合い程度ですんでいた。戦で荒らされなかった畑は多くの穀物をもたらし、河づたいの交易が都をにぎわした。
 ここは穏やかで、活気に満ちている。
 エセルは館にむかう道を歩きながらその思いを訂正した。
 活気に満ちていたのだ。
 いま、街は予期せぬ事態に怯えていた。女神の微笑みがとつぜんそらされ、イニス・グレーネは加護を失ったのだ。
 満を持しての戦に大敗を喫したという報せは、館に届けられると同時に街中にひろまった。初夏の陽射しをうけながら、はや冬を迎えたような不安と恐怖が都を覆い、その中心にあるのが館だった。
 まるで、十年前にもどったかのように。
 ふりはらおうとつとめてきたのに、いままた、悪夢はエセルのうちにまざまざと呼び覚まされた。深く、深く刻みつけられて、癒そうとしても癒えない、血の記憶。
 イニス・ファールの使者が都に着いたのは昨日のことだ。
 道をゆく騎馬と馬車の一行が誇らかに掲げるのは、いまわしき紫の旗だった。
 彼女はそれを部屋の窓から見ていた。憎しみと悲しみが、いまだ自分の中に息づいていることを確かめながら。
「ほんとうに、いいんだな」
 かたわらを歩いているジァルが、念を押した。
 エセルはくちをきゅっと結んでうなずいた。
 手筈どおり、ふたりは裏門から館に招き入れられた。警備の兵はイニス・グレーネの置かれた立場を反映して、険しい顔をしてかれらを訊問したが、ジァルのもつ指環の効果は絶大で、これを見せるとすぐに奥へと通された。
 ジァルは案内も待たずにずかずかと館の敷地内をよこぎろうとする。その途中で報せを受けた小姓があわてて駆けてくるのにゆきあった。
 少年はふたりを館のはずれにある、せまい一室にみちびいた。
 日の光のとどかぬ暗い廊下を延々通りぬけて、たどりついたそこは、おそらくは離れの一室であった。庭にのぞんで扉が開かれ、あかるい色彩が眼を眩ませる。
 ひとりの男が窓際に立ち、こちらを見ていた。
 強い陽射しがよこからうかびあがらせるおもざしは、まだわかい。
 背は相応に高いが、すらりとしたからだはまだ充分に育ちきっていない印象をあたえる。荒削りだが、ととのった精悍な顔立ち。眉は濃く、意志が強そうだ。そして、そのつよいまなざし。
 人に命令するために必要なものが、この男にはそなわっている。
 つぎの女王の伴侶に選ばれるだけのことはあるとエセルは思った。だが、まだわかい。
 小姓が会釈をして去ると、男はかすかな身振りで中へ入るようにうながした。
 ジァルについて部屋に入ると男はエセルの視線に気づいて顔をこわばらせた。
「おれでは不服か」
 エセルは眼を伏せて首をふった。
 感情を見せてしまったのは不覚だった。だが、少年とさえいえそうなわかい男があるじとなることは、いままで考えのうちになかったのだ、
「だが、我慢してもらうしか、ないな。父上は討ち死になされた。あとはこのクレヴィン・イスラ・ドゥアラスが引き継ぐ。もし、承服できないというのなら――」
 クレヴィンは父親が掌握してきた「影」を射抜くように見た。
 隠密はつねに命をさらしての、危険な仕事だ。任務に携わる者には知力、体力、胆力とも、なみなみならぬものを要求される。ドゥアラス家の文字どおり影として働いてきた者たちは、敵味方の裏に通じるその性質上、けしてドゥアラスを離れることはできない。
 命尽きるとき以外には。
「もとより、わが命はドゥアラスのために捧げております」
 ジァルはすばやく忠誠の印をきった。
 クレヴィンは無言でうなずく。さらにエセルを見て、返答を待った。
 エセルはクレヴィンの前にひざまずき、額を地につけた。
「十年前、お父上に父母とともに殺される運命から救っていただいてから、ただ、ご恩をかえすことをのみ、思いつづけておりました。どのようなことなりと、お申しつけください」
 クレヴィンはみずからといくつも違わぬ娘を見おろして、その姿を検分した。かれはエセルから遠ざかると、繻子張りの椅子に腰をおろした。
「そのことばにいつわりないな」
「けして」
「それでは、カラバルのエセル。おまえの誓いも受けよう。おまえにはイニス・ファールに行ってもらう」
 ジァルがとなりでからだをこわばらせるのを、エセルは感じた。だが、彼女はたしかな声でこの命令を受け入れた。イニス・ファールだろうと、アルマーダだろうと、いわれたところに行くまでのことだ。
「イニス・ファールで、なにをすればよろしいのでしょうか」
 ひざまずいたままで、エセルは顔をあげた。クレヴィンの黒い眼が、かすかに細められた。
「侍女として、花嫁についてもらいたい」



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