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第十章



 古都アーン・アナイスは、つね日頃まとっている謹厳な衣をぬぎすて、よそから来たものが正気を失ったのかといぶかしむほどにわきかえっていた。
 この街がイニス大神殿のお膝元として地上にあらわれてより、数千年の時が経過している。聖なる都と呼ばれるこの街は、すでに人びとにとって、神話かあるいは伝説のたぐいの神秘をまとい、他の凡百の存在とは一線を画した、人ならぬものの徘徊する領域であるかのように認識されていた。
 そこに住むものたちは、もちろんただの人間である。寿命が長いわけでも、神官のようにつねにイニスを意識し、居住まいをただし、真面目くさってすごしているわけでもない。
 第一、偉大なるイニスは、現在深淵にてまどろみの最中にある(と伝説はいっている)。少々道を外れたとしても、卑しい人間の犯した些細なあやまちなど、イニスにとっては何ほどのことでもないだろう。そう、心のうちでわかったつもりになっている分、あるいは他の都市の住人よりも不謹慎であるかもしれなかった。
 ところが、アーン・アナイスの伝説には大いなる権威がそなわっており、そのことに対する住民たちの誇りには並ならぬものがあったので、厳かに日々を過ごすのが習わしであるかのようにふるまうことが、しみついた習性になってはいた。よって、かれらの言う、「俗な他の町」のもののようにそうそう羽目をはずせるわけでもなかったのだ。
 しかるに、今回のうかれ騒ぎはアーン・アナイスのみならず、その属するイニス・ファールの地にある町のことごとくを呑みこんで、最終的にここまでたどり着いたものであった。
 発端は半年ほど前、かねてよりの因縁の相手イニス・グレーネとの戦に勝利を治めたことにある。
 準備に準備をかさねて攻め入ってきた敵に、味方は圧倒的に不利をうたわれていた。予想にたがわずイニス・ファールは押しに押されて、国境近くの砦は陥落寸前にまで叩きのめされた。
 もう、イニス・ファールはおしまいだと、そのとき砦にいたものはだれもが思ったであろう。由緒正しきディアドレの裔は、かつての伴侶、ディアルスの裔についに膝を屈し、あるいは滅ぼされるのだと。それは、かれらにとって、暗い闇の中へと突き落とされるような絶望をともなう認識だったにちがいない。
 ところが戦はその後思いもよらぬ展開をみせ、敵の指揮官を生け捕りにするという、ひと月前までは夢にも見なかった光景がイニス・ファールの民の眼前にあらわれた。その結果、街では勝利の凱歌が声高に歌われることとなったのである。
 ここ数年、イニス・ファールでは凶事がつづいていた。
 長たるレーヴェンイェルムはかなりの月日を病床に苦しみ過ごしており、齢からいっても、そう長いことはないだろうと噂されていた。
 そうこうするうちに、世継である若殿の奥方が産褥に命を落とし、若殿は人が変わったように田舎にひきこもるようになってしまった。
 求心力を失った国は、領主たちの権力争いの場と化した。
 隣国との伝統的な小競り合いにはいつも遅れをとるようになり、領地は川の流れにけずりとられる中州のように減っていった。そのぶん豊かになったイニス・グレーネはますます勢いを増し、強気になってゆく。
 かの国にみちあふれる好戦的な雰囲気は、幾多の部族の領地を行きかう交易商人などから伝え聞かれてはいたものの、長患いの床にある長に敵を迎え討つ気概などもてようはずもない。
 イニス・ファールの事情はもちろんイニス・グレーネにもたらされ、統率者不在のかつての同胞を討つ計略はさらに熱をもって進められていた。
 そのことを従前に知りながら、この国に備えをかためようとする気運は起こらなかった。
 イニス・ファール内には先行きの暗雲をどうにかしてやり過ごせるのではという、後ろ向きな気分が蔓延していた。国をまとめようと先頭に立って指揮を執るものもいず、懸念を覚えてはいた各地の領主たちも自分の足下をかためるだけだった。
 そして、とうとうレーヴェンイェルムを数十年間統治してきた長が息絶えた。
 いまを好機とみて襲いかかってくるに違いないイニス・グレーネを、だれが追い返してくれるのか。領内には不安が渦をまいた。
 人々は自暴自棄になり、命が惜しければここから逃れることだと考えはじめた。事実、機を見るに敏な商人たちのなかには、いまだ始まってはおらぬ戦禍を避けるため、家財道具いっさいとともにティアルカースなどへと逃げだすものも出始めた。
 そんな折りだった。それまで存在すら忘れられかけていた長の息子が、長い眠りから醒めたかのようにレーヴェンイェルムの旗を掲げたのは。
 たがいの足をすくいあうことに熱心であった有力者たちも、この期に及んでは一致団結することに否やはなかった。
 そうして踏みだされた新しい長の一歩は、相当な困難が予想されていたにもかかわらず、大成功をおさめた。
 敵の犯した過ちが戦局を大きく変え、苦戦を強いられるはずが、勝利は転がり込んできたも同然であった。
 完全な負け戦が一転して勝利におわったことは、若き長にかけられる神々の恩寵のあついことを世に知らしめることとなった。
 人々は新しい長を熱狂とともに受け入れた。
 それまで老いて衰弱した長を仰いでいた人々にとっては、かれは若くたくましく、力強い軍神のように見えた。
 かれは象徴であった。生まれ変わるイニス・ファールの、生命にあふれる象徴であったのだ。
 エギリア河沿いの砦からはじまった興奮は、またたくまにイニス・ファール中を席巻した。街道にそって長の居城のあるルマリックから、果ては黒森の端にあるフェロまで。人々は新しい長の誕生に歓声を上げ、これまでの生活を保障される喜びと安堵とをかみしめたのである。
 そして、いま、歓喜はアーン・アナイスにて興奮の最高潮を迎えようとしていた。
 イニス・グレーネからの最後の貢ぎ物が、つい先日、届けられたのだ。
 貢ぎ物の名は、アマリア・ロゼ・ドゥアラス。
 イニス・グレーネの女王ダルウラの手元に残されたたったひとりの娘にして、かの国の世継である姫君だ。
 かれらの長は、いま、戦勝の証としてもっとも大きな獲物を手にしようとしているのである。



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