レーヴェンイェルムの殿の婚儀まであと三日とせまったアーン・アナイスの、人通りでにぎわう石だたみの道を、らくらくとした足取りで通りぬけてゆく男がいた。
この季節にしてはめずらしく、青空さえ顔をのぞかせる上々の天気だったが、いかんせん風が肌を刺すように冷たい。山から吹きおろしてくる風だ。祝賀の雰囲気をもりあげるために飾りつけられた花づなや旗などがあおられ、ときおり身をよじるようにしてはためいている。
山の頂には雪が降りつもり、すでに中腹までが白い衣をまとっていた。アーン・アナイスは浮かれていたが、厳しい冬は、すぐそこまでやって来ていた。
その人物はゆきかう人々をたくみに避けて、ときおりは露店の品揃えを値踏みしたりもした。
風体からゆけば商人のようである。身につけた服は値の張りそうなものではなかったが、それなりに清潔で、感じがよかった。
短い黒髪に、目端のききそうな黒い瞳をしている。南方の血が混じっているのだろう。売り手とのやりとりのなかで、なにかのはずみに笑顔になると、まだ若いのに顔中がしわだらけになり、妙に愛嬌があった。体格的にこの付近のものとそう隔たっているわけではないが、うごきは並はずれて俊敏だ。
歩きながら男は人通りの少ないほうにむかいはじめていた。
かれが足を踏みいれていったのは宿屋や酒場のつらなる界隈だった。
懐の貧しい大神殿への参拝客や勉学に訪れるものたちが夜露をしのぐところ、あるいはひとときの愉しみのために褥をともにするところ。昼間はたいして繁盛することのない店が軒をつらねてたたずんでいるところだ。
せまい小路に入り、高い壁に日をさえぎられた薄暗い道を、男は勝手知ったる者の気やすい足どりでやり過ごしてゆく。あきらかに、目的をもった散歩だ。その顔つきは、慎重で警戒にみちたものに変化していた。
やがて、男は一軒のうらぶれた酒場に入った。
埃っぽいうえに、なにかが腐ったような饐えたにおいが鼻をつく。まともな者ならば長居は避けるだろう、不快な場所だ。
店内は外から来たものには闇といってもよいほどだった。天井からつり下げられたランプは、杯と卓の区別をつけられればいいだろうという程度に、あたりをうすぼんやりとうかびあがらせているだけだ。
しばらく目を凝らして物の形の判別がつくのを待つ。
めざすものはすぐに見つかった。
穴蔵のような酒場の奥に、ひとり粗末な杯をかたむけている女がいた。
暗い色合いに染められた目のつんだ布を頭から被り、山の民のように見えるが、その下から見え隠れするのは上質な侍女の服。そしてうらわかい張りのある肌と、ととのった容貌だった。
こんな店にはそぐわない存在。
だが、女は見事なまでに気配を殺し、周囲にとけ込んでいてめだたない。
男はかすかに感心し、卓に近づいて、女が顔をあげるのを待った。
男の姿をみとめて女の無表情だったくちもとがほころび、瞳にかすかなおどろきと安堵がよぎる。まるで蝋燭に火が灯されたようだった。
「待たせたか」
ジァルはエセルの頬に手をあて、にやりと笑った。
しばらくぶりの再会に、ふたりはしばし無言のまま見つめあった。手をのばせば届く場所にあるたがいの体温を感じながら、沈黙はしばらくつづいた。最後にドゥアラスの館で別れてから、すでに数ヶ月が過ぎていた。
「あんたがここに来ていたなんて、知らなかった」
エセルはジァルに座るようにうながした。男はまだ、くいいるように彼女を見つめている。
「おまえが館に入った後で、こっちに加わるように言われたのさ。お嬢さんの輿入れの下準備のためにってね」
ようやく視線をはずすと、かれはのろのろと寄ってきた主人に安物の地酒を頼み、むかいに腰をおろした。古ぼけてゆがんだ椅子が、重みを受けとめて軋んだ。
エセルは男のまなざしに、熱い息苦しさを感じはじめていた。彼女は杯をとろうとのばした手をにぎられて、面をあげた。
「会えてうれしいよ」
ジァルはいとしげに彼女の手を撫でた。エセルはかわいたあたたかい手の感触におぼれそうになり、心を鬼にして用件を切りだした。
「お願いしたものはどう。持ってきてくれたの」
小声でささやかれると、ことばは、まるで睦言のようだ。
そのことに気づいて思わず顔を赤らめると、ジァルはまなじりにしわを寄せてやわらかく微笑んだ。
小さな薄皮の袋が男の懐からとりだされて、彼女の手の中におしこまれた。エセルはため息をついて袋をながめ、くたくたになった皮の感触を中身の手応えとともにたしかめた。
「煎じたものをなにかに混ぜて飲むんだそうだ…酒か、なにか刺激のあるもののほうがいい」
「そう」
「慣れないやつは、ほんのひとかけでも効くらしい」
ジァルが薬の効能書きを説明するのを聞きながら、エセルは小袋を懐にしまいこんだ。
「なあ」
運ばれてきた杯をもてあそびながら、ジァルは何気ないふうをよそおって尋ねてきた。
「お嬢さんは、大丈夫なんだろうな」
エセルは男の横顔を見あげ、その視線がなにもない空間をさまよっていることに気づいた。聞きにくいことを切り出すときの男の癖だ。
「そんなものを用意させて。なにか不都合なことがあるのか」
ジァルはかすかに口を尖らせ、黙っている恋人に問いただした。エセルはうつむいて、相手がつくため息を不安とともに受けとめた。
「そうなの。お嬢さんは、駄々をこねてるのよ。本番にしくじったら一大事だから、乳母どのがこれを…必要になるかもしれないから」
エセルはあたりをうかがいながら低い声で説明した。ジァルは彼女が隠そうとしている怯えを感じとったようだった。話を聞いても、気に入らないといった感じで目をあわせようとしない。
「――おれは心底驚いたんだぜ」
沈黙の後でジァルは杯を置き、頬杖をついた。エセルは息をつめてのぼってくる複線を受けとめた。
「行列の中でおまえが侍女頭さまの隣にいるのを見つけたときにはよ」
ジァルが声をひそめて言及したのは、イニス・グレーネの一行がアーン・アナイスに入ったときのことだ。
体調のすぐれない花嫁の代わりに、エセルはドゥアラス家の姫君としてイニス・ファールの民の前にあらわれたのだ。
慣習に従い頭から面衣を被っていたので、顔立ちはわからなかったはずなのに、この男は花嫁がアマリアではないことを、いや、エセルであることを見破っていたらしい。
エセルは今度こそ本当に蒼冷めて聞きかえした。
「ほかにだれか――」
「気づいてねえさ」
そっけない返事だったがエセルはほっと肩を落とした。
「急場しのぎだったのよ。あのときはお嬢さんが水にあたって」
早口でそれだけ言うと彼女はつと視線をそらした。
「…こわかった」
肩をふるわせての告白に、ジァルは自分の態度を後悔したようだった。頭をかきながら落ちつかなげに足を組みかえ、エセルの様子をうかがっている。
「でも、もう大丈夫。お嬢さんはお元気になられたから」
「それは本当のことなんだろうな」
まだ疑わしげに念を押してくるジァルに、エセルは小さくうなずいた。
「それを使うのは、お嬢さんなんだな」
「ほかにだれがいるっていうの」
黒曜石の瞳に見つめられながら、エセルは懸命に微笑んでみせた。暗い店内にいることがありがたかった。男は彼女よりもずっと、人を観察することに長けている。日のあたるところでこの動揺をジァルに隠しおおせる自信はない。
茶化した口調には不安がまじらなかったらしく、ジァルはようやく納得する気になったようだった。
「そうだよな」
と言った後で、自分の心配性を小声で笑った。
杯の酒をゆっくりと干したのち、ふたりは酒場を後にした。もう少しともにいられないのかと聞くジァルに、エセルは首をふった。
「すぐに戻るように言われているの。忙しいのよ」
ジァルは不満をおし隠してエセルのくちもとにくちづけた。
「わかってるさ、言ってみただけだ」
かすかに眼で微笑んで、男は彼女の背中を押した。
「今度会うときは、おれがその薬を飲んでもいいな」
エセルは吹き出して、たくましい身体に抱きついた。
「必要もないくせに」
人気のない寒々としたせまい通りで、ふたりはしばらく抱きあったままうごかなかった。
たがいの体温を感じ、たがいの息づかいを感じ、吹き抜ける風の冷たさに怯んだままで。
この次はいつ会えるのか、ふたりとも想像することもできない。
あるいはこれが最後なのかもしれない、永遠に会えないのかもしれない。そうした想いが、ふたりを別れがたくさせていた。
はじめに身をひいたのはエセルのほうだった。
彼女は男の腕からするりとぬけでて言った。
「もう、行くわ」
ジァルは不意討ちをくらって、放心したようにまばたきをした。
「ああ」
いたたまれずにエセルは走りだした。
ジァルの側にいるのがつらかった。
アマリアの衣装を身につけた自分を見分けられたと知って、胸が熱くなった。
かれに対して、こんな気持ちになったのは初めてだった。ジァルは彼女を、エセル個人として見ているのだ。だからこそ、不安を見ぬかれ、とりつくろった理由をも言いあてられそうになった。そんなことを許してはならない。
媚薬をとりよせたのは、ムールンの命令だった。
侍女頭は新婚の初夜に対する不安を解消するためにと、花嫁にふくませることにしたのである。もちろん、アマリアはこのことを知らない。
アマリアのことを思うと、不安だった。
世継ぎの姫のあれほどの変わりようを、なぜだれも認めようとしないのだろう。
アーン・アナイスに到着して、エセルはようやくアマリアと顔をあわせた。
健康的だった頬は色を失い、眼は感情を失ったかのようにうつろ。髪の毛を切り落としたときの光り輝くような意志の強さは失われて、どこにも見いだせなかった。
盗賊に捕われたときに、どのような経験をしたというのか。生気のない白い顔を見るたびに、言いようのない不安に襲われる。
なにを恐れているのか。
エセルは自分の不安を形にしたいとは思わなかった。恐怖を目の前にさらけだしたとしても、いまは立ち向かう自信がもてない。
石だたみを足早に歩きながら、エセルは懐に入れた小袋の感触を確かめた。
婚礼の儀式をつかさどるイニスの大神官は、すでに聖なる女神の島より到着した。もはや、この縁組を妨げるなにものも存在しない。
三日後には、神代の昔にイニスの双腕とうたわれたディアルスとディアドレの裔が、積年の諍いの果てに結びつくのだ。双方が計算ずくの醜い取引ではあったが、だからこそなんとしても成功させなければならない。
そのためには、犠牲になるものも当然存在するのだ。
エセルはふいに立ちどまり、後をふりかえった。
行きかう人並みに、気づかわしげに微笑む浅黒い顔の男を見つけられないかと。