数多いロノスの旅篭の中でもとくに大きく由緒ある宿のひとつ、大通りの〈白い角〉亭は、夕刻をむかえて一階の酒場を訪れる人が増え、黄昏ににぎわいを漂わせていた。
雲の隙間から時折さしこむ傾きかけた日の光を背に、クレヴィンは愛馬を宿の馬丁にまかせ、大股にひといきれの中に踏みこんだ。
かれの姿を認めた宿の主人が奥からよってきて、おもねるようにひとしきり話をした。よく肥えててらてらとした顔は、イニス・グレーネの若い指揮官と秘密をわかちあっていることに、よこしまな喜びを感じているようだ。
かれは後からやってきたタランにうなずき、くたびれた皮の巾着から数枚の銀貨をごつい掌におしこませた。
主人は平然と金を懐にしまいこみ、ふくみ笑いをしてみせる。
「ごゆっくり」
心得たつもりでいる主人の声に見送られながら、ふたりは二階の端にある特別室にむかった。
階段をきしませ、暗い廊下をつきあたりまでゆくと、立派なしつらえの大きな扉があらわれる。
ノックを二回、叩きつけるようにすると、中から緊張した返事があった。
「なんでしょう」
クレヴィンは必要もないのに声を低めた。
「おれだ」
扉はすぐに開かれ、アルベスがほっとした様子で立っていた。
「遅かったですね」
タランに下で待っているように言いつけて部屋に入ると、クレヴィンはどっかりと凝ったつくりの椅子に腰かけた。肩から留め金をはずすと、すかさずアルベスがマントをうけとった。
「参詣にゆくものを選ぶのにてまどった」
卓の上に置かれた水差しに手をのばそうとすると、従者が横から手をだした。アルベスは深い杯をぬるい水でみたして、あるじに向かってさしだした。
クレヴィンはそれをひったくって飲みほした。
燭台の炎が照らす顔には、うっすらと脂がうかんでいた。くちもとにしわを刻んで、半眼になる。
「侍女頭さまは、心を決めた。あす、出発する」
アルベスは足音をしのばせて部屋をよこぎり、扉の錠を確かめた。
「きょうは、身代わりに参詣をさせたんだ」
参詣はアマリアの名のもとに数人の侍女たちが代理で行うことになった。
事情をわきまえた侍女がひとりつき添ってゆき、あらかじめ報せておいたドゥアラス出身の神官によって儀式はつつがなくとりおこなわれた。これに神殿まで護衛として同行したため、宿にくるのが遅れたのだ。
「そうだ、おまえが見つけてきたこどもを神官に預けてきたよ。あんまりいい顔はされなかったが、面倒はみるといってた」
保護されてからひとことも話さなかったこどもは、クレヴィンの顔を意味ありげに一瞥したのちに神官によって奥へと連れて行かれた。仲間を皆殺しにされたこどもに何かを期待していたわけではないのだが、正直言って、あと味の悪い出来事だった。
愛想のないこどもになにくれとなく世話を焼いていたアルベスは、かすかに微笑みをうかべたが、尋ねたのは別のことだった。
「あの侍女が神殿に行ったのですか」
クレヴィンは首をふった。エセルが生娘でないことは雇う前から知っていたことだ。
「そんなことより、こっちはどうなんだ」
アルベスの妙な好奇心を無視して、クレヴィンは報告を求めた。
従者はいっぺんで浮かない顔になり、きまりわるそうに隣の部屋につづく扉をながめた。
「お変わりありませんよ。食事も召し上がりませんし、くちもおききになりません」
すっかり同情のぬけた、疲れというよりあきれの見えるものいいに、クレヴィンは不快げに従者を睨んだ。アルベスは顔をそむけ、肩をすくめる。
「とにかく、クレヴィンさまを非難しどおしで」
小声でつけくわえられたことばのあとで、クレヴィンは立ちあがった。椅子が床とぶつかってたてる音に、アルベスははっとなった。
クレヴィンは従者の恐れをわざと無視して背を向けた。
アルベスには従者としての本来の職務からはなれて、宿屋で女ふたりの護衛をさせている。それまで影のようにつき添ってきた者がかたわらにいないことに、クレヴィンもとまどっていた。
おそらく、アルベスのほうにも不満があるのだろう。ふたりとも、トレナルの死には、まったく触れずにいる。あるじを失ったタランのことを考えるまでもなく、話題にするような気分にはならなかった。
ここでやりあっても、いいことはひとつもない。
癇癪をこらえながらクレヴィンは寝室への扉を開けた。
そこは二方向に張りだし窓のある角部屋で、アルベスがひかえているところよりもいくぶん明るく、あたらしい寝藁の匂いがしていた。宿の主人がクレヴィンの愛妾のためにと気をまわして用意した部屋だ。
片方の窓によせて大きな天蓋つきの寝台があり、刺繍の施された豪奢な帳を半分垂らした中に、長い褐色の髪をひとつに編んだ娘がよこたわっていた。
部屋は暗いが、アマリアの小さな顔がやつれて蒼冷めているようすは、クレヴィンの胸に焼きついている。あらためて見るまでもなかった。
そばの小さな椅子に、アマリアとともに救い出された侍女の姿があった。
かれが静かに扉を閉めると、侍女ははじかれたように立ちあがった。
「クレヴィンさま、いつおこしになったんですか」
どうやら侍女は居眠りをしていたようだった。あわてて燭台の蝋燭に火を灯し、夕暮れの薄闇に沈みかけていた部屋にあかりがうまれた。それから彼女は窓にとりついて、身の丈の何倍もある帳をひき、冷気が入りこまないようにした。
「いましがただよ、フォラ。アマリアはどうだ」
「クレヴィンなの」
侍女が答える前に、気配に目覚めたアマリアが寝台の上で寝返りをうった。
「きょうはなんとしても、スープを召し上がっていただくつもりだったんですけど」
きまじめな侍女は寝台のかたわらにある椅子をクレヴィンにさしだした。かれが腰かけると、ため息をついて気弱に笑いながら愚痴る。
「このままでは骨と皮ばかりになってしまいます」
「食べたくないの」
アマリアは枕に半ば埋まりながら不機嫌に言った。
侍女はアルベスよりもやや親しみのこもった苦笑を残して退出した。
クレヴィンはフォラの忍耐強さと献身に心から感心していた。
彼女はアマリアとおなじように、いや、たぶんそれよりもひどいめにあったのにもかかわらず、みずからの不幸を嘆いたり、自分の殻に閉じこもったりすることなく、献身的にアマリアに尽くしてくれていた。
そうした実際的な冷静さは、フォラの医師の娘という生い立ちにあるのかもしれない。生まれたときからかしずかれて育ってきたアマリアと違うことは、よくわかっているつもりだが。
「きょうは遅かったわ」
アマリアはそっぽをむいたまま、クレヴィンが弁明するのを待ったが、返事はなかった。
「なにをしていたのよ」
沈黙に我慢できなくなったアマリアは上体を起こそうとしたが、息切れをおこして枕にあおむけに倒れこんだ。クレヴィンはため息をつきながらアマリアを抱きおこし、そばにあったクッションをいくつか背中にあてがってやった。
「食べないからだ。からだがもたないぞ」
非難めいた口調になってしまうのは、同じことばを何度くりかえしたかと無意識に思ってしまうせいだろう。アマリアはそれを敏感に嗅ぎつけて、かれの腕をおしのけた。
「食べたくないって、言ってるでしょう。においを嗅ぐだけで、吐きそう」
アマリアは言うと同時に吐き気までも思い出しているようだった。両手でくちもとを覆って顔をしかめている。
長さの違う髪がばさりと肩にかかり、クレヴィンはふいを突かれてどきりとした。
「クレヴィン」
アマリアは弱々しい声で尋ねた。
「わたしのことを考えてる?」
「考えてるよ」
できるだけやさしく、クレヴィンは答えた。
「それなら、なぜ、ずっとここにいてくれないの。ひとりぼっちで、こんなところに置き去りにしないで」
「ひとりじゃないだろう。フォラがいる。アルベスだって」
「フォラなんて、なんの頼りになるっていうの。あの娘は、わたしの目の前で手込めにされたようなものなのよ。穢れてるのよ。顔も見たくない」
アマリアの声が神経質にふるえ、クレヴィンは寝台に腰かけてそっと肩を抱いた。
「アマリア」
むきだしの腕をさすってやりながら、耳元でささやくように言い聞かせる。
「それはフォラのせいじゃない。さらわれたのも、暴力を受けたのも、彼女に罪はないんだ」
科を受けるべきは、ベレックだ。
そう言いたいのを我慢して、クレヴィンは腕を放し、伏せられた娘の顔をのぞきこんだ。
「ほんとうに、そう思っているの」
大きな瞳にみつめかえされて、クレヴィンはかすかにひるんだ。
アマリアはまたもやわずかな表情のうごきをとらえた。
「あれは仕方のなかったことだと、ほんとうに思ってる? どうしようもなかったことだと、逃げようとしたって無駄だったと、ほんとうにそう考えてる?」
矢つぎばやに問いかけられて、クレヴィンはうなずくしかなかった。アマリアは敷布の上についたかれの手を驚くほどつよくにぎりしめ、必死になってかれを見つめていた。
どれだけ傷つけられ、恐ろしいめにあったのか、アマリアはひとことも口にしようとしなかった。しかし、顔につけられたあざは、薄れてはきたもののまだはっきりと残っている。
痛ましさに胸が熱くなり、だが、安心させようとしてクレヴィンが言おうとしたことばは、強い否定でさえぎられた。
「うそ」
「うそじゃない」
むっとして言いかえしたが、アマリアは納得しなかった。
「うそよ、大嘘つき。クレヴィンはフォラが穢れたと思ってる。彼女を哀れんで、嗤ってる。かわいそうにって、同情してやるふりをしながら、ほんとうは姦られてうれしかっただろうって思ってるくせに」
「アマリア、そんなことばを口にするんじゃない」
クレヴィンはつよくたしなめた。が、アマリアはさらに言いつのった。
「わたしのことも、そう思っているんでしょう。卑しい賊に辱められて、臆面もなく生き恥をさらしてるって。それで安心しているのよ。夏前だったら、穢れた女を妻にしなければならないのは自分だったのに、それをしなくてすむんですものね。イニス・ファールのレーヴェンイェルムに押しつけて、自分はかくれて嗤っていればいいというわけよ」
「アマリア!」
クレヴィンは怒鳴りながら娘の腕をつかみ、右腕をさしあげてふりおろそうとした。
アマリアの恐怖に見ひらかれた瞳が、かれを思いとどまらせた。からだじゅうを凍りつかせ、おびえてかれを見あげている。そんなふうに従妹に見つめられたことは、これまで一度もなかった。
手をはなすと、アマリアは泣き伏した。
「そんなつもりじやなかったんだ。おまえがわけのわからないことを言うから、つい、カッとなって」
後悔しながらクレヴィンは泣きじゃくる従妹をなだめた。アマリアをどうあつかってよいのかわからない。とまどいといらだちに、胸が焼けるようだった。
「自分を貶めるようなことを言うのは、やめるんだ」
「だったら、わたしの言うことを聞いてよ」
涙に濡れた顔をあげて、アマリアはまっすぐにクレヴィンをみつめた。
「いつだって、聞いてるだろう」
クレヴィンは顔にふりかかった髪の毛をかきあげてやりながら、アマリアの真剣な顔をながめた。
「まじめに聞いて」
「聞いてるよ」
「聞いたことを信じて」
ゆっくりとため息をつき、若者は娘の頬を指でぬぐった。
「何度も言うようだけど、それは夢だ」
とたんに疲れたように顔をしかめるクレヴィンに、アマリアはうらみがましい視線をつき刺した。
「おまえはレセニウスに会ったと言う。そして、危ういところを救けられたと。だが、授かったという短剣はどこにもない。フリストがおまえを運んできたのは不思議なことだが、それがレセニウスにむすびつくとも思えない。やつはもとから、おまえによくなついてたんだからな」
「でも、わたしはレセニウスの祝福を受けたのよ」
アマリアは頑固に言い張った。
「だから、夢を見ていたんだよ」
クレヴィンは、意識が戻ってからアマリアが奇跡の物語を何度となくくりかえすのに、うんざりしはじめていた。
はじめてこの話を聞かされたとき、ベレックなどは妹は狂ったのだと本気で思っているようだった。
他の者は恐ろしい体験のせいで気が動転しているのだと考えて、大目に見ていた。落ち着けば、夢まぼろしとうつつの区別もつくようになるだろうと、たかをくくっていたのだとも言える。
しかし、アマリアはひとつ角の神に会い、祝福を受けたと主張するのをやめなかった。
幸いなのは、クレヴィン以外の者はここを訪ねようともしないことだ。いまのところ、アマリアのうわごとが外にもれる気遣いはなかった。
「わたしを護ってくださると言われたわ」
熱っぽいその口調から嘘をついているのではないことはわかっていた。だいたい、彼女はかれに嘘をついたことがなかった。ついたとしてもすぐわかる。
だから、夢を見たのだろうと言って聞かせるのだが、いっこうにうなずこうとしない。真実、一角獣の姿をした神に会ったのだと、信じているらしいのだ。
アマリアは、鳴咽をかみころしながら、クレヴィンのがっしりとした肩に両腕をまわした。しがみついてくるやわらかいからだに、かれは身をこわばらせた。
「アマリア」
「わたしと逃げて」
耳元でささやかれたことばが、クレヴィンの手をとめさせた。ゆびはアマリアのむきだしの肌をかすめて敷布の上に落ちた。
「一緒に逃げるのよ」
「なにを言って…」
アマリアはわずかに身をひき、正面からクレヴィンの瞳を見すえた。くいこんでくるのではないかと思われるほどに、強く見つめた後で、アマリアは唇をかれの唇にあわせた。
クレヴィンはアマリアをおしのけようとしたが、掌は熱い肩に触れたとたんに吸いついてはなれなくなった。アマリアはかれの顎をとらえていた両手を、首筋から肩へと這わせた。同時にあたたかな――否、病んで熱を持ったからだをおしつけてくる。
身体の芯が燃えたつように熱くなった。
頭の中の警鐘が鳴りはじめ、クレヴィンはなんとか身をひきはがした。
肩で息をしながら、従妹の顔を見る。
やはり荒い息の下から、アマリアはなじった。泣き声だった。
「わたしを愛していると、言ったのに」
「言ったさ」
「それなら、わたしを抱いて。一緒に逃げて。あなたが好きなの。他の男になんて、触られたくないの。お願いよ」
泣きながら懇願する従妹に、なんと答えればよいのか。クレヴィンはしがみついてくる娘の身体をはらいのけることも、抱きしめることもできずに途方に暮れた。
「アマリア」
鳴咽にふるえる肩に慎重に手をのせて、かれはひくい声で言った。
「言っただろう。イニス・グレーネをたすけられるのは、おまえだけなんだ。捕われたお館さまを救い出したくはないのか。どれだけお辛いめにあっておられるか。イニス・グレーネの女王の伴侶ともあろう者が、敵に捕えられ、身を拘束されているんだぞ」
冷たい現実をつきつける声が、魔物のもののように暗闇に響く。
情けしらずの冷血なことばに、かれは我が事ながら情けなくなった。
こうなったのはアマリアのせいではなく、どちらかといえばかれのほうにこそ、問われるべき責がある。負け戦に参加したのは、かれであってアマリアではないのだから。
だが、それゆえに、アマリアのわがままはいらだちを誘った。失策を責められているような気がして、居心地が悪くなる。理不尽ではあるが、どうしようもない。
そのうえ、彼女を救うために、幾人もの男たちが血を流し命を落としている事実が、アマリアの輿入れを決めたのは自分だという現実が、クレヴィンには重くのしかかる。
アマリアは首をふってなにごとか口にしようとしたが、涙ばかりがあふれてことばにならなかった。
「女王に言ったんだろう。自分は、イニス・グレーネのアマリア・ロゼだって」
強い調子で言ってしまった後で、クレヴィンはアマリアの顔がみるみるうちにこわばってゆくのにひるんだ。
かれは後悔しながらアマリアをやさしく抱きよせた――あくまで、兄のように。
これからはそのとおりの存在になるしかないのだ。
「森で誓ったじゃないか、イニスにかけて。おまえも誓っただろう。忘れたのか」
「もちろん、覚えてるわ」
仕方なしの返事だった。
神聖な誓いを口封じの道具にしている自分に驚きながら、クレヴィンは言い切ってみせた。
「それなら、おれを信じてくれ」
信じてくれと言ったのは、彼女のほうだったのに。
アマリアはしばらくためらっていたが、けっきょくはうなずいた。
「それでこそ、おれのアマリアだ」
うなだれたままの娘にクレヴィンは明日、目的地へむけて出発することを告げた。
最後通告だと、かれは思う。
そして、とにかくなにか口にするように言いつけて、そそくさと部屋を出た。
放心したようなうつろなまなざしが気がかりだったが、これ以上とどまることはできなかった。領主の館で夕食が始まってしまう。
アルベスとフォラに出発の支度をするように告げ、酒場で顔のほんのり染まったタランを連れて宿屋を出ると、秋の日はとうに暮れて、とぎれた雲の隙間から群青の夜空が見え隠れする時刻になっていた。
翌日、イニス・グレーネの花嫁の一行は、婚儀のとりおこなわれる聖なる古都アーン・アナイスヘむけて出発した。