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 すべての神々の母であり、またすべての神々そのものでもあるイニス。
 一なるイニスの偉大なそのかたわらには、つねにふたりの神がひかえていた。イニスが初めに生みだした、彼女自身のもっとも深く、核に近い部分からあらわれた神である。
 左にディアルス、右にディアドレ。
 二柱の神はイニスの片腕として神代において大いなる力をふるった。ゆえに、イニスの双腕と称され、あるいは双生神とも呼ばれた。相手を補いあう力をそなえた二神は、かつてはそれは仲のよい、似合いの一対であったという。
 のちに二神は諍いをし、たがいにたがいの側にいることを厭って地上に降りた。諍いの理由は、こんにち人に伝えられてはいない。
 ディアルスとディアドレの仲違いは地上においてもおさまらず、それぞれがべつの伴侶を見いだし、人として子をもうけるまでにいたった。
 イニス・グレーネとイニス・ファールの始まりである。
 かれらの怨恨は子々孫々につたえられ、いまに至るまでも終わりを見ていない。
 しかし、いつか和解の時が来、かつての関係がとりもどされることを夢見ないわけではなかった。
 イニス・ファールに代々伝わる長の婚儀の礼は、双腕神が和解し、再びたがいの伴侶となることを願って行なわれる、一種の劇ともいえる儀式である。
 長はディアドレの、その伴侶はディアルスの現し身として、過去を許し、現在と未来を誓いあう。
 アマリアはしかめ面をしながら髪を梳いていた。
 張りだし窓の腰掛けにクッションを置き、その上にすわって半身を分厚い壁にもたせかけながら。
 その位置からだと、正午を迎えようとしているアーン・アナイスの様子がよく見えた。
 石造りの堅牢な街だ。高い建物が視界をさえぎり、空が破片のようにしか見えない。冬はさぞ陰鬱に感じられることだろう。
 だが、いまは春がやってきたかのように浮き立っている。色とりどりの装飾や花々が街を飾り、ゆきかう人々の表情は遠目にも明るい。
 通りをかけぬけてゆくこどもたちの歓声が、透明度の高い硝子窓越しにひびいてくる。
 初めて訪れた古都は、アマリアの予想をはるかに超えていた。
 儀式のために訪れている者がかなりいるというが、それでもこれだけの建物があるのだ。ここで日々を営んでいる人間は、ゴス・グラインの倍はいるだろう。アマリアがこれまで見たことのあるすべての人間をあわせても、まだ足りないかもしれなかった。
 それでも、ここはレーヴェンイェルムの本拠ではない。
 イニス・グレーネにはゴス・グライン以上の街はなかった。みな、それぞれの領地にそれなりの間隔をたもって住みわけていたのだ。
 聖なる古都ということばの響きにだまされていた。厳かで神聖な大神殿の静謐は、どこへいってしまったのだろう。
 褐色のほそい髪がゆびにからんで頭皮をひっぱった。痛みに顔をしかめ、アマリアは櫛をいらだたしげにひきぬく。
 にわかに悔しさがこみあげてきて、にぎった櫛を床に叩きつけた。櫛は敷きつめられた絨毯にぶつかり、はねて部屋の中程まですべっていった。そのようすを見つめながら、アマリアは唇を噛みしめていた。
 ディアルスとディアドレ。
 双腕神のあらたな結びつきなど、茶番だ。
 さる貴族の別宅だという、街の中心からはずれたところにある石造りの大きな館を、イニス・ファールのアンドゥリスという男の案内で訪ねたのは、旅装をといた翌日のことだ。
 立派ではあるが陰鬱な雰囲気の建物の一室が、イニス・グレーネの女王の伴侶のために用意された独房だった。
 数か月ぶりに父親の姿を見たアマリアは、声もなく立ちつくしていた。
 それまでアマリアは、別れた日に見たそのままの父親と再会できるものだと信じていた。
 だれよりも威厳にみちた戦士であり、荒くれ男たちの尊敬を一身にあつめる指揮官である父親。イニス・グレーネの強さの象徴であり、女王の誇りでもあったアーギル・メネス・ドゥアラス。ディアルスの裔を認じるドゥアラス家にあって、もっとも神に近い存在――女王の系譜はのぞいて――それがアマリアの父だった。
 しかし、暗く静けさにみちた館のもっとも大きな部屋の中、大きな天蓋つきの寝台の上に横たわる男に、かつての面影はなかった。
 額や口元に深くあるいは細くたくさん刻まれたしわ。薄くなり、色の褪せた髪の毛。頭蓋の上を皮だけが覆っているかのようにこけた頬。
 アマリアはわが目を疑い、寝台の側にかけよった。
 気配に気づいたアーギルは血管の浮きでたまぶたをふるわせた。まつげには目脂がこびりついており、目を開くまでにかかる時間の長さが、男の衰弱をさらに印象づけた。
 アーギルは枕元に立っているアンドゥリスの燭台の火にまぶしげに眼をしばたかせ、さらにしばし視線をさまよわせた後、ようやくアマリアに気づいた。
「父上」
 父の変貌にまだ信じられぬ思いでいたアマリアは、うわずった声で呼びかけた。
「…アマリアか」
 その声はそれまで聞いたこともないほど嗄れて、まるで伝説の永遠に死なないという老人のもののようだった。どれだけあたりが騒がしくても、一声で衆目を集めたよく通る快活な声ではない。
 もしや、イニス・ファールは父と偽って別人をあてがおうとしているのではないか。あるいは、アーギルはすでにこの世にはいないのかもしれない。とうに女神に召されて、深淵へと旅立ってしまったのかもしれない。
 だが、どれだけ声量が失われようと、つやが消えていようと、それは父の呼びかけだった。ほかの誰にもまねることはできない。名前のあたまにかすかな抑揚が入る、自然とふりかえってしまうような呼び方だ。
 のろのろと差し伸べられた腕にある金の環にも、見覚えがあった。ダルウラが伴侶となるアーギルへと贈った、契約の腕環だ。父がこれを手放すはずがない。
 父の腕は、痩せ衰えて腕環がとまらないほどだった。壮年としては並はずれて逞しかった体躯が、立ち枯れた樹のようにすっかりしぼんでしまっている。
「――おまえの母親はどうしておる」
 アマリアは骨張った父の手をおそるおそるとって、両手でつつみこんだ。
「お元気です。父上」
 満足に舌がうごかないらしく、アーギルのことばはまどろっこしくて聞きとりづらい。
 アマリアは懸命になにかを言いかけている父親を、手をにぎって励ました。
「そうか」
 ゆっくりとうれしそうにうなずく姿に、胸が熱くなった。額にある治りかけた傷痕や、かわいてひび割れた唇の黒ずんだ色に気づくごとに、いいようのない想いがわきあがる。
「エヴィルはどうだ」
 なにを問われているのかわからずに、アマリアは父親の弱々しい顔を見つめた。
 当然のように尋ねられた姉の消息。それが、なにを意味しているのか、悟るまでにはまた、わずかな間が必要だった。
「父上。姉さまは…」
 死んでもう一年以上たつのだと口にする前に、アーギルは穏やかな微笑みをうかべて言った。
「じき臨月だ。からだにはよく気を遣うように言っておくれ」
 アマリアはアンドゥリスを睨みつけた。
 アーギルは娘のようすには気づかずにぶつぶつとなにやらつぶやきつづけていた。イニス・ファールの男は敵意にみちた視線にさらされているにもかかわらず、落ち着きはらって言った。
「お父上は落馬の際に背骨を痛められたうえ、頭も少々。医師の話では、時間をかけて養生すれば、もとに戻られるかもしれないとのことです。できうるかぎりのお世話はさせていただきましたが」
 淡々とした説明の間、男のまなざしは非難されるいわれはないと冷然と告げていた。
 小娘の敵意を嘲笑するように、アンドゥリスはアーギルが受けた治療や待遇を事細かに述べたてた。
 アーギルは捕虜というより、貴賓としてイニス・ファールに滞在していたのだと、アンドゥリスは言いたかったのらしい。本来なら牢屋につながれ、肉体労働をさせられても文句のいえないはずの捕虜が、申し分のないもてなしを受けていた。感謝すべきだというのだろう。
 アマリアは熱い涙がわきだすのを感じて、眼を閉じた。
 イニス・ファールはアーギルがたしかに生きているところを見せつけた後、契約がすべて果たされるまではと、目の前からもち去ってしまった。
 父親の身柄は、まだ、あの大きな寝台の上にある。まるで大きな棺桶のような石造りの冷たい建物の奥にしまいこまれたままだ。
 アマリアがレーヴェンイェルムの殿との契約を履行するまで、アーギルは解放されない。
 ゆがんだ微笑をたたえたアンドゥリスの護る館で、病にやつれ正気を失って、敵にいいように弄ばれつづけるのだ。
 顔色を失ったアマリアを見ながら優雅に燭台をさしのべるアンドゥリスの姿が、まぶたの裏に焼きついている。
 かれは嗤っていた。傲岸不遜な勝者の態度で、アマリアを、そして父親を嘲笑っていた。
 おまえたちはなにもできない。おまえたちに逆らうすべはない。おまえたちは負けたのだ。
 皮肉にも、そのことばはクレヴィンのものと重なって彼女を苛んだ。
 イニス・グレーネをたすけられるのはおまえだけだ。
 あのときの絶望的な想いが、よみがえってくるのだ。アンドゥリスの微笑とともに。
 ディアドレはディアルスと和解するのではない。
 ディアドレはディアルスを負かしたのだ。
 現実は火を見るよりも明らかではないか。アマリアはよく言って人質、実際は時間を得るための供物にすぎない。
 うわべは丁寧で礼儀正しい応対と、豪華なうえに細部までゆきとどいたもてなしにとりつくろわれていて、だからこそ余計に屈辱は大きかった。
 喉から鳴咽がもれそうになるのをのみこんで、アマリアは顔をそらせた。
 寝台の上には婚儀のための衣装がひろげられている。母親の好みでつくられた白い服だ。清楚でありながら優雅さと華やかさをかねそなえる、繊細で手の掛かった、とてつもなく高価な服だった。
 扉を叩く音がし、ついで侍女が名を呼んだ。
「アマリアさま」
 入室の許可をあたえる間もなく扉は開かれ、フォラが姿をあらわした。
「お目覚めでございますか」
 一目瞭然のことを尋ねる侍女に、アマリアは返事をしなかった。
 フォラはかまわず、部屋をよこぎって壁際に切られた暖炉に近づき、火掻き棒で燠をかきおこした。
「寒くはございませんでしたか。なにか温かいものでもお持ちいたしましょうか」
 アマリアは冷えきった素足の先をすりあわせていたのをやめて、くちもとをひきむすんだ。
「蜜湯をちょうだい」
 ぞんざいに命じるとアマリアは立ちあがって窓から離れた。
 目のつんだ織りの絨毯を踏みつけながら夜着の胸元をかきあわせ、かるくみぶるいをした。
 小半時も前にぬけでた寝具の中にもぐりこもうとしたアマリアは、フォラがまだ部屋から去っていないことに気づいて不機嫌になった。
「どうかしたの」
 アマリアはふりかえって、自分よりも五つは年上と見える侍女にいらだたしげな一瞥をなげた。
 フォラはアマリアの大嫌いな微苦笑をうかべて立っていた。どうやら、尋ねられるのを待っていたらしい。
「侍女頭さまが、式の前にお話があるとおっしゃっておりますわ。それまでにお支度をなさったほうがよろしいのではありません?」
 もう一度きつい視線をあびる前に、フォラはそそくさと部屋を出ていった。
 盗賊の巣から救けだされてからいままで、献身的に看病をしてきてくれた侍女ではあったが、アマリアはフォラが好きではなかった。
 事情を知る他の者たちはフォラのことを忠誠心の篤い、芯の強い女だとみなして感嘆していた。クレヴィンもその例にもれず、フォラをすっかり信用しているようだった。だからこそ、いまもこうしてアマリアの側仕えをつづけているのだ。
 けれど、アマリアにとって、フォラは気だてのよい女でも、芯のつよい女でもなかった。
 フォラがアマリアを見る目は、汚辱にまみれたものを見る目だった。ときおり口元にのぼせる微苦笑は、自分より下の者を許してやっているという傲岸な愉悦にみちたものだった。
 汚泥から逃げだしてきた記憶を忘れたいのはわかる。だが、なぜアマリアをそこまで蔑むのだろう。
 フォラの態度は自分とアマリアをはっきり区別している。まるで、悪い過去をすべてアマリアにかぶせようとしているようだった。
 もしかすると、フォラが胸にいだいているものはアマリアに対する悪意ではなく、魔なのかもしれない。彼女が巣食わせているのは、悪夢を見た後で生きてゆくために生みだしたねじれた論理なのだ。
 それゆえに、アマリアはフォラに対して嫌悪とともに恐怖を感じた。
 廃墟となった神殿の巫女に対していだいたものと変わらぬ、奈落のように深い恐怖だ。
 ジェーナの虚ろな瞳の深淵にかいま見た、狂気をもたらす暴力に対する恐怖だ。
「アマリアさま」
 気遣わしげな呼びかけがすこしばかり開かれた扉の隙間からして、アマリアは顔をあげた。
 暗がりに立っていたのはフォラではなかった。
「申し訳ございません。お返事がないものでどうなさったのかと」
 エセルは遠慮がちに顔をのぞかせて、入ってもよいかと尋ねた。アマリアはうなずいて、にじんできた涙を手でぬぐった。
「さあ、熱いうちにどうぞ」
 湯気のたつ大ぶりの杯を手渡されて、アマリアは蜜湯のほんのりと甘いかおりを嗅いだ。かたわらでエセルの眼が、用心深く見守っているのが感じられたが、フォラのときのようないらだたしさは感じなかった。
 アマリアはゆっくりと蜜湯を口にふくんで飲みくだした。火傷をしそうに熱かったが、冷えた身体にはちょうどいい。
 エセルの無表情はどこか気遣わしげで、もうひとりの侍女のこれみよがしの親しみやすさよりも安心できた。アマリアは飲み終えた杯をかえして、かすかに微笑んだ。
「ありがとう」
 侍女はちょっと困ったような顔をして微笑んだ。
「お礼を言われるようなことではありませんわ。私の仕事ですから」
「わたしが言いたいんだからいいの」
 アマリアは自分のものとよく似た色合いの瞳がかすかに見ひらかれるのには気づかず、ため息をついて唇をかんだ。
「アマリアさま…」
「伯母上はなんのためにいらっしゃるの」
 エセルは空の杯を卓上の盆に置き、ゆったりとした仕草で立ちあがった。窓際へゆきカーテンをあける後ろ姿は、返答に窮してのものか、間をはかってのものかはわからない。
「この期におよんで無駄なことはするなとでも言いにくるの。レーヴェンイェルムの殿が醜い太った中年ではないから安心おしとでも言うのかしら。伯母上のことだから、もっと実際的なことかもしれない。ねえ、エセル」
 アマリアは低い声で淡々と問いをつづけた。エセルが心配そうにふりむいて、じっと見ているのはわかっていたが、皮肉をやめる気はなかった。
「ムールンさまは姫さまを気にかけておいでなのです」
 侍女は穏やかな態度と口調を崩さずになだめようとしたが、アマリアはさらに言いつのった。
「たしかに伯母上は他の人よりも気にかけてくださるわ。日に一度訪れる兄上はわたしよりもおまえに関心があるし、侍女の中にはイニス・ファールのほうが雅びやかで、田舎臭いイニス・グレーネよりも気に入ったなんて言うものもいるのよ」
 彼女らは、アマリアたちに降りかかった災難については何も知らない、後発隊とともにやってきた侍女たちだ。華やかな婚礼の準備に浮かれ気分で臨んでいるのも仕方がないが、アマリアの神経にさわることこのうえなかった。
 それに、一度も顔を見せないものもいる。
 アーン・アナイスにやってきてから、クレヴィンは一度もアマリアに会いにこない。
 従者に託して言伝てをよこしはするものの、避けられていることは明白だった。
 クレヴィンの仕打ちを思い出して、ふたたび泣きだしそうになるのをこらえた。
 従兄の本当の気持ちがわからない。そんな思いをする日がやってこようとは、考えたこともなかった。考えた方がよかったのかもしれない。ただひとつゆるぎない真実と思っていたことが、いまではひどく頼りない。
 かれのことばを信じてよいのだろうか。信じられるのだろうか。
 アマリアにはもう、わからない。
 クレヴィンはアマリアの神聖な体験をふみにじり、夢まぼろしと決めつけた。自分を信じてくれもしない男のなにを信じろというのだろう。
 アマリアはおかしくなっているのではないか。
 そうクレヴィンが疑っていることに、気づかないとでも思っているのだろうか。
 レセニウスに会ったときには、あれほど幸せでみたされたことはないと思った。
 神の偉大な力の一端に触れ、そのはかりしれない強さと大きさに感動し、これで自分は救われるのだと信じた。
 ひとつ角の神のことばに、鮮烈な希望を見たと思ったのだ。
 あの瞬間は、まさに至福のときだった。なんの不安も恐怖も感じなかった。いやなことは消えてなくなり、これからすべてはうまくゆくのだと、自分が不幸になることはないとさえ信じた。
 それなのに、いま彼女がすがることができるのは、ただ信じろというクレヴィンのことばだけだ。
 こんなことなら、あのとき、自分を守ろうとして文字通り命を投げだした騎士とともに、喉を突いて死んでいるのだった。
 トレナルのいいなづけは哀れだが、幸せだ。彼女の恋人は、もう嘘をついたりしない。そして、未来永劫、彼女のものでありつづける。
「見苦しいまねはおよし、アマリア」
 厳しい声にふりかえると、ムールンが扉にもたれて腕を組んでいた。
 強い非難をたたえたまなざしに、侍女のいう思いやりなどという感情はひとかけらもない。侍女頭がアマリアを気にかけるのは、彼女にイニス・グレーネの命運が賭けられているからである。
 そのくらいのことがわからないアマリアではない。
 つねに冷静に物事を見、すべてをことわりどおりに進めようとするムールンのひややかな姿は、敵であるイニス・ファールよりも冷酷だった。
 アマリアはムールンを見るためにふりかえったことを帳消しにしようとして背をむけた。
「おまえが厭っていることは百も承知の上での婚儀なのですから、ことさら嬉しそうにしろとは言いませんよ。イニス・グレーネの姫君として、恥ずかしくないようにふるまっておくれ。おびえたり嫌がったり、そんなことをして敵を喜ばせないこと。頭をあげて、堂々としていればよろしい。いいですね」
 無言のまま返事をする気のないアマリアに、ムールンは眉をひそめた。
「レーヴェンイェルムの殿とて、おまえを望んでいるわけではないのです。これは相手にとっては取引の一部。いまのところ、あちらは礼儀正しくふるまっているけれど、これからもそうとは限らないのですよ、アマリア・ロゼ」
 ムールンはこれで姪を安心させようとしているつもりなのだろうか。
 滅多に感情をあらわさぬ女の顔は、いつもながらに険しく、とりつくしまもない。
「わたしに、ご機嫌とりをしろというの」
 アマリアはふりかえってムールンを睨みつけた。かすかにきれあがった榛の眼に、ムールンはかすかに気おされたように顎をひいた。
「それが懸命な生き方というものでしょう」
「伯母上にそんなことをおっしゃる権利はないわ」
 どのような理由でかはわからないながらいまだ独り身の侍女頭は、はっと眼を見ひらき、それとわかるほどに顔を赤く染めた。
 アマリアは伯母の禁忌に触れてしまったことに気づいた。ムールンは顔をこわばらせたまま、静かな礼儀正しい口調で言い渡した。
「ならば、これ以上のことを言うのはよしにしましょう。けれど、おまえはイニス・グレーネのすべてをその身に担っている。このことだけは肝に銘じておくんですよ」
 扉がひらかれると、廊下のあわただしい物音が聞こえてきた。
 アマリアは胸にひろがる苦い思いに理不尽な怒りを覚えていた。
 ムールンは何事もなかったように出てゆきかけて、途中で立ちどまった。
「迎えがきたようです。支度を急ぎなさい」



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