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 伯母の助言には、予想に反して効果があった。
 おまえはイニス・グレーネのアマリア・ロゼ。その名に恥じぬ行いを示せ。
 それは奇しくも、アマリアが不幸なトレナルに言い放った言葉とおなじだった。
 臆するな。怯えるな。胸をはって頭をあげろ。
 呪文のように伯母のことばをくりかえしながら、アマリアは長い服の裾をさばくことに神経を集中しようとした。そうしなければ立ちつづけてなど、いられない。
 レーヴェンイェルムがよこした迎えの馬車に押し込まれたときには、まだ余裕があった。
 宿泊所として貸しあたえられていた館から大神殿にかけて、沿道を埋めつくしている人々の多さに驚き、恐怖を感じるひまがあった。エセルが心配そうに手を握ってくれていることに気がつくことができた。自分の手がふるえていることにも、心臓が早鐘のように鳴り響いていることにもだ。
 イニスの大神殿にたどりついたときにも、いざとなればどうにかなるのではないかという、楽観というよりは開き直りの考えにとりすがって、どうにか馬車から降りることができた。
 前を見あげると、白大理石の巨大な建物が下界を睥睨するがごとくにそそりたち、それが尊きイニスを祀る最古にして最大の神殿だった。アマリアはその威容に圧倒され、足がうごかなくなった。
 待ちうけていたのは金糸で刺繍をほどこした白い礼衣をまとった男たちだ。
 かれらが神官であることは、物腰からも言葉遣いからも知れた。
 見慣れたゴス・グラインの神殿に籍を置くものとは、品も格も大きく隔たった、高位の神官たちだった。
 厳かに、かれらはアマリアたちに会釈をする。
 普段なら目にすることもない存在からの、予想をはるかに超えた重々しい応対に、アマリアの緊張はさらに増した。
 当事者にとっては体のいい人質交換でしかないことも、別の場所では歴史上まれにみるほどに重要で、なおかつ、格の高い儀式でありうるのだ。そのことにアマリアはおそまきながら気づかされた。ディアルスとディアドレの婚姻とは、たしかに、神殿にとってはそれだけの重みある出来事だったのだ。
 エセルがかたわらから支えるようにして前進させてくれていることにも気づかずに、アマリアはこれからの手順を説明する神官のまじめくさった顔をぼんやりと見つめていた。
 教典を唱しなれている神官の声は、まるで理解できない言葉で歌われる旋律のようだ。
 神官は白い仮面を手渡しながら、花嫁を信用できない子どものようにあつかった。こまごまとした段取りを、丁寧かつ、手際よく、ときにはアマリアの手をとって教え込む。
 軽んじられたことに腹を立てたのは確かなのだが、おかげで集中がみだれ、神官のことばはとどまることなく流れ消えてしまった。
 いつのまにか、隣にひかえていたはずのエセルの姿はなくなっていた。
 自分をとりまく巨大な空間の静寂は、ここがそれまでのにぎわう人界とは隔絶したところであることの証であるような気がした。
 顔が映りこむほど磨かれた床の上に咎められるのではと恐くなるほどに足音が響きわたり、とり残された心細さが混乱に加わった。
 アマリアは冷静にものが考えられなくなっていた。神官が後から面衣をとり去り、代わりに仮面を付けさせているあいだじゅう、ぼんやりとしてしまう。
 明かりとりの見えない建築物の中にあって、神官たちは手に手に小さな燭台をもち、前にかかげて進むべき道を照らしだしていた。
 精緻な模様のうかびあがる床を、緊張がすぎて麻痺しかけている思考の片隅で美しいと感じ、暗闇にも人の影がさらに濃く落ちるのを不思議に思いながら、アマリアは歩きつづけた。
 そしてさらに天井の高い、ひろびろとした空間に出た。
 神官の後について足を踏み入れたアマリアは、突然の明るさに驚いて目をしばたかせた。
 広場といってもよいくらいの長方形の空間の前方、アマリアから見ると左手の奥に、何本もの太い柱で支えられた大きな円蓋をもつ祭壇があった。ひとつの建物の中に存在するものとは信じられないほどに大きなその部屋は、本堂なのに違いない。
 幾百、いや、幾千本もの蝋燭が、部屋を飾るように炎をあげていた。香料入りの蝋燭の青い炎は、壁面に描かれた美しい女神たちの姿をほのかにうかびあがらせていた。人を見おろすその超越したまなざしに背筋がちぢんだ。
 ここは神の領域にもっとも近いところなのだ。
 ここがイニスの地上の御座所なのだ。
 いまは長い眠りについてはいるが、イニスは本来、世界にあまねく存在する。しかし、まどろみつつ夢見るイニスの存在が唯人にこれほどたしかに感じられる場所は、ほかのどこにもないだろう。
 そう、アマリアははじめて肌で感じた。
 同時に後戻りができないことを深く意識した。これから始まる儀式によって、彼女の運命はさだめられるのだ、ということを。
 膝がふるえるほどの衝撃に襲われたのは、その後のことだ。
 本堂に通じるふたつの回廊。その右と左のうち、アマリアは左のものを通ってやってきた。だから、当然予想していて然るべきであったのだ。相手は右側のものを通ってくるのだということを。
 むかい側の出入口に蝋燭の光がちらちらと見えはじめ、おなじような神官の群れがやってきているのがわかった。
 一行が立ちどまると前にいた神官が燭台を高々とかかげ、むこう側の神官もおなじように返した。
 炎がゆるりと輪を描いた。それが合図だった。
 神官はそろりと前進をはじめ、雷にうたれたようになっていたアマリアはあわててうごきをあわせた。
 まわりをとり囲むものたちは、すべての進行を心得ているらしく、彼女も当然そうだと考えているのだろう。なんの合図もよこさない。
 アマリアは懸命にさきほどの説明を思い出そうとしたが無駄だった。
 むこう側から近づいてくる人影が次第に大きくなり、真中に立つ背の高い人物だけが神官服をまとっていないことや、目の穴だけをあけた白い仮面をつけていることがわかってくると、思考は虚しい空回りをつづけた。
 白い仮面が亡霊のように近づいてくるのを、アマリアはあえぎそうになる息をかろうじてこらえて見まもった。
 額を汗が流れているような気がして顔に触れて、ようやくその仮面に見覚えがあったわけがわかった。自分も仮面をつけているのだ。
 神官が言ったことばが、そこでようやく思い出された。
 この婚儀は神々のなされること。
 あなたがたは人でありながらその身に神をまとうことになる。
 神官につきそわれて仮面をつけたレーヴェンイェルムの殿がやってくる。遅れてやってきた理解はこれは悪夢ではなく、まぎれもない現実なのだという認識をもたらした。
 しずかに、足音もなく、ゆれる影のように歩みよってくる男は、まぎれもなく人だった。
 女王の面前で結婚を宣告されて以来、このことを一度たりとも考えたことがあっただろうか。
 レーヴェンイェルムは父を捕らえ、兄を殺し、アマリアを物のようにあつかう、残忍で冷酷な蛮人の長だった。
 かれは敵であるイニス・ファールの象徴、人を超えた邪悪な存在であって、アマリアにとってはそれ以上のものではなかった。
 だが、目の前にいる男の姿は、容赦のない現実としてそこにあった。
 レーヴェンイェルムの殿は立って、息をし、歩く、ひとりの人間、ひとりの男だったのだ。
 祭壇がちょうど正面に見えるところで神官たちは足をとめた。
 アマリアはレーヴェンイェルムの殿とむかいあった。
 不安定な蝋燭の炎が、ゆるやかにはおったマントの金と紅石の飾り留めをちらちらと光らせているのが目をひく。
 緊張しきって四肢をこわばらせているアマリアとは対照的に、落ち着いた呼吸をくりかえしている胸。背が高く、アマリアは顎をあげずに男の面を見ることができない。
 途方もない威圧感に息苦しくなり、アマリアは男を見まいとつとめたが、視線は吸いついたように離れない。
 レーヴェンイェルムの殿は厳然として、かたわらに立つ小娘のことなど意に介していないようだった。マントよりもかすかに濃いかと思われる色あいの長衣の腰には幅広のベルトを締め、どちらかというと実用よりも装飾に重きをおいて造られた、精緻な鞘に収められた短剣を下げている。
 とたんにレセニウスのことばが思い出された。
 けれどアマリアは、いまではそれを無心に信じることができなかった。
 神の貴い姿は記憶の中で霞のごとくうすれ、クレヴィンや他の者によってさんざんに貶められてしまった。自分でもあれが本当にあったことなのかを疑問に思うことがある。
 そんな考えをいだくことそのものが、ひとつ角の神を冒涜している。不謹慎で、畏れ多いことだと思う。
 けれど現実に神がなんの助けにもならないのなら、おなじことではないか。
 大神官が唱える古代のことばに神官たちが和して、聖堂は共鳴しあう音にあふれた。
 それはまるでアマリアの頭のなかの、混乱する思いにまで反響するかのようだった。
 儀式は順序がわからずとまどうアマリアを置き去りにして進んでいった。
 レーヴェンイェルムの殿は混乱する花嫁を嘲笑するかのごとく、よどみないうごきで期待される手順をふんでゆく。
 銀細工の鞘からひきぬかれた短剣が、すばやく額にむかってふりおろされたときには、アマリアはもう少しで悲鳴をあげるところだった。
 身をかわして後退したあとで、これも儀式の一部であることに思いあたった。
 レーヴェンイェルムの殿は細身の刃を円を描くようにまわして、自分も身をひいたが、だれもアマリアを咎めるものはいなかった。どうやら、それとは知らずに正しいうごきをしていたらしい。
 背筋をのばして相手の仮面を見やる。
 心臓が口から飛び出そうにはずんでいた。本当に殺されるのではないかと思った。
 驚きが混乱に拍車をかけ、孤立無援の心細さが恐怖にとってかわろうとしている。
 アマリアは無表情なしろい仮面の下に、欲望にみちた眼を見たような気がしていた。
 そんなはずはない。仮面の奥を見透かすことができるほどに、彼女が立っている場所は明るくなかった。
 だが、見えた。黒く穿たれた眼窩の奥に、刃のようにぎらりと光ったように見えたのだ。
 それは雨の中でみあげた、ラドクのものにそっくりだった。
 暗闇を引き裂く稲光のごとく、アマリアは全身をはしりぬける悪寒をこらえた。
 森での悪夢が閃光のようによみがえり、目の前の男と盗賊とが重なった。とたんにアマリアはなにもかもをうち捨てて、逃げだしたいという思いに支配された。
 ムールンのことばを思い出さなければ、本当に走りだしていたかもしれない。
 イニス・グレーネがおまえにかかっている。
 クレヴィンの薄情な声が、トレナルの悲痛なまなざしが、アマリアをどうにか踏みとどまらせた。
 だが、恐怖が身体を蝕んでゆくのを阻むことのできる呪文は、どこにもみつからない。
 儀式がおこなわれているあいだ、アマリアはひたすらにこの瞬間が過ぎ去ることを願った。
 ただ立ちつづけるだけのために全身の力をかたむけ、浮き世ばなれした神官たちの姿を、威厳そのもののような大神官の姿を、蝋燭の炎の中に追った。
 視界がぼやけるのは、眼に入った汗のためだろうか。
 それとも、蝋燭にふくまれる香が精神になんらかの障りを生んでいるのだろうか。
 眼に映るものにはなにも意味がなかった。アマリアはとらわれていた。ゆれうごく視界にあわせて、意識は揺さぶられつづける。
 天上での双腕神の諍いは、イニスにみたてられた大神官の御前で矮小な戯画として再現された。
 ディアルスとディアドレはここからふたたびわかれて神殿を出る。
 かれらは神殿前にしつらえられた仮祭壇の前で、大勢の人々の見まもる中、和解の場面を演じなければならない。
 神殿の薄闇から踏み出すと、視界がひらけた。
 それまでの圧迫されるような輪郭の鈍い世界から、突然きりかわった鮮烈な光景に目が眩む。
 仮祭壇の前に歩み出ていったアマリアは、大歓声をもってイニス・ファールの民に迎えられた。
 しかし彼女はその存在を認識してはいなかった。
 神々の化身としてあらわれたふたりのうえには、用意してあったのだろうか、高価な白い花がふぶきのようにふりそそいできた。春めいた風がひとなでしたように、世界が色あざやかにかがやきだす。
 そのようすがまた人々の喜びをかきたて、神殿前の広場は祀りの最高潮をむかえたかのようなにぎわいとなった。
 だが、耳を聾するかともおもえるほどの歓声も、アマリアの耳には届かない。
 彼女は痺れたように呪文を唱えることに没頭していた。
 もし、まわりを見る余裕が残っていれば、きっと気づいたことだろう。
 仮祭壇の脇に設けられた親族用の席に、蒼白な顔をして彼女を見つめている若者がいたことに。
 クレヴィンはいずまいをただし、暗いまなざしで花嫁の一挙一動を見まもっていた。
 視線はその上を素通りしていった。
 彼女が通り過ぎたあと、クレヴィンは唇をひきむすび、目を閉じた。
 雪のように舞い落ちる花びらの中で、アマリアの意識はかたわらの男にそそがれていた。
 イニス・グレーネの敵はかすかに膝を折り、白い仮面をむけて彼女の手をとって和解とゆるしのくちづけをする。
 男の体温をじかに感じると、たとえようもない嫌悪が胸を突いた。
 なまあたたかいくちびるの感触が、あたかも彼女を冒そうとする病のもとであるかのようだ。触れられた箇所から腐ってゆくような気がして、悪寒がする。
 レーヴェンイェルムの殿の肉体。
 恐怖の正体はそれだった。
 未来永劫つづくかと思われた責め苦の後、ようやくくちびるが離れ、そえられた指がひらかれると、アマリアは力なく落ちていく自分の手を遠く眺めながら悟った。
 これ以上、取引はつづけられない。
 レーヴェンイェルムの殿と閨をともにすることなどできない。
 あの男に触れられたら、気が狂ってしまう。廃墟の神殿の巫女のように、恐怖と嫌悪の間をみずからを失ったまま、さまよい歩くようになってしまう。
 それが叶わなければ。
 アマリアはこの男を殺してしまうだろう。
 レセニウスの短剣を突き立てて、眼をえぐり、鼻をつぶし、血まみれにして、いくら悲鳴をあげても赦しをこわれても突きつづけるだろう。ラドクにしたように。
 血に染まるのはレーヴェンイェルムの殿だけではなかった。
 アマリアは飛び散る体液を浴び、みずからの手がぬめぬめと光るのを見つめながら、恍惚の果てに我に返り、血の気がひいてゆくのを感じていた瞬間を思い出してぞっとした。
 自分は人を殺したのだと悟った、気の遠くなるようなあのときを。
 恐ろしかった。
 恐ろしかったけれど、男に対する恐怖はそれ以上だった。
 きっとおなじことをする。暗闇で男に欲望を見たならば。きっとずたずたに引き裂いてしまうだろう。
 アマリアは誓ったのだ。ひとつ角をもつ白いたてがみの御神に。
 それはおそらく、かの神に身を捧げた巫女の持つ、唯一の存在意義だ。
 こんなことを伯母に言えば、世迷い言をと一蹴されるだろう。
 ムールンにはわからない。伯母には感情というものがない。まして、この恐ろしさが暗闇で暴力をふるわれたことのないものに、理解できようはずがない。
 すべてが終わって祭壇の前の緊張がとけたとき。
 アマリアは人々の顔の中にようやくのことでエセルを見つけ、その姉のような胸にとりすがって泣きくずれた。



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