今年は、グラインの野に秋風が吹きはじめるのがはやかった。
イニス・グレーネの都ゴス・グラインは、夏の始まりに受けた衝撃をなんとかうけとめ、いまでは日々の暮らしも例年のとおりに営まれている。
お館アーギル率いる軍が敗れたのは痛手には違いなかった。が、さいわい、戦は都からは離れたところで行なわれた。とりあえずは畑も家も家財道具も無事で、町のものたちが気をとりなおすのにそれほどの努力は必要なかった。
むろん、戦場となったエギリア河の一帯、とくにモントリスの荒廃はひどかった。作物はすべて踏み荒らされ、収穫は望めず、蓄えのほとんどを軍にさしだしていたため、その日の糧にすら困窮しているらしい。
都から救援物資が送られることになっていたが、館の指揮系統に混乱をきたしていたため、なかなか実行に移されなかった。そうこうするうちに、餓えた民が都に逃げてくるようになった。路地には浮浪者のすがたが絶えず見受けられるようになり、盗みが増えた。
それでも、人々の暮らしにゆるぎはないように見えた。かれらは、イニス・ファールに負けたことすら、忘れてしまったかのようにかわりない。
カトリンは薄汚れた小路を歩きながら、いまいましげにあたりを観察していた。
家から館までの道は通いなれた道だったが、そのあまりに変わらないたたずまいに今の彼女は不満を感じていた。
のんびりとひなたぼっこをする猫や、鉢植えに水をやるとなりの少女、さらには寄り集まっては世間話に花を咲かせる女たちに、彼女はあからさまな軽蔑のまなざしをむけて通りすぎる。
もう若いとはいえないくずれた体形の女は、戦があってからずっと、わが身の不幸を呪いつづけていた。彼女にとって、敗け戦は町のものたちよりもずっと身近で、ずっと切実なものだったのだ。
カトリンはまだ若いとき、そう、三人目の子供を死産したとき、女王の次女の乳母として館につとめるようになった。重かったお産のために命を落としかけた女王の代わりに、赤子に乳をやり、抱いてあやし、実の子どものように慈しんで育ててきた。
本来は乳離れするまでの約束であった契約期間がずるずるとのびていったのは、赤子が彼女になついていたことと、女王が彼女の人柄を好いて、側にいてくれと頼んだからだ。
それからカトリンは、アマリアの成長を女王とともに見届けてきた。
きかん気の強い赤ん坊であったアマリアが、いつのまにか自分で歩くようになり、よく笑いよく怒る、愛らしい少女になっていった。従兄のクレヴィンを相手につかみあいの喧嘩をしていたのが、昨日のことのようだ。
いまではアマリアはいきいきと美しい娘となり、カトリンの誇りとなった。男まさりの気性のつよさも、馬を乗りこなすわざも、他の娘ならば傷とも思えただろうが、アマリアにかぎっては徳とも思える。
彼女のアマリアはディアドレの生まれかわりだった。ディアルスの永遠に失われた半身の神、知識をつかさどり、女神イニスの右腕とも言われた、イニス・ファールの祖先の神。イニス・グレーネの民として、そんな不敬の念をいだいたことがいけなかったのだといわれれば、そうかもしれない。
カトリンにとって、この秋は祝いの季節であるはずだった。
お館がイニス・ファールにむけて出立する前に、アマリアとクレヴィンに約束していたからだ。戦がすみ、収穫を終えたら、祝言を挙げてよいと。
カトリンはみなが戦じたくをする間にも、婚礼の準備をはじめていた。
儀式のときに着るいちばん美しい服の裾にはじめた刺繍は、胸のあたりまでできあがっていた。顔を隠すための白い面衣は、薄もので縁に飾り編みを縫いつけてある。
そのほかのこまごまとしたものは、戦が終わってから侍女たちと手分けをして仕上げてゆくつもりでいた。
夏がきて、戦は始められた。が、期待したような終わりは来なかった。
クレヴィンが幽鬼のような顔つきをして戻ってきたとき、敗けたことは察しがついた。男たちは都合のよいことばかりを見たがるけれど、世の中は思うとおりにはゆかないものなのだ。
だが、彼女のアマリアに、このような仕打ちを持ち帰ってくることまでは、いかな悲観主義の彼女であっても予想することはできなかった。
アマリアが拒絶のことばを叫んだとき、カトリンは大声でクレヴィンをなじった。なぜ、許婚者を護ることができなかったのかと。
クレヴィンの蒼冷めた顔を見て、そのままはなしてやったのは甘かったと、いまにして思う。
どういう権限でかはわからないながら、クレヴィンは彼女をアマリアから引き離したのだ。
かわいそうな娘にかわりに付けられたのは、どこの馬の骨かもわからない、陰気な顔をした小娘だった。
カトリンは幾度か女王にじかにこのことを尋ねてみたが、答えははかばかしいものではなかった。
ダルウラは、すべてはクレヴィンに任せてあるのだから、かれに従ってもらいたいとしか言わない。そのクレヴィンを信じられるものならこのようなまねはしないものを、女王はカトリンの心配をまったく気にする様子がなかった。
カトリンはいまも館で支度をつづけている。
いまでは、女王からの肝いりで、オラトールからやってきたという仕立て屋にとびきり美しく高価な服が注文され、それも一着、二着ではなかったが、カトリンは作業をやめようとはしなかった。
そして、ときおり暇を見てはアマリアが閉じこめられている部屋に近づいて、様子をうかがった。
扉に見張りがついているので会うことはできないが、運びこまれる食事などに目を光らせることはできる。
いつものように、その日も彼女は仕事部屋へゆくときに姫の部屋の前を通りすぎようとした。
顔見知りになっていた見張りにそれまでの様子を教えてもらってから裁縫部屋に行くのが日課となっていたのだ。しかし、その日に限って見張りの姿がないことに気づいたカトリンは、使命感から真っ先に扉をひらいた。
部屋の中は記憶にあるものよりだいぶすさんでいた。
午前の光が窓からふりそそいで、埃が舞っているのがはっきりとわかる。絨毯もうす汚れている。クレヴィンの雇ってきた侍女のお里が知れようというものだ。
さらに、散らばり落ちてくる長い糸のようなものが、カトリンの注意をひいた。それがなんであるかをようやく理解したとき、彼女は恐ろしさに声をあげていた。