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 手の中に切りはなされた髪が落ちてきたとき、悲鳴をあげたのは彼女ではなかった。
 アマリアはふりかえって、声のしたほうを見た。
 開かれた扉の側で、まるで魔物かなにかのように彼女を見つめているのは、カトリンだった。生まれたときから彼女の世話をしてくれていた乳母だ。
 アマリアは手の中のものを差し出して、乳母の顔が恐怖にゆがむのを見守った。ゆびをひらいて髪の束を床にすこしずつ落としてゆくと、乳母の口から出る叫びが、悲鳴からようやくことばらしきものに変化した。
「姫さま、なんて…なんてこと。いったい…」
 アマリアはそのくちびるにかすかな笑みをのせた。
 動転している乳母の姿がみょうに滑稽に見えたからだ。
 手にした短剣は、まだ長く残っているもう片方の房にかけられる。ゆたかな褐色の髪。ゆるく波打ち、アマリアの腰よりも長くのびている絹糸のような髪に、鋭利な刃があてられる。
 カトリンはさらにかんだかい声をあげて、アマリアにとびかかってきた。
「おやめください。どうぞ、おやめください。おやめください」
 アマリアはカトリンの突進からすばやく身をかわした。
「あぶないじゃない。おまえは下がってて」
 手をのばして短剣をとりあげようとする乳母に、アマリアはきつく命じた。が、乳母はひきさがらなかった。
「そのあぶないものを捨ててくださいまし。はやく。姫さま、ご自分がなにをしておいでか、おわかりなんですか」
「わかってるわよ、もちろん」
 乳母は信じがたい養い子のふるまいに目をみはって首をふった。
「いいえ、おわかりではありません。髪をお切りになるなど、正気の女のすることではございませんよ」
「女じゃなければ、いいんでしょう。男は髪を切ってととのえるものよ。わたしもこれから男になります。そして兄上とともにイニス・ファールに攻め入る。レーヴェンイェルムの手から父上を取り戻してみせるわ」
「姫さま!」
 アマリアはふさふさとした髪をわしづかみにすると、ぐいとひきのばし刃をあてた。
 片方はすでに、肩の長さに断ち切られている。これを切り捨てれば、彼女はすくなくとも髪型の上では女とは言えなくなるだろう。ここまでのばすために費やした時と、かけられた手間が、短剣を握る手をふるわせる。
 アマリアは、刃の先がぴんと張った髪の束にふれる瞬間、目をつぶった。
 抵抗があった。髪が切られることに意義をとなえていた。
 アマリアは短剣を握りなおそうとした。ふたたび力をこめて、髪に刃をあてる。
 そのとき、手首に衝撃が走り、しびれるような感覚とともに手から柄の形が失われた。
 驚いて目をひらくと、エセルが短剣を鞘に戻しているところだった。
 侍女は落ち着きはらった態度でアマリアに短剣をさしだした。
「乳母どののおっしゃるとおりですわ」
 アマリアは短剣を受けとるとエセルを睨みつけ、鞘から引き抜いた。
「アマリアさま!」
 カトリンの非難には耳も貸さず、アマリアはふたたび髪を切ろうとした。が、その手をエセルががっちりとつかんで離さない。渾身の力をこめてふりきろうとするのに、相手の力はそれを断固としてゆるそうとしない。
「お離し。離しなさい」
 アマリアは侍女を目で非難したが、エセルはすこしも譲らず、かえってさとすようにみつめてくる。おろかなあるじについやす言葉はないとでもいうのか。
「離してったら!」
 叫びながら体をねじり、アマリアはエセルをつきとばした。
 侍女はふりまわされる愚は犯さず、主人から手を放してわきに飛びのいた。
 髪をふり乱したアマリアは、肩で息をしながら一瞬、遠ざかった女を睨みつけると開いた扉にむかって駆け出した。
「アマリアさまっ」
 カトリンの声が背後から追ってきたが、アマリアはふりかえらなかった。
 階段を駆けおり、廊下を走りぬけながら、騒ぎを聞きつけてとり押さえようとする者たちを短剣で脅して進路を確保した。
 侍女たちは悲鳴をあげながらしりぞいた。下男たちは刃物をふりまわす姫にどうやってとりつこうかと機会をうかがっていた。
 しかし、世継の姫は兄に剣を仕込まれており、下働き風情では容易に相手はできなかった。
 アマリアのめつきが正気のものではないことも、美しかった髪が、途中でふっつり断ち切られていることもかれらに二の足を踏ませる原因だった。
 アマリアは剣を構えたまま、まわりの者たちを一瞥し、正面の男に命令した。
「おどき」
 射るようなまなざしにあって、男は逃げるようにうごいた。
 かれのそばにいたものもつられてうごき、アマリアの前には道ができた。
「姫さま、アマリアさま」
 アマリアはくちぐちに呼ばれる自分の名を無視し、館を出てゆこうとした。
 そのとき、新米の侍女につきそわれて女王が姿をあらわした。
 背が高く、威厳ある面立ちの女王はいるだけでその場を圧倒した。アマリアに気圧されていた使用人たちは、あわてて敬意をあらわすために頭を垂れた。
 アマリアだけが母親の顔を恐れげもなく見かえし、さらには背中をむけて立ち去ろうとした。
 ダルウラは娘の行為にひややかな口調で釘を刺した。
「アマリア。おまえは部屋に戻りなさい」
 アマリアはきっとなってふりかえり、断固とした拒絶を表明した。
「いやです」
 女王は他の者たちに持ち場に戻るように手で指示し、娘にむかっては眉根にしわを寄せてみせた。
「わたしはイニス・グレーネのアマリア・ロゼです。わたしのすることにいちいち指図しないでください」
 アマリアは口元を真一文字にむすんで、母親の不快に対抗した。
「わたしのすることはわたしが決めます。いつ部屋を出ようが、食事をとろうがわたしの勝手です。見張りなんてつけてほしくないわ」
 ダルウラはアマリアの主張に二回うなずいた。かすかに笑っていたが、それはおもしろがっているのではなかった。彼女は娘に近づきながらその手にしっかりと握られた短剣に、軽蔑の視線をむけた。
「その主張は思慮分別のある者が言ってこそです。このような騒ぎを起こしてまでしたい、どんなことがあると言うの。アマリア?」
 母親に短剣をもぎとられて、アマリアはくちびるを噛み下をむいた。
 ダルウラは無造作に断ち切られた褐色の髪をなで、あかく染まった頬に手を当てて顔をのぞきこんだ。
「母上にはおわかりにならないわ。おわかりなら、わたしをレーヴェンイェルムのところにやろうなんて、お考えになるわけない」
 ダルウラの顔が曇った。彼女は娘をひきよせようとした。が、アマリアは母がさしだした腕をすりぬけた。
「アマリア。おまえにはすまないと思っています。でも、聞き分けてもらいたいの。今度のことでイニス・グレーネは大きな痛手を受けた。もとに戻そうと努力はしているけれど、それには時間がかかるの。失われたものがとても大きかったからよ。フィランもトレヴィスどのも死んだ。このうえ、アーギルどのまで失うことはできない。それではイニス・グレーネは柱をも失ってしまうことになる。レーヴェンイェルムの殿は手強い相手です。いまは、悔しいけれど譲れるものは譲って、耐えなければならないときなのですよ」
 アマリアはできることなら耳をふさぎたかった。
 わかっている。母の言うことは、みんなわかっているのだ。
 兄や叔父の遺体が、どれだけ無残な傷を残していたか。侍女たちが噂をしていた帰還した負傷兵の話。荒れた畑のこと。餓えた子どもたちのこと。
 いま、イニス・ファールに攻められたらと思うと、生きたここちがしなかった。
 父が、兄たちが守ってくれていたから、アマリアは安心していられたのだ。たのもしい護り手なしの都は、無防備でよわよわしかった。いま、レーヴェンイェルムの殿が襲ってきたとしたら守ってくれるものはなにもない。
 けれど。
「わたしは、クレヴィンを愛してるのよ…!」
「つらいのはおまえだけではないのですよ。アマリア」
 アマリアは顔を背けた。
「でも、犠牲になるのはわたしだわ」
 ダルウラはため息をつき、離れたところに控えていた侍女を目で呼び寄せた。
「クレヴィンを都に呼びました。今日中には、着くでしょう」
 短剣は女王からエセルに手渡された。アマリアは母のことばの真偽をたしかめようと面をあげた。
 女王は肩掛けを喉元にひきよせ、会釈をする侍女にうなずいた。
「クレヴィンに会っても、責めてはなりませんよ。かれの気持ちを考えなさい」
 アマリアはふいをつかれて身をこわばらせた。
「おまえの言うとおり、見張りはやめましょう」
 女王がおし黙ったままの娘を置いて立ち去ると、エセルは静かにアマリアに近づき、鞘におさまった短剣を差し出した。
「もうけして、あのようなまねはなさいませんね」
 ドゥアラスの紋章が柄頭に刻まれた護り刀を、アマリアはひったくるようにつかんだ。それでもひきさがらない執拗な視線を、彼女は挑むように見かえした。
「命令なんてしないで」
 これが乳母のカトリンであったなら、彼女の名を非難をこめて叫んでいたことだろう。
 だが、エセルはかすかにくちもとをこわばらせたのみで、忍耐強く彼女の譲歩を待っていた。
 アマリアはくちびるを噛み、歩きだしかけたが、怒ったようにひきかえしてきて短剣を侍女に投げつけた。
「それほど心配ならおまえが持っているといい」
 エセルは驚いて剣とアマリアを見くらべた。アマリアはふくれっつらをしてふいと顔をそらし、館の玄関へむかって走りだしていた。
「アマリアさま」
 どこへ行くのかとあわてて呼びかけると、ふぞろいな髪をふりたててかすかにふりかえったアマリアは扉のところで立ち止まり、うんざりしたように言いかえしてきた。
「厩にいるわ」



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