馬を急使のように飛ばしてゴス・グラインにたどりついたときには、次の日の夕刻をすぎていた。
城門で門番から誰何をうけたとき、アルベスが主人の名を告げるとなにか動揺のようなものが伝わってきた。往来を通りすぎるときには行きかうものたちに同情と好奇心に満ちた目で眺められて、クレヴィンは気を悪くした。
それに、都のこの平和そうなありさまはなんだ。
戦場から戻ってきたばかりの者の目には、緊迫感などなにもないのんびりとした風情は薄情とさえ映った。
砦には重傷のまだうごけない者たちが大勢餓えや痛みと戦っているのだ。このまえ都を出るときにつよく要請しておいた物資は、満足にもたらされてはいない。その原因がなんであるのかを見せつけられたような気がして、クレヴィンは憤りをおさえられなかった。
馬に鞭をあてて街中を飛ばしはじめた主人のあとを追って、アルベスはあわてて自分の馬にも鞭をあてた。
本当はこんなところで馬を走らせる権利はかれにはなかったのだが、しかたない。歩いていたのでは館にたどりつくまでに半刻はかかってしまう。
日没間際の朱色の世界を人を蹴散らしながら疾走した馬は、館についても興奮覚めやらず、馬丁はおとなしくさせるのに苦労した。
クレヴィンは顔見知りのその馬丁におざなりなねぎらいのことばをかけてやると、ようやく追いついたアルベスとともに館に足を踏み入れた。
「クレヴィンさま」
かれの姿をまるで待ちかまえていたように声をかけてきたのは、アマリアの乳母だった。
「ようやくお戻りになったんですね。いったいいままでなにをしてらしたんです。アマリアさまがどれだけ心細くておいでか、おわかりじゃないんですか。敵方との婚礼だけととのえて、ひとことも声をおかけにならずにまた行っておしまいとは、薄情じゃございませんか。アマリアさまは、お許婚者でございましたでしょうに。こんな仕打ちをするなんてあんまりでございます」
おそらく、ほんとうにかれを待ちかまえていたのだろう。今日戻るというのをどこかから聞きかじってきて、窓から姿が見えるのを首を長くしていたのに違いない。
入ったとたんに文句をまくしたてられて、クレヴィンはむっとしたまま立ちつくしていた。身ぶり手ぶりで情のうすいの身勝手のと、乳母は手にした燭台をほうりだしそうな勢いだ。アルベスがなんとか制止しようとするのだが、彼女はたまりたまった不満を一気にはらしてやると決意しているらしく、挺子でもうごこうとしなかった。
「おまけに、私の代わりにと貴方さまがおよこしになった侍女ときたら、片付けも満足にできないありさまですよ。おかわいそうに、姫さまは汚い部屋の中で悲嘆にくれて、気が変になっておしまいです。それもこれも、みんな、貴方さまのせいなんですよ」
クレヴィンが乳母にとりつかれて身うごきできずにいるうちに、玄関での騒ぎを聞きつけて使用人たちがなにごとかと顔をのぞかせた。アルベスが追い払いにうごきかけたとき、侍女頭がやってきてするどい命令を発し、かれらはわらわらと持ち場に戻っていった。
侍女頭はまだ愚痴を言いつのっている乳母にも厳しい目をむけた。
背が低くずんぐりとしている乳母とは反対に、おなじ年ごろながら侍女頭のほうは背が高く、痩せぎみだった。彼女は視線だけで乳母の口を閉ざし、さらには首をかしげるだけで鼻白ませた。
「乳母どの、支度部屋であなたをさがしておりましたよ。行っておあげになってくださいな」
乳母は不満そうだったが、クレヴィンとは違い侍女頭には文句をひかえて逃げだした。
侍女頭はそれをひややかに見送りながらクレヴィンに告げた。
「ダルウラ陛下がお待ちです。そのままでよろしいですから、部屋においでなさい」
クレヴィンは乳母から解放されてひといきつく間もなく、自分が呼びつけられた理由を思い出して姿勢を正した。
「ムールンさま」
それが侍女頭の名だった。
「アマリアになにかあったのですか。彼女はどうしているのです」
先に立って歩きはじめたムールンは、クレヴィンの性急さを非難してのことか、かすかに声を高めて言った。
「アマリアは元気です」
それ以上のことは言えないとばかりに侍女頭は足をはやめた。クレヴィンはあとを追いながら母親のような歳の彼女の背中にため息をついた。
ムールンは女王の第一の側近である。ダルウラの従姉妹にあたる彼女は、本来は荘園の奥方としてべつの屋敷をきりまわしていてもおかしくはない身分の持ち主であった。
クレヴィンは、彼女が館の使用人を束ねるようになった経緯は知らないが、侍女頭というのは便宜上の呼ばれ方であり、相応の敬意を払ってあたるべき人物であることは心得ている。
だから、これ以上の追求はひかえねばならない。
そうわかってはいたものの、いつもならかれが訪れたとたんにとびついてくるアマリアが、まったく姿を見せないことへのいらだちと、急に呼びつけられたことへの疑問は、ふくれあがるばかりだった。
女王の居室の前までくると、ムールンは扉をあくまでもつつましやかに叩き、入室の許可を求めた。
「クレヴィンなら、中へ」
女王の声は落ち着いていた。さもあろう。クレヴィンが館に戻ってきたことは、すでに侍女から知らされている、彼女は到着を待ち構えていたのだから。
クレヴィンは身につけていた武器をアルベスに預け、ムールンの開いた扉をくぐった。
侍女頭はかれにたいして、奥へ進むように腕をさししめしただけでなにも言わない。かれは女王に対する敬意の印をあらわして、顔をあげた。
部屋は、イニス・グレーネの長たる彼女の地位と権力を充分にあらわしていた。
最高の職人たちの手による家具調度に、西方や南方からとりよせた置き物が彩りをそえている。そこは執務の間だったが、主人が女の性をもつものであることで、どこか艶めいたものを感じさせる場所だった。
とはいっても、ダルウラ自身に女が抱かれがちなつけいりやすさといったものは、どこにもみられなかった。現実に、女王の地位についてから彼女を侮ろうとしたものはいたが、その認識を改めずに抱きつづけられたものはいない。
彼女はおちついたおだやかな顔をしてかれを待っていたが、そのおだやかさはけして親しさではない。彼女にとって、かれは妹の子であったが、いまの女王は甥にたいする情など微塵も感じさせはしなかった。
かれは、伯母がいまは女王としての立場から自分を律し、イニス・グレーネのためならば、非情と思える手段もあえてとろうという覚悟でいることを察した。
そして同志として息子ではなく、かれを選んだことを。
ならば、かれのほうも女王の甥ではなく、ただのクレヴィン・イスラ・ドゥアラスとして、あるいは、父の跡を継いだものとして、ふるまうべきだろう。
「突然に呼び戻して、すまなかったわ。砦の様子はどう」
「怪我人の手当てがはかどりません。イニス・ファールからの援助は、受けるべきだったと思います。敵の施しをうける恥より、民をおろそかにし、心を失うことこそ、怖れるべきかと。モントリスでは、餓死者も出始めています」
くつろいだ姿で長椅子に身を預ける女王は、クレヴィンの率直にすぎる報告に口元をゆがめた。
「そなたがベレックに助言したことは聞いています」
助言ということばに、クレヴィンは苦笑をこらえた。ベレックがそんなおだやかな言い方をするはずがない。
女王は相手の反応は無視して、念を押すように見あげてきた。
「イニス・ファールからはなにも受けとる気はありませんよ。必要とあれば、アーン・アナイスに援助を求めることも考えるけれど」
「聖地から…ですか」
聖地アーン・アナイスは、イニス・ファールの中にある神殿都市だ。その成立ゆえに中立の立場をつらぬいているが、実際は距離的にも経済的にもイニス・ファールに近い位置にいることに違いはない。それでも、イニス・ファールそのものよりはましということか。
「彼の地には、我々のなかから選ばれて巫になった者もいるのですよ」
イニス・ファールの民ばかりが女神を尊んでいるのではないことを、女王は思い出させた。
かれらの呼び名そのものが、女神を慕ってのものではないか。イニス・グレーネ、女神の左に座す者。すなわち、ディアルスの裔、だ。
砦のことはこれまでと、女王はクレヴィンに腰掛けるようにうながした。
クレヴィンはわだかまりを残しながらも女王が話を切りだすのを待ち受けた。
「アマリアのことだけれど」
言いさして、女王は小卓から杯を手にとった。南方産の果実酒で喉を湿らせると、彼女はむかい側に腰掛けたクレヴィンに物思わしげなまなざしをくれた。
「あの子には、立ちどまって物を考える習慣がない。堪え性もない。めだたたぬようにふるまうことも知らない。イニス・ファールに行って、レーヴェンイェルムの殿の目を欺くことができるとは思えない。このことをどう考えているの」
「彼女には、影をひとり、つけてあります」
ダルウラは硬くなっているクレヴィンをみつめたまま、
「その者なら、今日、見ました。たしかに役割を心得ている、よい娘だ。だが、アマリアをあつかいきれるかどうか――」
眉を曇らせる女王に、我慢しきれなくなったクレヴィンは尋ねた。
「アマリアはどうしているんです。急に呼ばれたのには、わけがあるはずだ。お教えください」
女王はすぐにはくちを開かなかった。彼女はクレヴィンが自制を思い出すまで待ち、さらに、ことばを選ぶために数瞬をついやした。
「あの子の心はすさんでいます。なにを言っても、聞く耳をもたない。怒りと悲しみに眼をふさがれて、ほかのことがなにも見えないのです。無理もないこととは思うが、これではレーヴェンイェルムの殿のことを考える以前、婚儀が行なえるかどうかということを心配せねばならない」
ダルウラの瞳がかすかにゆれた。クレヴィンは、彼女が夫を捕らえられ、息子を失った女であることを思いだした。
「アマリアを説得しろと、おっしゃるのですね」
「酷なこととは思います。しかし、あの子にも心構えをさせておく必要がある」
収穫の祭りが近づいている。レーヴェンイェルムとの約束が、間近にせまってきている。
アマリアはイニス・ファールヘ嫁がねばならない。父の命と休戦を引き替えに得るために。
クレヴィンは女王が心の中ではかれとアマリアに同情していることを理解していた。長女のエヴィルの死ののち、アマリアはイニス・グレーネの世継とさだめられた。かれはその伴侶となり、いずれはふたりで彼女とアーギルの跡を継ぐはずだったのだ。そして、なによりもアマリアは彼女の娘だ。母親として、ダルウラは娘の幸福を願っていた。
女王は国のために心ならずも娘の幸福を引き裂くことになり、そのことを気に病んでいる。しかたのないこととは思いながら、クレヴィンヘの命令もどこか遠慮がちだった。
しかし、かれには女王の弱気を嗤うことはできない。
クレヴィンは陰で安堵の息をつきながら、女王の居室を辞した。
かれは怖れていた。
女王の用件のなかばを推察しながらも、自分が行なったことが露見したのではないかと、どこかで怯えていた。知るものはだれもいないと思っていたあのことが、どこからか女王にもらされたのではないかと。
クレヴィンは裏切り者だった。女王の心も、許婚者の心をも欺こうとしているのだ。それでも、自分で自分を欺くことまではできなかった。