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 翌日は晴れわたり、風もなく、馬を駆けさせるにはよい日和になった。
 アマリアとクレヴィンは夜もまだ明けぬうちから寝台をしのびでて、それぞれに厩にむかった。
 フリストとゲムルの仕切りの前で出会ったふたりは、目があうとにやりと笑いながら手にした皮袋を見せあった。
「なにがあった?」
「そっちこそ」
 クレヴィンはふくらんだ皮袋をだいじそうにかかえたまま、葦毛の馬の鼻面をなでながら、食料庫から失敬してきたものの名を告げた。
「でっかいチーズ。ソーセージ。あとは秘密」
 アマリアばどうだといわんばかりの若者に、にんまりとほほえんだ。
「とびきりの葡萄酒。パン。あとは秘密」
 くちまねをして言うと、彼女はいたずらっぼい笑みを浮かべてクレヴィンを見あげた。
 クレヴィンは笑いながら「よし」とうなずく。
 かれらは半刻後には街から出て、馬の背にあった。葦毛と栗毛の二頭の馬は、それぞれに信頼する主人を乗せてゆっくりと駆けた。
 地上をおおっていた朝霞は時とともに薄れ、かわってひろびろとした視界がひらけた。
 初秋の空は青く、青玉のようにかがやいていた。大気は澄んでかぐわしく、楽しげにさえずる鳥たちがときおり頭上をかすめて飛び去ってゆく。
 都からはなれて南へくだると、人は滅多に訪れないロデインの森が見える。
 アマリアはこんもりした森の輪郭が見えるとふりかえった。彼女はクレヴィンが、森へは行かないと言うのではないかと恐れていた。フリストが急に手綱をひきしめられて困惑しているのをクレヴィンは快活に笑って追い越していった。
「なんだ、もう疲れたのか」
 この言い草に、アマリアは背筋をのばすとおもいきりフリストの腹を蹴った。
 ふたりは追いつ追われつしながら草原を駆けてゆき、最後にはほとんど同時に森の縁にたどりついた。
 荒い息をととのえながら、アマリアはあたまをそびやかして主張した。
「わたしが勝ったわ」
「同時だよ」
 やはり肩で息をしているクレヴィンが、興奮したゲムルにてこずりながら反論する。アマリアは残念そうにつけくわえた。
「鼻の差で、だけどね」
「それくらいなら、大目に見るかな」
 クレヴィンは黒い眼をきらめかせると、ふくれたアマリアにささやいた。
「行くだろ、森に」
 アマリアとクレヴィンは、ときおりここに分け入っていた。他のものには秘密でだ。知られれば、どれだけ非難され、叱責されていたことだろう。おそるおそる禁忌を破ってから数年たつが、いまだに事は露見していない。
 ロデインの森は聖なる場所であり、より以上に凶々しいものにみちたところとされていた。ここにはいにしえの不可思議な力がいまだに残っている。ひとびとは、足を踏み入れることで静寂をかき乱し、よからぬ物事がひきおこされることを畏れている。
 ロデインの森にはたくさんの逸話があった。ひとが入り込まないところであるにしては、不思議なほどに数多く。大人たちは子供に、炉辺の語りやしつけのためにそうしたことを教えさとしてきた。
 それゆえにここには誰も近づかない。
 それを承知でのかれらの共犯関係は、まだつづいている。アマリアはさきほどの恐れが意味のないものであったことに安心しながら、つよくうなずいた。
 聖なる森に足を踏み入れるのに、いくらかれらでも馬に乗ったままというわけにはいかなかった。
 アマリアはフリストから飛びおりると、手綱をとって木々の間に刻まれた小道を歩きはじめた。クレヴィンは落ち着かないゲムルをひいてその後につづいた。
 森の空気は汗ばんだ肌にひやりと冷たかった。鬱蒼と茂る葉のあいだから、鳥のさえずりが聞こえる。それ以外の物音は聞こえない。ふたりの人間と二頭の馬の出す物音は、しずまりかえった薄暗がりの中で神聖をけがすかのように大きく響いた。
「ここに来るのも、ひさしぶりだな」
 クレヴィンの声はすこしも怯えたようすがなかった。かえって、森にはいって気が楽になったかのようにほがらかだ。
 アマリアは歩きながらクレヴィンが以前と変わりないことに安心していた。昨日のことは、なにかのまちがいだったのだ。
 彼女は足をはやめ、手入れのゆきとどかない森の道をそのいきつく先へと急いだ。
 しばらくゆくうちに屋根のように頭上をおおっていた枝がとぎれた。その場にたどりつくと陰がふつりととだえ、青い空が顔を見せた。太陽が地面を照らしている。
 そこは過去になにかの儀式がおこなわれた場所らしく、ふぞろいの石で祠らしいものが組みあげられていた。アマリアの背丈の半分ほどの大きさしかなかったが、そこを中心にしてほとんど館の厩ほどの広さの敷地に、樹が一本も生えていない空間がひろがっているのだ。
 アマリアとクレヴィンはずいぶん前にここを見つけ、ふたりだけの秘密の場所にしていた。
 かれらはこの場所が他のだれにも知られないように、細心の注意をはらっていた。館でいやなことがあったとき、ふたりきりになりたいとき、よくここにやってきてしばしの時を過ごしたものだった。
 それも、ふたりとも大人としてあつかわれる歳になってからは、そうたびたびのことではなくなっていた。理由はおもにクレヴィンの側にあった。かれのほうが歳が上だったのに加え、父親について学ばねばならないことが多かったせいだ。
 クレヴィンの父は、アーギルの側近として重要な地位にあった。表立ったことはすべてフィランがとりしきっていたのに対し、かれはより重要で往々にして汚いとされる隠れた政を任されていた。
 クレヴィンの父親は、アマリアにはよくはわからない、さまざまの手管や駆け引きを息子に仕込むのにかなりの時を費やしていた。地方へ視察に出かけるときに息子を伴うことも、珍しくはなかったはずだ。
 そのころからだろうか、ともに遊んだ幼なじみがすこしずつ、すこしずつ、べつの意識を備えた、べつの人間に変わってゆくような気がしたものだ。
 それでも、クレヴィンのほとんどは彼女の知っているかれのままで存在していた。いまのように笑っている姿をみると、アマリアの抱いた不安は杞憂のようにも思える。
 皮袋から出してきた食料ではやめの昼食をとったのち、クレヴィンは空き地に繁る草の上にあおむけになって休んだ。
 アマリアはすぐそばに腰をおろし、くすくす笑いながら空になった袋をはたいてたたんだ。
「いったいどこからあんなソーセージをみつけてきたの。わたしが食料庫に入ったときには、あんなに大きなものは見あたらなかったわよ」
 クレヴィンは食後のものうさに身を任せてもごもごと答えた。
「ああ、アルベスに頼んだんだよ。やつは軍用の倉庫から持ってきたのかもしれないな」
「ずるい。そんなの、ルール違反じゃない」
「食料庫に行けるほど元気だったら、ゆうベベレックになにか気のきいた反論ができただろうよ」
 憤慨していたアマリアは、クレヴィンが疲れた顔をして溜め息をつくのを見て、腕をつねるのをやめた。
「ごめんなさい。わたし、気がつかなくて」
 アマリアはクレヴィンの黒い瞳を見つめ、顔にかかった髪をはらった。
「隈ができてる」
 ゆびで若者のがっしりとした顔にふれてゆき、眼の下に疲労の徴があらわれていることに気づいてそう言うと、かれはほほえんだ。
「おまえは痩せたな」
 アマリアはゆっくりと顔を近づけてゆく。ゆっくりと。
 くちびるがかさなり、何度かかさねられたのちに、彼女は深い溜め息をつきながら若者のとなりによこたわった。かれの肩に額をおしつけ、腕をだきかかえた。
 クレヴィンは手をのばしてアマリアの手にふれた。
「わたしを愛してる?」
 アマリアのささやきにクレヴィンはうなずき、手を握った。そよかぜがかれらの上を吹きわたり、髪の毛がふわりと浮いた。
「アマリア」
 あらたまった言いかたにアマリアは目をつむり、からだをクレヴィンに押しつけた。
「おまえはおれのものだ。おれは、おまえをレーヴェンイェルムになど、やりたくない。だが、いまは、そのようなわがままは言えないんだ。わかるだろう」
 アマリアは反射的に言いかえそうとしたが、クレヴィンの疲れた苦しげなようすにことばがでなかった。
 わかるだろうと言われて、わからないとはねのけられない。
 はじめの勢いは、すでにアマリアの中にもなかった。冷静になる時間が多すぎたのだ。
 それでもアマリアは首をふった。
「わたしは、クレヴィンのお嫁さんになるんだもの」
 ことばに力はなかった。クレヴィンはしがみついてくるアマリアの肩に手をまわし、褐色の髪にくちづける。
「クレヴィンだって、そう言ったでしょ。ここで、ディアルスにかけて誓ったじゃない」
 それはふたりがまだ幼かったころ、たわむれにされた誓いだったのだが。
「アマリア、約束するよ。誓いは守る。おまえをいつか必ずレーヴェンイェルムのところからとりもどすよ。それまで我慢してくれないか」
「そんな、できるかどうかもわからない約束なんか」
「できる」
 怒りをふくんだ強いことばに、アマリアは上体を起こしてクレヴィンをみつめた。
 ゆっくりと起きあがった若者の瞳は、固い決意で彼女の瞳をまっすぐに射抜いてきた。
 アマリアは息をつめ、おしころした声で「ほんとうに」とたずねた。
「イニス・ファールを倒しておまえを迎えにいくよ。レーヴェンイェルムの殿は、そのとき息の根をとめてやる」
 燃えるようなまなざしで新たな誓いをたてるクレヴィンに、アマリアはからだを投げかけた。
 くびに腕をからめ、ひきよせる。
「女神さまにかけて誓って」
 頬にくちびるをよせ、さらに強い拘束をともなう誓いを求める。
 アマリアは必死だった。噛みつきそうなまなざしにか、女神の名に怯んでか、クレヴィンはかすかに瞳をゆらがせた。
「誓う、イニスにかけて」
 深い溜め息のように、ことばは吐き出された。
 至高のイニスの名を口にしたからには、この誓いを破ることはできない。
 破れば、女神への冒涜になる。
 それはみずからの命をかけて行なう最高の宣誓だった。
 アマリアはからだを離し、まっすぐにクレヴィンを見つめた。
「わたしも誓うわ。その日が来るまで耐えてみせる。レーヴェンイェルムの奥方になっても、ずっとあなたを待ってる。クレヴィン、わたしをけがす男を、きっと殺して」
 榛色の瞳が、火のように熱かった。
 娘は、まだ見ぬ男への憎悪を、これから抱くだろう恨みを、存在も見えぬ今からはらすようにせまっていた。若者の顔は、くちにした言葉の重大さにかすかに青ざめたようにも見える。
 アマリアはまぶたを閉じて前に手をかざした。その手に、ひとまわり大きなクレヴィンの手があわせられる。かすかにしめった感触が、押し隠した緊張をものがたっていた。
「イニスの名にかけて誓う。われらがいま、口にせしこと、必ずなしとげんことを」
 ふたりの声が静かな森にひびきあう。
 葉ずれの音も鳥の声も、すべてはかれらの誓いをあかしだてる証人だった。
 女神にたてる誓いとしては簡素にすぎるやり方だったが、その心の真撃さにおいては、かつてイニスの名を口にした者たちにくらべて劣るようなことはなかった。
「この誓い、破られしときは」
「破られしときは」
 アマリアは息をつぎ、目をひらいて最後のことばを放った。
「――女神さまの裁きのままに」



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