翌日。
東の空が白み、鳥のさえずりが聞こえはじめるころに、最後の支度を終えた一行は、とうとうイニス・ファールヘと旅立つことになった。
花嫁の一行は、持参品の荷車が五台、侍女と下男の乗った荷車が二台、花嫁の馬車とそれを護衛する兵士が三部隊の総勢六十名。
それを率いてゆくのが女王の親書をたずさえた侍女頭のムールンと館代理のベレックだった。
秋にしてはめずらしく、太陽の姿を拝みつつ一行は進んだ。都ゴス・グラインを出て、街道を西へむかう。
うねりながらつづく丘陵地帯は久々の陽光をあびて輝き、さわやかな風が枯れかけた草をなびかせてさやさやと音をたてる。その静けさをうちやぶり、花嫁行列はゆく。
がたがたとゆれる馬車の中で、アマリアは押し黙ったままうつむいていた。
馬車の中には三人の女がいる。アマリアと彼女付きの侍女エセル。そして伯母のムールンだった。
四角く切られた窓に垂れ幕を下げ、中を見られないようにしている馬車の中は、小春日和の暖かさをこえて蒸し暑くなっていた。
アマリアは、普段ならとても着る気になれない衿が喉まで詰まった服を着ている。輿入れのために新しくあつらえた衣装だった。
なれないものを身につけて、アマリアは息が苦しかった。おまけに暑い。
「伯母上」
ムールンはアマリアの呼びかけに目をぎょろりとうごかした。
「なんです」
アマリアはこの伯母が苦手だった。というより、ドゥアラスの館の者で彼女を相手にひるまずにいられるものなどいたろうか。女王ダルウラをのぞいて。お館アーギルですらよくて対等、他の者はこの女性に対し、敬して遠ざける態度をとりつづけている。
「窓をあけたいんです」
望みは言下に切り捨てられた。
「いけません」
いつもなら、状況をあまんじて受け入れるようなアマリアではない。だが、慣れない旅をしているのと、相手が悪いのとでそれ以上を言うのが億劫だった。
ムールンとて、暑さを我慢しているのはおなじだった。窓を閉ざすのには理由がある。
かりにもイニス・グレーネの姫であるアマリアを、騎士はともかくその従者などの視線にさらすことはできぬ、というのがひとつ。
あとのひとつはこれが初婚の花嫁の行列だからである。初めて嫁ぐ処女は、レセニウスの神殿、一角獣の館と呼ばれる神殿に婚姻を報告する義務がある。その道中は男に顔を見られてはならないのだ。行きは御神レセニウスのために、帰りは夫となる男のために。
花嫁となる娘を世話するのは女ばかりとなる。整備された街道とはいえ、完全に安全な道などない。野盗の餌食にならぬよう、護衛をつける。姫君ともなれば侍女の数も多くなる。一行の人数が倍増するゆえんである。
そんなことを言っても、窓をすこしばかり開けるだけで中をのぞけるとは思えない。両脇を護っている騎士たちは馬に乗って、少し離れたところを歩いているのだ。
それに、心ある騎士ならば、そのようなことは恥ずべきことと承知している。
昼食をとるために休止した馬車から、侍女たちを指図するためにムールンが出てゆくと、エセルは侍女頭が閉めた扉を半開きにした。彼女は首だけを出してあたりをうかがうとアマリアに窓をあけるようにうながした。
「姫さまはそちらを見ていてくださいね。ムールンさまがいらしたら…」
「すぐに閉める」
アマリアは姿勢をくずして溜め息をついた。外の空気が中の空気と入れ替わる。汗ばんだ首筋にそよ風がひいやりとして心地よい。
侍女はさすがに姿勢はそのままだが、新鮮な空気を満喫して安堵しているようだった。
「おまえがいてくれて、よかったわ」
アマリアは年の近い姉のような侍女にほほえみかけた。
「伯母上とふたりきりだったら、きっと逃げだしているもの」
エセルは年下の姫君のいいように苦笑をかみころして、けれどたしなめるように応えた。
「姫さま。ムールンさまはしきたりどおりになさっているだけですのよ」
「しきたりどおりなら、イニス・グレーネの世継は嫁入りなんてしないわよ」
アマリアがむくれて外を見ると、秋の色に変わった草はらに馬の影が黒々と落ちている。
あわてて幕を下ろしたが、乗っていたのはベレックだった。兄は陽に焼けてしわだらけの顔ににやけた笑みをうかべてアマリアを一瞥し、消えた。
すぐ上の兄であるベレックは、意志に反して嫁がされる妹にもたいして同情を感じていないようだ。かれが考えていることは、他人の感情を読みとることにさほどたけていないアマリアにすら推測できた。
「兄上ったら」
舌打ちせんばかりの言い捨て方に、侍女は怪訝な顔で聞きかえしてきた。
「ベレックさまでしたの」
アマリアは外をうかがうと幕をあけて、兄を乗せた馬が去ったと思われる方向を睨んでいた。
「どうして兄上なのかしら」
「なにがです」
「クレヴィンはどうして見送りにも来てくれないの」
アマリアは窓に背をむけると、エセルの側にやってきた。長い裾がからまるのも気にせずに。
「クレヴィンさまは、いまは砦にいらっしやるはずですもの。ご婚礼の儀式には、おいでになりますわ」
服のしわをなおしてやりながら、エセルはおだやかに言った。
「そういうことじゃないわ。イニス・ファールなんかで会えても、どうしようもないじゃない。話なんて、できやしないわ。エセルは知っているのでしょう。クレヴィンがなにを考えているのか。教えて」
アマリアはエセルをくいいるように見つめていたが、エセルは彼女を見返しはしなかった。彼女はあいかわらずおだやかに答える。
「クレヴィンさまがなにをお考えであろうと、私ごときの思いつくようなことではございませんわ。私は、アマリアさまをおたすけするようにといいつかっただけですから」
アマリアは息をつめるようにして侍女を見すえている。
エセルはかすかにみがまえた。
この娘はなにかを知っている。
だれかがアマリアに吹き込んだのだろうか。しかし、思いあたることはなにもない。クレヴィンがみずから告げたのならべつだが、かれがアマリアには言うなと厳命を下したのだ。本人がそれを破るだろうか。
思案をめぐらせているエセルに、アマリアは言った。
「なぜ、クレヴィンは護衛をひきうけてくれなかったの」
「それは…」
「母上はクレヴィンを責めるなとおっしゃるけれど、クレヴィンは、わたしを見てくれない」
アマリアはクレヴィンを誓いで縛った。
しかし、そんなことまでする必要はなかったのだ。女神の名を出してまで、相手を確かめるようなまねをする必要は。クレヴィンのまなざしが、それまでのようにまっすぐに、アマリアを見つめてきたのであれば。
アマリアは不安なのだと、エセルにはわかった。
見も知らぬ年上の男、しかも、彼女にとっては敵でしかない男との強引な婚姻。それだけでも十分に気のふさぐことであるのに、そのためにアマリアは婚約者との仲を引き裂かれることになった。
いまのアマリアの頼りは許婚者の想いだけだ。なのに、肝腎のクレヴィンの関心は、どうやらアマリアの上にはないらしい。
「アマリアさま、それは杞憂というものですわ」
エセルはとりあえずアマリアをなだめることにした。侍女たちの声が近づいてきている。
「クレヴィンさまは、姫さまのことを思って私をお付けになったのですよ。私は姫さまのためとあらば命を捨てる覚悟で参りました。どうか、お疑いはお捨てになってくださいませ」
最後のほうは小声で早口になった。エセルは言いながら幕をおろすように合図をした。
アマリアが自分の位置に戻り、とりすました顔で姿勢をただすと同時に、エセルが閉じたばかりの扉が開かれ、ムールンが戻ってきた。
侍女頭は何事もなかったかどうかを確かめるように馬車の中をひとながめすると、おもしろくもなさそうなようすで告げた。
「支度がととのいましたので、おいでください。面衣を被るのをお忘れなく」
アマリアは昼食をにわかづくりの天幕の中でとった。
せっかくの晴天もここちよい風も、馬車から天幕への移動の短い間、薄衣ごしにしか味わえない。
ためしに食事の後に外をすこし散歩してよいかと尋ねたが、ムールンの返事は否だった。
「だって、面衣を被っているのに」
不平に対するムールンの返事は、辛辣で容赦がなかった。
「お館さまは、姫さまよりももっと不自由にお過ごしなんですよ」
こう言われてはアマリアは黙るしかなかった。
イニス・ファールに囚われている父の様子は、いまだにはっきりとはわからない。アマリアは幾度か尋ねてみたが、だれもはかばかしい答えを返してはくれなかった。クレヴィンなどは彼女を痛ましげに見やったまま、なにも言わずにすませてしまったほどだ。
かれらとて好きこのんで口を閉ざしたわけではない。確かなことはなにもわかっていないのだと知らされたのは、ようやく女王からだった。
イニス・ファールはアーギルのものだという書状を持参した。それはたしかにお館の書いたものであった。だが、生きたアーギル本人に会ったディアルスの民はいない。
イニス・ファールとの交渉に直接当たったものも、会わせてはもらえなかったのだ。
このことをイニス・ファールは、アーギルは重傷を負っているため、人に会えるような状態ではないと説明した。あいだに立った神殿の祭司もこれを確認した。神殿の人間を疑うことはできない。イニス・グレーネは説明を受け入れざるをえなかった。
だから、ムールンのことばに根拠はない。アーギルがどのように日々を過ごしているのか、見たものはいないのだから。
けれど、厚遇を受けていると考えるものもいなかった。なんといっても、相手は敵だ。
おまけに、今回の戦をしかけたのはこちらだった。結果はどうであれ、被害者意識は消えていないだろう。襲いかかってきた当の相手をにこやかにもてなすような気持ちになるはずがない。
アマリアは深呼吸をして涙をこらえた。自分がひどくなさけなかった。
父親のことも思いやれず、ムールンに叱られて。それでも、面衣のわずらわしさが思い切れない。
蒸し暑い馬車の中も、同行の伯母も兄も侍女も、すべてが不快で気に入らなかった。
神殿に行くのが、どうしてそれほどまでに重要なのだろう。嫌なことが後に控えるみちのりの、だらだらとつづく長さに息がつまりそうだ。
結婚する相手がクレヴィンだったなら、こんなにまで情けない思いをすることはなかったはずだ。むしろ、道中が楽しくて仕方がなかったに違いない。
だが、我慢しなければならない。
クレヴィンと誓ったように、母とも約束をしたのだ。
イニス・グレーネのアマリア・ロゼとして、運命にたちむかってみせると。