prev 一角獣の虜[Chapter 3-6] next

 忙しくたち働く人々の間をかいくぐり、リルはかしらと呼ばれる父親の館に駆けこんだ。
 彼女の姿を見ると、皆が声をかけた。中で働く者たちも、今日の狩りの首尾を知りたくてうずうずしているのだ。
 質問は無視して、リルはあたたかくて居心地のよい台所をめざした。
 松明の燃える館の中は、それほど広いわけではない。館と呼ばれるのは住人が強制したからに他ならなかったが、リルにとっては自分の家が館にふさわしいものであろうとなかろうと、どうでもよかった。
 館は彼女の全世界のほとんどを占めている。この世界のことなら、リルはすみずみまで知っていた。じぶんで歩けるようになってから、数えきれないほど探険してまわったのだ。彼女以上にここを知っているのは、ねずみぐらいのものだろう。それに、猫のディードもいれてやるべきだろうか。彼女はねずみ捕りの名人だから。
 そのリルが、唯一、知っているとは言えない部屋の扉が開いていてた。台所へゆくためにはどうしても通らねばならない道なのだが、リルはためらって足をとめた。
 ラドクヘの怒りは、いまではすっかり冷めてしまっていた。
 かわって、荷馬車の女を見たときに感じた妙な感覚が甦って、気分が滅入った。
 リルはまだ、その感じが畏れであるという認識をもたなかった。ただ、この部屋、いつもは固く閉じられた扉のむこうにいる女性が彼女にあたえるのとおなじ感覚だということがわかるだけだ。
 恐ろしくて、けれど、どこか慕わしい。
 ラドクはリルのこの感じをまったく理解してくれなかった。父親も、乳母もだ。
 彼女のまわりのやさしくしてくれる人々は、彼女がときおり感じる妙な畏れを、あたまから信じず、笑い飛ばしてしまう。
 けれど感じることはやめられなかった。
 なぜなのだろう。なぜ、ほかのものたちにはわからないのだろう。
 リルは半開きの扉に、そっと近づいた。
 薄暗い部屋の中から漂ってくる匂いに、リルは鼻をおさえた。眉と眉の間が、じんと痺れる感覚が残る。
 おそるおそる部屋の中をのぞくと、いくつもの蝋燭に火がともっているのが見えた。
 そのあかりによって中央にうかびあがっているのは、長い衣をまとった、女の姿だ。
 女はだるそうに長椅子の上でクッションにもたれていた。金糸銀糸で縫いとられた鳥の姿の美しいクッションは、父が与えたものだ。ほっそりとした腕を椅子の背にのせ、ちいさな白い顔をやはりクッションにあてている。
 女の顔をふちどっているのは、やわらかく波打つ長い髪だ。他の女たちがするように、編んだり結ったりはせずにながれるように垂らしている。その色は、リルにはまったくわからないのだが(その女性を明るいところで見たことがないせいだ)、彼女の髪によく似ていると乳母が教えてくれた。
 女は若くはなかった。けれど、年寄でもない。
 女が乳母たちのように生きているとは、リルにはとても思えなかった。彼女は人間ではないようにも思えた。
 女には、笑いがない。リルを見るときのめつきは、父親が手に入れためずらしいものを見せられたときのように無感動だ。それでリルはいつもきまりの悪い思いをしていた。父親はそれでもリルを何度も彼女にむかわせようとするからだ。
 けれどあの女は、まるでちがう。
 リルを見かえすまなざしには生気があふれ、いきいきと輝いていた。おもわず見とれそうになるくらい、魅力的な瞳だ。
 ひきしめられたくちびるに緊張した眉も、はじけそうになっている感情の激しさを暗示していた。
 なのに、どうして感じるのだろう。おなじ感覚を。
「リルさま?」
 しわがれた声に呼ばれて、リルは全身が総毛立った。
「そこにいるのは、リルさまかね」
 声が近づいてくるのに恐れをなして、リルは息を殺した。
 声の主があの女性にかしずく年老いた女のものであることは知っていた。
 リルは、しわだらけの老婆も恐ろしかった。老婆は彼女に邪険だったわけではなく、むしろ好意をもっているようすだったが、それがなんだというのだ。
 老婆は女に寄せる敬意のおこぼれを彼女にあたえる。それはリルがあの女性とおなじものと言っているのとおなじことだ。
 その場をそろそろと離れようとしてむきをかえたときに、リルは近づいてくる人の気配にふりかえった。その人物が父親に片腕として重用されているカーズという男であることに気づいて、リルは全身が凍るかと思われた。
 カーズはいつも、リルの姿に嫌悪のまなざしをそそいでいる。
 カーズは自分の存在を認めたくないのだと、リルにはわかっていた。
 しかしその理不尽な態度に対する憤りよりも、男の威厳と荒々しさに対する畏怖のほうが強い。
 リルはカーズが母親の部屋に行くのだと悟って逃げだした。
 台所の炉端にすわりこむと、鍋底をなめるように這いあがる炎をながめながらため息をつく。
 リルをとらえた妙な感覚はいまだぬけきらず、逃げだしてはきたものの、解答はあの部屋にあるという思いはつのるばかりだった。
 鼻にくる香の匂いを思い出して、リルはみぶるいした。
 父親がうばってきた白い仮面が、じぶんを見ているような気がする。祀りの夜につかわれるものだとだれかが教えてくれた、表情のない面。彼女を産んだ女の顔は、あの仮面のようにとりつくしまがない。
 じぶんもいつかはあのようになるのだろうか。昼でも薄暗い部屋にこもりきりで、話しもせず、笑いもせず、虚ろな顔をして。
 おそろしい考えをふりはらおうとして、リルは炉端から立ちあがり、皆が集まっているはずの広間にむかった。
 さきほど奴隷女に感じたことは、夢であったことにしようと決めていた。そうすれば、ラドクももう、からかったりしないだろう。



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